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フィールド日記

2012.12.03

リンドウの花  ハエトリグモの幼体



 

 2012.12.03 Monday
 雑木林の林床にリンドウの花が落ちていました。下草狩りの時に一緒に刈られてしまったものと思われます。花の中には越冬中のハエトリグモの幼体が潜んでいました。体長は3ミリ程度ですが、ハエトリグモの特徴ある目の様子が写真からもよくわかります。ハエトリグモは昼行性のクモであるために夜行性のクモよりも目が発達しています。


 
                                               今日のことば

 人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまねばならぬものです。この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生
そこに没頭してみて下さい。神はそのような人間の姿を一番愛しています。
「竹青」(太宰治)より

2012.12.02

ヤツデの花  トゲハネバエ

 

 2012.12.02  Sunday

 校舎の裏の林の中でヤツデの花が咲き始めました。12月に入ると花の数はめっきり少なくなりますので、冬に活動する生物にとっては、ヤツデの花の花粉や蜜は貴重な栄養源となります。
写真に小さく写っている昆虫は双翅目の昆虫で、専門家の方に同定を依頼したところ、まだ標本や文献の整理の進んでいないトゲハネバエ科の仲間であることがわかりました。「複眼沿いの剛毛が1本で肩瘤に剛毛が無いのでSuillia属の可能性が高い」との推測でした。


 
今日のことば

 集会の翌週、外来でお会いした患者さんが、ニューヨークタイムズ紙のある連載を紹介してくださった。彼と同じ病気を患う記者によるエッセイである。『精神の恢復を待ちつつ家で憂慮する日々』と題した十月二十日付の紙上には、病に対処しようとする作者の心の内が認められていた。
「憂慮は私の友である」。「スターバックスでの気ぜわしい一時間の会話はもう沢山だ」。
「この期間を通して意識的、無意識的に、私は自分の生活を単純化させてきた」。
「私は自分の所有物に所有されるのではなく、それらを切り捨てることに深い喜びを覚えるようになった。私は取りつかれたように古いEメールのメッセージを排除していった。まるでそれらががん細胞であるかのように」。引き込まれるように一文、一文を読みながら、先の集会の一室でスピリチュアリティの話を伺ったことを思い出した。(中略)
あらゆるメディアに人の目を引く文字が氾濫する昨今、虚飾のない言葉に触れることは稀になった。
めまぐるしい日常から一歩身を引いた時、そうした言葉が私たちの中にすっと入ってくる。
一番星の光が強まってきた。森の音、川の音が上流より聞こえる。バーモントは冬に入った。
川辺の木々は何に抗うことなく葉を落とし続ける。大地が雪や氷に覆われるまで、その営みは続く。
虚飾のない言葉は、自然の営みに似ている。語り手の心を離れた言の葉は、読み手の心の中を降り、そっと積もっていく。そしていつしか土になるだろう。読み手に何ができるわけでもない。それでも自然の中にいるように、心から舞ってきた言葉には、静かに心を開いていたいと思う。

                          「アメリカ便り」(森雅紀)より

2012.12.01

カラスウリ  名随筆「からすうり」(宮柊二)

 

2012.12.01 Saturday

「共生の森」でカラスウリの写真を撮りました。カラスウリは夜間に絹糸のレース編みのような花を咲かせることで知られています。その花の受粉を夜行性であるスズメガ科の蛾などが助け、やがて写真のような実に姿を変えていきます。
今日の「今日のことば」では、歌人の宮柊二の名随筆「からすうり」を紹介します。
 

学校法人聖心女子学院のFacebookで「共生の森」を紹介しました。
http://www.facebook.com/SeishinNetwork
 


今日のことば

 私は毎朝早く家を出て勤務にむかうが、家を出て竹藪沿いに舗道に出るまでのあひだ小径約200メートル、小径のおしまいの30メートルほどを没し隠して草叢があり、草叢の右側は人の邸の石塀、石塀のなか側に杉の木が立っており杉の木の幹に攀縁している烏瓜(からすうり)が見える。
烏瓜はそこにのみあるわけではないが、その杉の木に攀縁している烏瓜は特に美しい。何故なら私が其処をとほるときは一日の時刻の早いころでまだ浄い静かな朝日が一杯に当っており、その中で烏瓜の紅熟した果がそれこそ光っているのである。そんなとき、ふっと憶うことがある。
語っていいのかどうか少し臆するが、実は私は只今の家を移らなくてはならぬことになっている。
人の言葉のままに住居を移さなくてはならぬ寂しさに、自分の家を持ちたい欲望にかられ、夏ごろから駆け廻って、或る一戸を漸く捜し得た。しかし、殆ど約束が決まったとおもった瞬間に崩れてしまった。理由は他にもあるが強いて言へばもうすこし金を用意してあったらと思われる節もあった。
この話を或る友人にある席で案じられて問われるままに話したら、翌日電話がかかってきた。
その足らない十何万円は用立てるからその家を手に入れたらいい、その十何万円は使途あって用意して置いたのだが提供するから遠くに去らないでくれ、という言葉だった。その家は、友人と只今の私の家の中間にあった。しかし、事は済んでしまって再び元に還らないまま私の妻は友人の家へお礼の言葉のみを述べにおとづれた。そして帰ってきて告げるに「帰りの道に烏瓜が一杯なっていて、美しくて」とあった。友人の言葉のかなしさに、妻は烏瓜を見る自分の心を育くんだのだろうか。
烏瓜は一名「たまづさ」と言う。歌の上で枕詞「たまづさの」は「妹」につづくが、これはからすうりのこの麗しいところから出ているのだという一説がある。燦々として赤くかがやく烏瓜を朝光の中に見ると、私は以上の一挿話を憶い出すのである。

 道の辺に生ふる烏瓜又の名を玉づさといふと聞けばゆかしく  子規

                                      

                                   宮柊二

2012.11.30

イロハモミジ  不二聖心の紅葉の由来

 2012.11.29 Thursday

 不二聖心の紅葉も、ようやく盛りを迎えました。不二聖心には、かつて関西の財界人として名を馳せた岩下清周氏が裾野に移り住んでのち関西の紅葉を懐かしんで京都から取り寄せたイロハモミジがたくさん生えています。
   不二聖心の前身である温情舎小学校を創立した岩下清周氏については、星新一の 『明治の人物誌』(新潮文庫)や小島直記の『日本策士伝―資本主義をつくった男たちー』(中公文庫)で詳しく知ることができます。
以下のURLをクリックすると、中島久満吉の『岩下清周伝』の一部を読むことができます。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/iwasita.htm

 
 

                              今日のことば

 ヒトは、あまりに大きな危険に直面したときは、むしろ危機意識が薄れて、恐怖心がまひしてしまう。
そのような心理状態に陥ると、危機を回避するための適切な行動がとれない。さらにそれが高じると、
自殺行為ともいえるような行動をとることもあるという。
地球環境の危機がこれほど深まり、科学的にもその実態が明らかになっているにもかかわらず、いまだ
その解決を最重要課題にすることができていない人類は、集団的にこのまひ状態に陥っているともいえる。
昨今、地球温暖化や外来種問題に関して、必ずしも十分な専門的知識をもたない「専門家」の危機の否定
・軽視の発言がもてはやされる傾向がある。人々がそれらに同調しがちなのは、まひした心に、それらが
気持ちよく響くからだろう。だれもが、自分や子どもや孫たちの未来に大きな危機が待ち受けているとは、
考えたくはない。
しかし、「甘い現状肯定論」に弱い自らの心の特性を自覚し、厳しい現状から目をそらさないことが、
危機を克服し、持続可能性を確保するためには、何にも増して重要である。

                                  鷲谷いづみ

2012.11.29

ウスタビガの交尾  森の中の鳥の声

  2012.11.29 Thursday

 高校1年生の美術選択の生徒たちが寄宿舎の入り口に蛾がとまっていることを教えてくれました。
駆けつけてみると、そこにいたのはヤママユガ科のウスタビガでした。よく見ると翅の陰にもう一匹隠れていました。どうやらメスのフェロモンに引き寄せられてオスがやってきたようです。
ウスタビガの幼虫はブナ科の植物の葉を食べることで知られています。高校1年生は今年、「共生の森」にブナ科の樹木の苗木をたくさん植えましたので、今日のような光景はこれからますます
不二聖心で増えていくことと思われます。

 ちなみにヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」の最後の場面で、主人公が親指でつぶす蛾はウスタビガと同じ科に属する蛾です。

10月28日に不二聖心の森で鳴いていた鳥の声について、専門家の方に声の主を推測していただきました。
その推論の展開の仕方がすばらしく、一つの音から感じ取れる情報量とはこれほど豊かなものなのかと感動します。以下にその推論を引用します。

聴きなしますと「キョロンキョキョン......ツィヨツィヨツィヨ」と聞こえます。
こちら、鳴き声の種類は「さえずり(Song)」、声の主は声質や冒頭部分の節から「ツグミ類」ではないでしょうか。加えて、ツグミ類の中でもこのようなさえずりに該当するものはアカハラ、シロハラ、マミチャジナイが挙げられると思います。このさえずりの厄介な部分は、「繁殖期に成熟した雄が鳴く、完成したさえずり」ではないことです。特に中節、終節の部分に不明瞭で特徴のつかみづらい(よく分からない)節があり、全体的に未完成なさえずりである「ぐぜり」の可能性があります。10月下旬に聴かれたものでしたら、時期的に考えて今年生まれの若鳥が来春に向けてさえずりの練習しているのかもしれません。ここからは本当に推測の域を出ませんが....マミチャジナイならさえずりの冒頭節にもっと騒がしく音階が盛り込まれて、中節、後節はほとんど山がありませんし、アカハラならばよりシャープで終始途切れや濁音のあまりないさえずりになると思います。後節のツィヨツィヨツィヨはこの3種のどれにも該当しませんが、冒頭節に適度なスタッカートが混ざる点、その後連続的でなく中・後節が訪れることなどから、この声の主は渡来して間もないシロハラではないかと思います。

今日のことば

私は好きだった、
信じることのできる自分が。
人を、生きている世界を、
その未来を 信じると、私がいう時、
星ほどの数の 子供たちが、
信じる、といっているのを感じた。

                   大江健三郎

2012.11.28

ホソアシナガバチの女王の越冬です

  2012.11.28 Wednesday

 林道脇の森の中でホソアシナガバチの女王バチがヤブムラサキの葉の下で越冬しているのを見つけました。卵を抱えたままで冬を越し来年の春には巣作りを始めます。
ホソアシナガバチの女王バチについては、『ハチとアリの自然史』(北海道大学図書刊行会)に収められた「アシナガバチ・スズメバチにみられる分業の社会性」の中に次のような興味深い記述があります。

アシナガバチ属やホソアシナガバチ属の多くの種では、女王は唯一の産卵者で、巣の中心部にとどまり、働きバチにたいして大顎で威嚇したり、触覚で相手の体を叩くなどの優位行動や、巣盤上での腹部の揺すりなどの示威行動をとる。これによって、女王は絶対的な優位者として働きバチの内分泌などに生理的な影響を与え、卵巣の発達を抑制して産卵を独占するとみなされる。


 

               今日のことば

人生の意義は何か、人生の幸福とは何かということになると、人によって随分見解が違うであろう。
お祭り騒ぎは愚の骨頂だと思う人もあろう。私自身ももともと孤独癖が強かつた。一室に閉じこもって本を読むか、考え事をする方がはるかに有意義だと思っていた。しかし近頃になって、大勢の人と一緒にぼんやりとお祭をながめて、皆が何となく楽しい気分になるということも決して無意味ではないと悟るようになった。お互いの日常生活の水準が少しずつでも向上してゆくように、たゆまず努力することはもちろん何物にも増して大切なことである。しかしそのために私どもは身体を疲らせているばかりでなく、神経をも疲らせ、いらだたせているのである。そしてそのために必要以上に対立を激化させ、住みにくい世の中を一層住みにくくしている傾向さえないとはいえぬ。時たまのんびりとお祭を見て神経を休める機会を持ちうるということは、京に住む身の一つの仕合せである。

 京にきて祇園祭を見しあとの耳にすがしき蝉しぐれかな

                                        

                                   湯川秀樹

2012.11.27

今年もジョウビタキが渡ってきました

  2012.11.27  Tuesday

 第2牧草地でジョウビタキの姿を確認しました。今年も、はるばる中国北部かロシアあたりからやってきたものと思われます。不二聖心を越冬地に選ぶジョウビタキは毎年いますが、数年前になかなかその姿が確認できないことがありました。その年は全国的にも目撃されるジョウビタキの数が少なく、繁殖地の環境破壊が原因ではないかと騒がれたぐらいでした。ジョウビタキの元気な姿は、遠い北国の自然が健康に保たれていることを私たちに教えてくれます。

 

今日のことば

What, after all, are the most precious things in a life?

                                                                  Margaret E.Murie

2012.11.26

ノブドウの紅葉

 

 2012.11.26 Monday
第2牧草地のノブドウの葉が美しく色づいています。宮沢賢治の「めくらぶどう(ノブドウ)と虹」にはノブドウと虹がたいへん哲学的な会話をします。虹はノブドウに「けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべておとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。」と語りかけます。一年の終わりを迎えたノブドウの葉をじっと見ていると「みなかぎりないいのちです」という賢治の声が聞こえてくるようです。
ノブドウのことを賢治は「めくらぶどう」と呼びましたが、青森県の津軽地方の大鰐町でもノブドウを「めくらぶどう」と呼んでいたという記録があります。方言地図では言葉が県境を軽々と越えていくのが面白いところです。

 

 

今日のことば

「いいえ、変ります。変ります。私(ノブドウ)の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。
雪にうづまって白くなってしまひます。枯れ草の中で腐ってしまひます。」
虹は思はず笑ひました。
「ええ、さうです。本たうはどんなものでも変らないものはないのです。ごらんなさい。向ふのそらは
まっさをでせう。まるでいい孔雀石のやうです。けれども間もなくお日さまがあすこをお通りになって、
山へお入りになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それも間もなくしぼんで、
やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
その頃、私は、どこへ行き、どこに生まれてゐるでせう。又、この眼の前の、美しい丘や野原も、
みな一秒づつけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中
にあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなか
ぎりないいのちです。わたくしでさへ、ただ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんな
じよろこびです。」
「めくらぶどうと虹」(宮沢賢治)より

2012.11.25

アカタテハ  ササキリの鳴き声

 

 2012.11.25 Sunday
アカタテハが落ち葉の上にとまっていました。夏の間もよく見かけた蝶ですが、写真を撮ることはなかなかできませんでした。学研の『原色ワイド図鑑』に「たいへん敏感で採集しにくい」とあることからもわかるように、人の気配にすぐに反応して飛び去ってしまうからです。しかし、今日はこちらが近づいても動く気配すらありませんでした。そろそろ越冬の態勢に入るものと思われます。

 一方で元気に鳴き声を響かせていた虫もいました。ササキリです。こちらも人の気配に非常に敏感な虫ですが、今日は鳴いている姿の撮影に成功しました。

今日のことば

主なる神は日本人の「救霊に働くこと」によって、私自身の限りない惨めさを深く認識する恵みを与えて
くださったのですから、日本の人たちにどれほど感謝しなければならないか、書き尽くすことはできません。なぜなら、日本において数々の労苦や危険にさらされて自分自身を見詰めるまでは、私自身が自分の中に、
どれほどたくさんの悪がひそんでいたか、認識していなかったのです。

                           聖フランシスコ・ザビエル

2012.11.24

スッポンタケ

 

 2012.11.24 Saturday
「共生の森」に接している竹林でスッポンタケを見つけました。食用にできるキノコですが、虫をおびきよせるために悪臭を放つことでも知られています。臭いによって集められた虫はキノコの胞子を運ぶ役目を果たします。写真のスッポンタケの周辺でさらに3つのスッポンタケを見つけました。虫たちはきちんと役目を果たしているようです。

 

 
今日のことば

 ここ十五年ほどの間、われわれこの島々の住人は開発という名のもとにあまりにも無造作に、というよ
り狂ったように樹をきり倒し、いま、自然ともいえないような環境のなかで、自分たちが何をしてきたか
ということに茫然としている。われわれアジア人は、自然というものはアタリマエに存在するものと信じ
こみすぎてきた。民族としての練度が不足している証拠ともいえるのではないか。
太古、ギリシア地方は森林におおわれていたという。そこにギリシア文明が栄えたころ、ひとびとは文明
とそしてふえてゆく人口を養うために乱伐をくりかえした。このあと地面が乾き、山は衰えて石の肌をあ
らわにしたののになり、野の多くは砂漠同然になって、その文明がほろんだ。いまヨーロッパ人が森を大
切にし、町に樹を植え、樹の一つ一つの生命を介抱してその樹蔭で人間の生命を保とうとしているのは、
遠い先祖が失敗した記憶が牢固として生きているからであり、樹を伐ればヨーロッパは亡びる、という恐
怖心がヨーロッパ社会の基礎にあるからに相違ない。
かれらは本来自然の豊かな豪州北部やニュージーランドに社会を作ってもこの恐怖遺伝は消えることなく、
たとえ牧場をひらいても自然木をできるだけ残そうとつとめている。
その恐怖を、この日本列島に住むわれわれが、いまごろになって感じはじめた。しかしその恐怖が、まだ
社会が共有するところまではひろがっていないために、われわれこの島国に住む人間や他の生物の生命を
たすけてきた樹々が、日々伐られつつある。日本は自然の復元力があるという多分に迷信的な根拠に甘え
すぎているためなのか、それとも自然は人間をふくめた生物の共有のものであり、人間もまた自然物にす
ぎないという当然の思想が、この練度の未熟な民族に定着していないせいなのか。
 

                                  司馬遼太郎