〇お知らせ〇
同じ内容をインスタグラム「不二聖心女子学院フィールド日記」(クリックするとインスタグラムのページが開きます)にも投稿しています。より高画質な写真を載せていますのでぜひフォローしてください。

フィールド日記

2012年11月

2012.11.30

イロハモミジ  不二聖心の紅葉の由来

 2012.11.29 Thursday

 不二聖心の紅葉も、ようやく盛りを迎えました。不二聖心には、かつて関西の財界人として名を馳せた岩下清周氏が裾野に移り住んでのち関西の紅葉を懐かしんで京都から取り寄せたイロハモミジがたくさん生えています。
   不二聖心の前身である温情舎小学校を創立した岩下清周氏については、星新一の 『明治の人物誌』(新潮文庫)や小島直記の『日本策士伝―資本主義をつくった男たちー』(中公文庫)で詳しく知ることができます。
以下のURLをクリックすると、中島久満吉の『岩下清周伝』の一部を読むことができます。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/iwasita.htm

 
 

                              今日のことば

 ヒトは、あまりに大きな危険に直面したときは、むしろ危機意識が薄れて、恐怖心がまひしてしまう。
そのような心理状態に陥ると、危機を回避するための適切な行動がとれない。さらにそれが高じると、
自殺行為ともいえるような行動をとることもあるという。
地球環境の危機がこれほど深まり、科学的にもその実態が明らかになっているにもかかわらず、いまだ
その解決を最重要課題にすることができていない人類は、集団的にこのまひ状態に陥っているともいえる。
昨今、地球温暖化や外来種問題に関して、必ずしも十分な専門的知識をもたない「専門家」の危機の否定
・軽視の発言がもてはやされる傾向がある。人々がそれらに同調しがちなのは、まひした心に、それらが
気持ちよく響くからだろう。だれもが、自分や子どもや孫たちの未来に大きな危機が待ち受けているとは、
考えたくはない。
しかし、「甘い現状肯定論」に弱い自らの心の特性を自覚し、厳しい現状から目をそらさないことが、
危機を克服し、持続可能性を確保するためには、何にも増して重要である。

                                  鷲谷いづみ

2012.11.29

ウスタビガの交尾  森の中の鳥の声

  2012.11.29 Thursday

 高校1年生の美術選択の生徒たちが寄宿舎の入り口に蛾がとまっていることを教えてくれました。
駆けつけてみると、そこにいたのはヤママユガ科のウスタビガでした。よく見ると翅の陰にもう一匹隠れていました。どうやらメスのフェロモンに引き寄せられてオスがやってきたようです。
ウスタビガの幼虫はブナ科の植物の葉を食べることで知られています。高校1年生は今年、「共生の森」にブナ科の樹木の苗木をたくさん植えましたので、今日のような光景はこれからますます
不二聖心で増えていくことと思われます。

 ちなみにヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」の最後の場面で、主人公が親指でつぶす蛾はウスタビガと同じ科に属する蛾です。

10月28日に不二聖心の森で鳴いていた鳥の声について、専門家の方に声の主を推測していただきました。
その推論の展開の仕方がすばらしく、一つの音から感じ取れる情報量とはこれほど豊かなものなのかと感動します。以下にその推論を引用します。

聴きなしますと「キョロンキョキョン......ツィヨツィヨツィヨ」と聞こえます。
こちら、鳴き声の種類は「さえずり(Song)」、声の主は声質や冒頭部分の節から「ツグミ類」ではないでしょうか。加えて、ツグミ類の中でもこのようなさえずりに該当するものはアカハラ、シロハラ、マミチャジナイが挙げられると思います。このさえずりの厄介な部分は、「繁殖期に成熟した雄が鳴く、完成したさえずり」ではないことです。特に中節、終節の部分に不明瞭で特徴のつかみづらい(よく分からない)節があり、全体的に未完成なさえずりである「ぐぜり」の可能性があります。10月下旬に聴かれたものでしたら、時期的に考えて今年生まれの若鳥が来春に向けてさえずりの練習しているのかもしれません。ここからは本当に推測の域を出ませんが....マミチャジナイならさえずりの冒頭節にもっと騒がしく音階が盛り込まれて、中節、後節はほとんど山がありませんし、アカハラならばよりシャープで終始途切れや濁音のあまりないさえずりになると思います。後節のツィヨツィヨツィヨはこの3種のどれにも該当しませんが、冒頭節に適度なスタッカートが混ざる点、その後連続的でなく中・後節が訪れることなどから、この声の主は渡来して間もないシロハラではないかと思います。

今日のことば

私は好きだった、
信じることのできる自分が。
人を、生きている世界を、
その未来を 信じると、私がいう時、
星ほどの数の 子供たちが、
信じる、といっているのを感じた。

                   大江健三郎

2012.11.28

ホソアシナガバチの女王の越冬です

  2012.11.28 Wednesday

 林道脇の森の中でホソアシナガバチの女王バチがヤブムラサキの葉の下で越冬しているのを見つけました。卵を抱えたままで冬を越し来年の春には巣作りを始めます。
ホソアシナガバチの女王バチについては、『ハチとアリの自然史』(北海道大学図書刊行会)に収められた「アシナガバチ・スズメバチにみられる分業の社会性」の中に次のような興味深い記述があります。

アシナガバチ属やホソアシナガバチ属の多くの種では、女王は唯一の産卵者で、巣の中心部にとどまり、働きバチにたいして大顎で威嚇したり、触覚で相手の体を叩くなどの優位行動や、巣盤上での腹部の揺すりなどの示威行動をとる。これによって、女王は絶対的な優位者として働きバチの内分泌などに生理的な影響を与え、卵巣の発達を抑制して産卵を独占するとみなされる。


 

               今日のことば

人生の意義は何か、人生の幸福とは何かということになると、人によって随分見解が違うであろう。
お祭り騒ぎは愚の骨頂だと思う人もあろう。私自身ももともと孤独癖が強かつた。一室に閉じこもって本を読むか、考え事をする方がはるかに有意義だと思っていた。しかし近頃になって、大勢の人と一緒にぼんやりとお祭をながめて、皆が何となく楽しい気分になるということも決して無意味ではないと悟るようになった。お互いの日常生活の水準が少しずつでも向上してゆくように、たゆまず努力することはもちろん何物にも増して大切なことである。しかしそのために私どもは身体を疲らせているばかりでなく、神経をも疲らせ、いらだたせているのである。そしてそのために必要以上に対立を激化させ、住みにくい世の中を一層住みにくくしている傾向さえないとはいえぬ。時たまのんびりとお祭を見て神経を休める機会を持ちうるということは、京に住む身の一つの仕合せである。

 京にきて祇園祭を見しあとの耳にすがしき蝉しぐれかな

                                        

                                   湯川秀樹

2012.11.27

今年もジョウビタキが渡ってきました

  2012.11.27  Tuesday

 第2牧草地でジョウビタキの姿を確認しました。今年も、はるばる中国北部かロシアあたりからやってきたものと思われます。不二聖心を越冬地に選ぶジョウビタキは毎年いますが、数年前になかなかその姿が確認できないことがありました。その年は全国的にも目撃されるジョウビタキの数が少なく、繁殖地の環境破壊が原因ではないかと騒がれたぐらいでした。ジョウビタキの元気な姿は、遠い北国の自然が健康に保たれていることを私たちに教えてくれます。

 

今日のことば

What, after all, are the most precious things in a life?

                                                                  Margaret E.Murie

2012.11.26

ノブドウの紅葉

 

 2012.11.26 Monday
第2牧草地のノブドウの葉が美しく色づいています。宮沢賢治の「めくらぶどう(ノブドウ)と虹」にはノブドウと虹がたいへん哲学的な会話をします。虹はノブドウに「けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべておとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。」と語りかけます。一年の終わりを迎えたノブドウの葉をじっと見ていると「みなかぎりないいのちです」という賢治の声が聞こえてくるようです。
ノブドウのことを賢治は「めくらぶどう」と呼びましたが、青森県の津軽地方の大鰐町でもノブドウを「めくらぶどう」と呼んでいたという記録があります。方言地図では言葉が県境を軽々と越えていくのが面白いところです。

 

 

今日のことば

「いいえ、変ります。変ります。私(ノブドウ)の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。
雪にうづまって白くなってしまひます。枯れ草の中で腐ってしまひます。」
虹は思はず笑ひました。
「ええ、さうです。本たうはどんなものでも変らないものはないのです。ごらんなさい。向ふのそらは
まっさをでせう。まるでいい孔雀石のやうです。けれども間もなくお日さまがあすこをお通りになって、
山へお入りになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それも間もなくしぼんで、
やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
その頃、私は、どこへ行き、どこに生まれてゐるでせう。又、この眼の前の、美しい丘や野原も、
みな一秒づつけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中
にあらはれるときは、すべてのおとろへるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなか
ぎりないいのちです。わたくしでさへ、ただ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんな
じよろこびです。」
「めくらぶどうと虹」(宮沢賢治)より

2012.11.25

アカタテハ  ササキリの鳴き声

 

 2012.11.25 Sunday
アカタテハが落ち葉の上にとまっていました。夏の間もよく見かけた蝶ですが、写真を撮ることはなかなかできませんでした。学研の『原色ワイド図鑑』に「たいへん敏感で採集しにくい」とあることからもわかるように、人の気配にすぐに反応して飛び去ってしまうからです。しかし、今日はこちらが近づいても動く気配すらありませんでした。そろそろ越冬の態勢に入るものと思われます。

 一方で元気に鳴き声を響かせていた虫もいました。ササキリです。こちらも人の気配に非常に敏感な虫ですが、今日は鳴いている姿の撮影に成功しました。

今日のことば

主なる神は日本人の「救霊に働くこと」によって、私自身の限りない惨めさを深く認識する恵みを与えて
くださったのですから、日本の人たちにどれほど感謝しなければならないか、書き尽くすことはできません。なぜなら、日本において数々の労苦や危険にさらされて自分自身を見詰めるまでは、私自身が自分の中に、
どれほどたくさんの悪がひそんでいたか、認識していなかったのです。

                           聖フランシスコ・ザビエル

2012.11.24

スッポンタケ

 

 2012.11.24 Saturday
「共生の森」に接している竹林でスッポンタケを見つけました。食用にできるキノコですが、虫をおびきよせるために悪臭を放つことでも知られています。臭いによって集められた虫はキノコの胞子を運ぶ役目を果たします。写真のスッポンタケの周辺でさらに3つのスッポンタケを見つけました。虫たちはきちんと役目を果たしているようです。

 

 
今日のことば

 ここ十五年ほどの間、われわれこの島々の住人は開発という名のもとにあまりにも無造作に、というよ
り狂ったように樹をきり倒し、いま、自然ともいえないような環境のなかで、自分たちが何をしてきたか
ということに茫然としている。われわれアジア人は、自然というものはアタリマエに存在するものと信じ
こみすぎてきた。民族としての練度が不足している証拠ともいえるのではないか。
太古、ギリシア地方は森林におおわれていたという。そこにギリシア文明が栄えたころ、ひとびとは文明
とそしてふえてゆく人口を養うために乱伐をくりかえした。このあと地面が乾き、山は衰えて石の肌をあ
らわにしたののになり、野の多くは砂漠同然になって、その文明がほろんだ。いまヨーロッパ人が森を大
切にし、町に樹を植え、樹の一つ一つの生命を介抱してその樹蔭で人間の生命を保とうとしているのは、
遠い先祖が失敗した記憶が牢固として生きているからであり、樹を伐ればヨーロッパは亡びる、という恐
怖心がヨーロッパ社会の基礎にあるからに相違ない。
かれらは本来自然の豊かな豪州北部やニュージーランドに社会を作ってもこの恐怖遺伝は消えることなく、
たとえ牧場をひらいても自然木をできるだけ残そうとつとめている。
その恐怖を、この日本列島に住むわれわれが、いまごろになって感じはじめた。しかしその恐怖が、まだ
社会が共有するところまではひろがっていないために、われわれこの島国に住む人間や他の生物の生命を
たすけてきた樹々が、日々伐られつつある。日本は自然の復元力があるという多分に迷信的な根拠に甘え
すぎているためなのか、それとも自然は人間をふくめた生物の共有のものであり、人間もまた自然物にす
ぎないという当然の思想が、この練度の未熟な民族に定着していないせいなのか。
 

                                  司馬遼太郎

2012.11.23

イロハモミジの紅葉  モリオカメコオロギの鳴き声

 

 2012.11.23 Friday
今日は第3回の学校説明会が行われました。あいにくの雨でしたが、たくさんの方にご来校いただき感謝しています。
雨模様の空の下で中庭のイロハモミジが美しく紅葉し始めていました。

 昨日の夜、気温がぐんぐん下がっていくなかで、モリオカメコオロギの鳴き声を耳にしました。
今日はもう鳴き声を聞くことができませんでしたので、あれが今年最後の声だったのかもしれません。
「2012年11月22日に不二聖心でモリオカメコオロギが鳴いた。」これも大切な不二聖心のフィールドの記録です。

               

               今日のことば

     今日散れる葉にすら深き彩りを賜えるものを天と思うも
 

                                  田井安曇

2012.11.22

背泳ぎの名人 マツモムシ

  2012.11.22 Thursday

 第2牧草地の池では今日もマツモムシが元気に泳いでいました。マツモムシは背泳ぎをする姿がとても特徴的な水生昆虫です。水生昆虫の多くは希少種となってきていますが、マツモムシも東京都では準絶滅危惧種に指定されています。

 


今日のことば

 私たちが日ごろ、何気なく見過ごして平気で通りすぎていってしまうことどもに、子どもたちはごく
自然に感動する。空の光に、一片の雲に、垣根の小さな花に、風に舞う一枚の枯葉に、一匹の小さな虫に、
道ばたのただの石ころと思われる自然の一片に、動物に、絵本に、お話に、歌にーー。それぞれの場で、
それぞれの個性によってちがうけれども、計算や思わくなどなしに心を動かす。実にとうとい。
幼い子どもたちの感動しているおももち、顔つき、そのことば、手ぶり身ぶり。さらに「ねえ、ねえ。
……なの」と、共感を求めてくることばに接すると、私はいつもこの子らに深く心をゆり動かされ、圧倒
される思いがする。自分が失ってきた大きなものを嘆くいとまもない。
そんなことを忘れさせてくれるのが子どもの「ねえ、ねえ、見て、ほら」の一言だし、「なぜ」と問うこ
とばだ。そのとき私にとって、世界は新しい光のもとにその姿を私に示してくれる。

                                   小塩節

2012.11.21

泡立ち始めたセイタカアワダチソウ

  2012.11.21 Wednesday

 晩秋から初冬にかけて草原の昆虫たちに最後まで豊かに栄養を与え続けているのが、悪名高きセイタカアワダチソウです。
不二聖心でもハチやハナアブなどいろいろな生き物がセイタカアワダチソウに頼って、命の最後を生きています。しかし、そのセイタカアワダチソウにも花の終わりの時期が近づき、アワダチソウという名前の通り泡立つような姿を見せ始めています。

 

 

                今日のことば

宗教を持つ人は、絶海の孤島へ漂着したが何をしていても一刻も本国へ帰ることを志してやまなかった
あのロビンソン・クルーソーのような人だ。かれは孤島に茅屋を建て、黒人フライデーを僕(しもべ)
とし、山羊を捕えて乳をしぼり、名ばかりの畑を耕した。しかしかれは決してそれだけでは満足せず、
孤島はかれの安住の地ではなかった。何をしてもかれの心は、地平線の彼方なつかしい本国に向っていた。
今かりに孤島に安住して少しも本国へ帰ることは考えなかったとする。無宗教の人はそんなものだと。
なるほど現代の文化生活も、永遠の価値の前にはロビンソンの生活以上に評価されないでしょう。
わたしどもの生活に高い価値と意義を見いだすためには、どうしても永遠無限なるものとの関係において
生きなければならない。人間の生活はだいだいだれも同様で、三度食べて、働き、夜ねて、朝起きるだけ
である。しかし真に信仰に生きる人は、赤ちゃんのおむつのお洗濯をしていても、台所でお芋の皮をむい
ていても、心の眼は浮世の地平線のかなたはるかに高く神に向っている。このような人間の姿こそ実に貴
いものである。現代はあまりにも、孤島に漂着して本国に帰ることを忘れたロビンソン・クルーソーにみ
ちている。われわれは途中で沈没してもいい、孤島で犬死をするよりは、独木舟でもいいから作って故国
へ帰ろうという道心に燃えたい。またこうしてこそ、かえって日々の卑近な生活が高き目的への道程として、光栄に輝くものとなってくるのであります。
 

                         岩下壮一 1934.11.28