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フィールド日記

2017年03月

2017.03.28

シジュウカラの巣作り

日本野鳥の会の滝道雄先生に提供していただいた鳥の巣箱を先週の金曜日に講堂の脇と中学校校舎の中庭にかけました。
今朝、様子を見にいくと講堂の脇の道で変わった声で鳴くシジュウカラを見つけました。巣材を運んでいるシジュウカラのつがいの声でした。次の画像の青い円の中のシジュウカラをよく見ると巣材を加えているのがわかります。


しばらくするとこのシジュウカラは素早く巣の中に入りました。次の画像は巣材を巣の中に置いて外に出てきた瞬間のシジュウカラです。


順調に巣作りが進み、シジュウカラの子育てを観察することのできる日が来ることを願っています。

今日のことば

朝陽てる槻の高枝の葉がくりに尾ふり首ふり四十雀鳴く   川村多実二   

2017.03.18

3月の野鳥の調査 カラスとノスリの攻防戦

日本野鳥の会東富士副代表の滝道雄先生と構内の野鳥の調査をしました。

今日最も感動したのは、タカの仲間であるノスリをハシブトガラスが集団で襲う様子を目にしたことです。ノスリがカラスの縄張りを侵したことが原因でした。次の画像の左から2番目に写っているのがノスリです。
次の画像は滝先生がお撮りになったものです。
ハシブトガラスがノスリを襲っている様子がはっきりと確認できます。

ウグイスのさえずりを何度も聞くなど、あちこちで春を感じた一日でした。
キブシの花穂もずいぶん長くなりました。

モズの警戒音も聞きましたが、これはモズが巣作りを始めている可能性を示唆しています。次の画像は温情舎校舎跡地で撮ったモズのメスの写真です。
滝先生が送ってくださった調査記録を掲載します。
  1.シジュウカラ     5羽
 2.ホオジロ       5羽
 3.アオゲラ             1羽
 4.ハシブトガラス   17羽
 5.ウグイス       8羽
 6.コゲラ        1羽
 7.ツグミ        3羽
 8.ヒヨドリ       4羽
 9.ヤマガラ       2羽
10.ハシボソガラス    5羽
11.ルリビタキ      1羽
12.ジョウビタキ     1羽
13.モズ          2羽
14.シメ        10羽
15.カワラヒワ      2羽
16.エナガ        1羽
17.キジバト       3羽
18.ノスリ        2羽
19.アカゲラ       1羽
20.トビ         1羽
21.シロハラ       2羽
22.メジロ        1羽
23.オオタカ       1羽
24.コジュケイ      1羽
上記23種類の野鳥と外来種1種の計24種を確認できた。
 
特記事項:
1.桜の木に9羽のシメが集まっていた。シメは冬鳥で北に帰る前に集まり始めたか。
2.ヒノキ林に入る直前に「ピーユ」とノスリの声がしたので上空を見ると、つがい(夫婦)で上空を舞っている。そこに3~5羽のハシブトガラスが現れ、ノスリに攻撃を始めた。カラスの縄張りに入ったノスリを共同で縄張り外に追い出す行動だ。デイスプレイ飛翔が確認されたことから、不二聖心女子学院近くで繁殖するものと思われる。
3.東名高速道路近く(温情舎跡地)でオオタカを確認した。

今日のことば
貧において豊かであること、これが芸術の源泉のように思われます。ここでの貧は金銭における、あるいは状況における貧しさと必ずしも同じではありません。むしろ、それは魂において空(くう)であることと書くことができるかもしれません。 若松英輔

2017.03.15

ニホンザル

久し振りにニホンザルの写真を撮りました。
悠然と車道を横切る親ザルの姿です。

木の芽を食べる子ザルの姿です。木の芽は相当苦いと思われますが、サルの舌は苦味成分を感じる力が弱く、それを逆手にとって植物からの栄養分の摂取に役立てているのではないかと言われています。

今日のことば

『阿賀の記憶、阿賀からの語り』(関礼子ゼミナール編・新泉社)を読む

――聞き書きが伝える第二水俣病の真実――
「聞き書き」というスタイルがあります。一つの体験をした人の話を聞き、それを忠実に書きとめていくという文章の書き方のスタイルですが、主観を排して体験者の声にじっくり耳をかたむける「聞き書き」のスタイルによって作られた文には独特の力がこもります。『阿賀の記憶、阿賀からの語り』という聞き書き集を読んでそのことを改めて感じました。今週は、新潟の第二水俣病の患者の方々の語りを集めた『阿賀の記憶、阿賀からの語り』の中から小武節子さんの語りを紹介します。小武さんはまず、第二水俣病の原因物質によって汚染される以前の阿賀野川の思い出を語ります。
小さい頃は、本当に江口には砂浜がいっぱいありました。学校から帰ってくるとパンツ一枚になって……、私は戦争のときの子どもです。あの当時は、食べ物もなかったし、本当にね、ゴムの入ったパンツ一枚で阿賀野川で泳いだり、メダカとか、ちっちゃい魚がいるのをつかまえたりして遊びました。イトヨなんかもつかまえて、時期が早いうちは、唐揚げにして食べました。背中に針があって、時期が遅くなると針が硬くなるんですが、早い時期なら柔かい。
イトヨは全国各地で希少種に指定されている魚です。新潟県は既に絶滅種に指定しています。この短い引用文が、すでに聞き書きとしての貴重な価値を持っていると言えるでしょう。
このように阿賀野川の命の豊かな恵みを語ったあとで、話は第二水俣病のことへと移っていきます。
私は健康な体で生んでもらって、親にも感謝していました。それが、一九六七(昭和四二)年か一九六八(昭和四三)年頃になって、体が苦しくなってきました。まだ三〇代終わりの頃です。
主人も一緒だったんですけど、手足のしびれが一番最初に来ました。朝起きると手がしびれて、こわばって手を握れないんですね。時間が経つとだんだん和らいできますけど。しびれと同時に手が変形してきました。
その頃、主人も体がしびれるとか頭痛がするとか言って、仕事を休みがちになりました。弁当を詰めて会社に送り出しても、「休んでますけど、奥さんわかりますか」と、会社から電話が来たことも何回もありました。主人は「眠れない」と言って夜は酒を飲んでですね、水俣病の症状が出てからは睡眠剤を飲んでいたのが効かなくなって、かわりに酒をひどく飲むようになったんです。もともと酒に強い人じゃなかったですね。飲むとすぐに寝たり、悪酔いしたり、それでも飲むときは飲むんでよ。酒を飲んだら翌日の仕事に差し支えるからと言うと、今度は暴力がでたり。
うちの主人はね、とにかく酒を飲まないと無口で、子煩悩だし、人情味はあるし、すごくいい、日本一の主人だったの。日本一の主人なんだけど、酒を飲むと人が変わるというか。酒を飲むと常に我慢していることを吐き出すというか。そういう主人だったんですよ。
下の子が三、四歳になったから保育園にやって、私も一九六九(昭和四四)年から木工所に働きに出ましたが、主人は仕事で私の帰りが遅いときに、子どもがお腹を空かせていれば何か作ってくれるの。私がいない場合は自分でしなくちゃいけないでしょ、子どもを食べさせたり。それでスーパーなんかで一緒に買い物すると、お惣菜とか見て、「これどうやって作るんだろう」って、一生懸命に研究していて。そんなことがありましたね。
酒さえ飲まなければ日本一の主人なのに、私が仕事から戻ると酒を飲んでもう酔っぱらっている。飲みすぎて苦しんで、注意すると暴力が出てくる。怒りを感じることもありましたよ。ほんとに辛くて、何度、身を投げようと思ったことか。何度も思い詰めて、阿賀野川の岸に立ったんですよ。そうすると、子どもたちの顔が浮かんできて、ようやっと最後の一歩を踏み出さずにいたんです。
新潟水俣病第一次訴訟の後で、原告の方たちは昭和電工と交渉して一時金をもらったんですね、補償協定を結んで。そしたら、金をもらえばテレビを入れ替えたり、家を建て替えたり、やっぱり人間はそういうところから直しますよね。そうすると、水俣病でテレビの良いものを買ったとか、噂がすごかったんですね。それと、水俣病になると、「そこの家からは嫁をもらうな」とか、「いくら子どもが頭良くて勉強してもいいところには就職できないぞ」と。
身内はみんな漁師なもんで、早くに認定(水俣病認定患者)になったんですね。でも、私は勇気がなかったんです。自分のこととか子どものことを考えたときに、「私は水俣病だ」ということが言えなかったんです。金欲しさに水俣病になるっていう、まわりの人たちの目がそうだったもんだから、私はずっと我慢していました。
けれども、同じ職場にいた女性が水俣病に認定されたと知って、病院に行こうと決意しました。近くの病院で、「水俣病っていう病気が出ているけど、その症状に似てるから、専門の医者のところに行きなさい」と沼垂(ぬったり)診療所を紹介され、今は木戸病院の院長先生になった斎藤恒先生に、そこでやっぱり水俣病だと診断され、新潟大学で精密検査を受けることになりました。
その頃はね、医者に行くにも「水俣病だ」って言うと、「金欲しさのニセ患者だ」と、「金が欲しくて水俣病のふりをしているんだ」と言われるもんだから、みんなよその家の陰に隠れてバスを待ったもんです。それで病院に行くと、「あれ、あんたも来てたんだね」というくらい、みんな隠れてました。水俣病はいいイメージじゃなかったものですから。
大学病院に行くと、「ああ、水俣病の検査やるなら裏門からまわれ」って、水俣病検査の人は正門から入れませんでした。それほど水俣病って「金欲しさのニセ患者」というね、そういう目で見られていたんだと思いました。目の検査、耳の検査、神経内科の検査、検査がいろいろあるんですよね。そういう検査で、「これが本当に見えないのか」、「本当に聞こえないのか」なんて言われて。
ようやっと検査が終わって認定審査にかけられるんですが、私が認定申請をしたときには、認定基準が厳しくなっていました。水俣病じゃありませんと棄却の封筒が一通来るだけなんですよ。それでおしまいなんですよ。
行政不服請求をした人もいましたが、「水俣病じゃなくて何の病気なんですか」と聞くと、「水俣病じゃないから喜べばいい」って言われて、女の人なんか、「もう悔しくて、泣き泣き帰ってきた」なんていう話も聞いています。
第二水俣病は、その症状の辛さに加えて、病気に起因する差別の苦しみを患者に与えました。そのことを理解しなければ、私たちは本当の意味で第二水俣病を理解したとは言えないのだと思います。
差別の問題だけではありません。聞き書きによって書き取られた言葉は、第二水俣病の真実をさまざまな視点から伝えています。この苦しみを小武さんがどのようにして乗り越えていったかについてもこのあと語られていきます。ぜひ本を手にとって読んでみてください。

2017.03.12

キジムシロ

 キジムシロの花が咲き始めました。茶草場農法を実践している不二聖心では、雑木林の林床に早春から色々な花を見ることができますが、キジムシロはその中でも最も早い時期に花を咲かせます。絶滅が危惧されるチャマダラセセリというセセリチョウの幼虫はキジムシロの葉を食べます。

今日のことば
昨日の新聞から396 平成二十九年二月十三日(月)
『キミよ歩いて考えろ』(宇井純・ポプラ社)を読む
――自分の足で歩いてこそ、はじめて社会がみえてくる。――
二月八日(水)の朝日新聞の1面に新泉社の『阿賀の記憶、阿賀からの語り 語り部たちの新潟水俣病』という本の広告が出ていました。この広告を読んで、『キミよ歩いて考えろ』(宇井純)という本のことを思い出しました。著者の宇井純は新潟水俣病に深く関わった方です。早く読みたいと思っていた『キミよ歩いて考えろ』を、これを機に読むことに決めました。今週は、この本を紹介したいと思います。
 公害問題研究家として知られる宇井純の大きな功績は、熊本の水俣病と関わるところから生まれました。
 一九五九年、宇井純は体調不良からそれまで勤めていた日本ゼオンという会社を退社します。ちょうどそのころ、次のような噂を耳にします。
 水俣市のはずれにある漁村で、がんじょうな漁師が、ある日ばったりたおれて口がきけなくなり、手足をばたばたさせて、大さわぎになる。医者がいろいろ手をつくしても、病気はひどくなるばかりで、くるい死にする人が何人もでた。命をとりとめた人もねたきりの廃人になってしまう。
 東京大学工学部応用化学科を卒業した宇井純は、この噂の真相をつきとめるために必要な科学的知識を持ち合わせていました。彼が注目したのは「新日本窒素」という会社の水俣工場とこの病気との関わりでした。工場が病気の原因物質を出しているのではないかという疑いを抱いた彼は、水俣工場の附属病院を二度にわたって訪問します。
 二度目に訪問した時に思わぬ偶然に恵まれました。
この先生が、ノートをくりながらデータを説明している最中に、看護婦さんが先生をよびにきた。先生はノートを机のうえにおいて、そそくさとでていった。
わたしと桑原さんは、そっと目くばせをしてノートをのぞいてみた。そこに一まいの紙がはさまっていて、酢酸工場の排水のなかに、水銀がどのくらいふくまれていたかのデータがあるではないか。はっとして、つづきを読んでみると、その排水をネコにのませて完全な水俣病の症状がでたこと。排水を濃縮してゆくと、有機水銀の結晶がでたこと。それをネコにたべさせると、やはり水俣病がおこること。つまり工場のなかで、水俣病の原因は工場排水の有機水銀だったことを、うたがう余地なく証明した報告書だった。
桑原さんは得意のカメラでその報告書の写真をとった。わたしはじぶんのノートに、必死になって、その内容をかきうつした。そのあいだ五分とは、かからなかっただろう。
うつしおわって、ノートをもとのまま机のうえにそっとおいて、しばらくすると、わかい先生がもどってきた。おそらく、わたしたちのただならぬようすに、なにか先生は気づいたかもしれないが、しずかにひとこといった。
「もう、わたしたちの申しあげられることは、ぜんぶお話しました」
 わたしたちは心からこの先生に感謝のことばをのべて、宿へかえってきた。さあ、これからどうしたものだろう。会社側が、水俣病の真相を知っていて、しかもそれをかくしていた証拠が手にはいったのだ。
 宇井純は書名にあるように、とにかく「歩く人」です。驚くべき行動力の持ち主です。証拠をさらに確かなものとするために、工場の附属病院の前医院長で病気の原因物質について研究していた細川先生を四国まで訪ねていきました。
 細川先生の引退された故郷というのは、四国の大洲というところだときいた。わたしは、はじめて四国へわたり、のちに「おはなはん」で有名になる、小京都とよばれるこのちいさな町へたどりついた。
 引退した老医師夫婦二人きりの、しずかな生活をおくっていた細川博士にとって、たしかに、わたしは不意の客だったろうが、あたたかくむかえてくれた。
 その細川先生にむかって、わたしは、じぶんのしらべてきたことを説明してからたのんだ。
「最近、わたしは、こんな報告書を手にいれました。かいてあることがほんとうなら、これはたいへんなことです。先生には、会社に対する先生のお立場もあるでしょう。この報告書がほんとうなら、なにもおっしゃらなくてけっこうです。
 もしこの報告書がまちがっていて、その結果、わたしが考えている、会社が水俣病の犯人だという考えがまちがっているなら、それだけをおっしゃってください」
 わたしは、附属病院でみかけた報告書をよみあげた。そして、これまでのわたしの調査でも、酢酸工場の排水にふくまれていた水銀化合物が、水俣病の原因だという結果がでていることを話した。
 細川博士の声は、おちついて冷静だった。
「キミのもっている報告書は本物だし、キミの結論はただしい。そこまで、つきとめたのならば、わたしもほんとうのこと話そう。じつは、もっとはやくから、水俣病の原因はわかっていたのだ。熊本大学が有機水銀説を発表するすこしまえから、わたしも水俣工場の排水がほんとうに、水俣病と関係がないのかをうたがいはじめた。
 そこでたくさんある工場排水を、順ぐりにあたえる動物実験をはじめてみた。すると酢酸工場の排水をのませたネコだけに、水俣病の症状がでた。それだけでは、まだ心配だったので、そのネコを殺して、九州大学で脳の検査をしてもらった。
 その結果、まちがいなく、水俣病になっていたことがわかった。わたしはその結果を、工場の幹部に報告した。それは、あの漁民乱入事件がおこる直前だった。おどろいた工場長は、この結果をぜったいに秘密にすること、わたしが相談なしに実験をしないことを命令したのだ」
 わたしはびっくりして、声もでなかった。たしかに、漁民乱入事件のすぐあとで、工場側が発表した、水俣病と工場はなんの関係もないという報告書を、わたしは読んだことがある。そのなかに、いろいろな工場排水をネコにのませたが、どのネコも健康で、水俣病の症状はでなかったとかいてあったが、工場側は、じぶんにつごうのわるい結果はかくして発表したのだった。そうすると、工場はウソをついたのだ。
「それから一年ばかり、わたしは、工場長のいうとおりの実験しかゆるされなかった。しかし、どうしても、ほんとうのことをつきとめずにはいられなかった。水俣病のさわぎもおさまり、工場長が交代したのを機会に、わたしは、工場長にたのんで、もう一度工場排水の実験をはじめる許可をもらった。けっして、外部に結果をもらさないようにするというのが、実験を許可する条件だった。キミがみつけたのは、その二度目の実験の報告書だ」
 とうとう、わたしは、水俣病の真相にたどりついたのだった。会社と日本政府がグルになって、国民の目からかくそうとしてきたほんとうのことが、いま、わたしの目のまえにある。これまで、ごく少数の会社の幹部と、細川先生しか知らなかったことを、わたしは、ようやくさがしあてたのだ。ことの重大さに、わたしはどうしていいかわからなかった。
「わたしは会社と、秘密をもらさないと約束して実験をはじめた以上、じぶんの口から、このことを人に話すことはできなかった。
 しかし、キミがそこまでさがしあてたのだから、ほんとうのことをかくしておくわけにもゆかない。よくここまでやってきた。
 だが、いまの日本では、大きな会社の力はつよい。キミがしらべたことを発表して、人の信じてもらえるようになるには、まだまだ慎重な準備がいることだろう。わたしは、もう年老いたが、キミはわかいのだから、あせってはやまってはいけないよ。今夜は、ここへとまってゆっくりしてゆきなさい」
 このあと宇井純はすぐに新日本窒素を告発することはしませんでした。結婚をし就職をして、ひとまず生活の安定ややすらぎを手にすることに時間を使っていました。そんなある日のことです。
 ところが、このやすらぎは、ほんとうにつかのまのことだったし、また根拠のないものだったことを思い知らされたのは、助手になって直後のことだった。美香がうまれて一月もたたない一九六五年六月十三日のこと、その日の新聞のトップの見出しをみて、わたしは仰天した。
『新潟に水俣病発生。死者一、患者数名を発見。新潟県は原因の調査を開始』
 この見出しをみたとたん、わたしはじぶんのみとおしが、どれほどあまかったかを、身にしみて感じた。まさか二つめの水俣病が、こんなにはやくおきるとは思わないから、自分が発見した真相を、ほかの人に知らせることも、それほどいそがなかったし、研究と安定した生活の両方がつづけられると、のんびりかまえていたのだ。もし、じぶんの学者としての地位などを気にせずに、ほんとうのことを、批判をおそれずに発表していたら、この第二水俣病がおこることは、あるいはくいとめられたかもしれない。すくなくとも、死者や患者の数は、へらすことができたかもしれない。正直にいえば、わたしに勇気がなかったために、第二水俣病がおこるのをゆるしてしまった責任は、とてものがれることはできない。
 その日からしばらく、夜もねむれずに考えたあげく、わたしは、じぶんの生活がどうなっても、ほんとうのことを話そう、わたしの手にはいった事実はすべて公表しようと、決心した。ことによると、東大や日本の学界を相手にまわして、生きるか死ぬかの大立ちまわりをやることになるかもしれないし、この家庭の平和だってどのようにこわされるかもわからない。だが、自分の勇気がなかったために、第二水俣病をだしてしまったようなことは、もうくりかえすわけにはゆかない。わたしは生まれたばかりの赤ん坊の顔をみながら、じぶんにそういってきかせた。
 今度は、躊躇はしませんでした。第二水俣病の調査を即開始し、細川先生にも協力を要請して事の真相を明らかにしていきました。
 『キミよ歩いて考えろ』は決して新しい本ではありませんが、今こそ宇井純の本のメッセージに耳を傾ける時ではないかと思います。私たちの生きる時代は、さまざまな解決困難な問題を抱える時代です。今こそ歩いて考え、行動することで社会の真相を見つめなおしていくことが求められていると言えるでしょう。
 作品の最後の一節を引用して、「昨日の新聞から396」を終わりたいと思います。
 未来をよむのはたしかに困難だが、確実にいえることは、それが現在の延長ではないということである。これが読めなくて困っているのはわたしたちだけではない。おそらく日本中、世界中でだれにも正解がみつからないのではないか。この十年、世界と日本の政治情勢をみていて、つくづく思うことである。そしていささか政治をかえる仕事にもかかわってきた人間として、やりようによっては世界もかえられるということを証言しておこう。いまの学校教育では、社会をかえるなどという大それたことを考えるなどという教育がいきわたりすぎているように思われるので、そうではない、社会はけっこうかわってゆくし、かえられるのだというのが、わたしの生きてきた結論である。

2017.03.09

シイタケのほだ木づくり

  NPO法人「土に還る木 森づくりの会」の方々が「共生の森」の整備とシイタケのほだ木づくりをしてくださいました。
シイタケのほだ木にするために切り倒したのは、コナラの木です。



切り倒された木はほだ木にちょうどよい長さに切りそろえられました。



4月にはこの木にシイタケの菌を植えこむことになります。切断面は次のようになっていました。コナラやクヌギの場合、この切断面からやがて新しい木か育っていきます。東京書籍の『新編生物基礎』には次のような一節があります。

雑木林には炭や薪に利用するコナラやクヌギがみられる。これらは伐採しても、切り株から萌芽(ほうが)が伸び、8~15年くらいすると成熟した樹木となる。これらの樹木は樹液を分泌するものが多く、カブトムシやクワガタムシ、オオムラサキなどの昆虫が集まる。秋になるとどんぐりが実り、カケスやリスなどの動物の食料源ともなる。



一昨年の高校1年生が植えた菌は冬も成長を続け、ほだ木からはたくさんのシイタケが発生していました。



今日のことば

雪晴れてみな陽の色に輝けり今日は手紙の返事を書こう    佐々木義幸

2017.03.06

カルガモ

久しぶりにプールで泳ぐカルガモの姿を見つけました。カルガモは留鳥で一年中見られるカモですが、不二聖心でカルガモの見られる時期は限られています。この番(つがい)は昨年見た個体と同じ個体なのか、このカモたちはどこからやってきたのか、子育てをどこでするつもりなのか、興味は尽きません。


今日のことば

ふるさとの一本道を寒見舞  辺見狐音