フィールド日記
2014.05.14
キツネアザミ
「共生の森」でキツネアザミが咲き始めました。「アザミによく似ているが実はアザミではない。狐にだまされたようだ」ということで、キツネアザミと名付けられました。
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本の中で、哲学者の内山節が1965年頃からキツネにだまされたという話を聞かなくなったと書いています。キツネにまつわる、「人をだます動物」というイメージは薄れつつあるように思います。キツネアザミの名前の由来の説明には詳しい注釈が必要かもしれません。
今日のことば
自然を守る運動は、初めはその破壊に対する告発から始まり、次に自然を守るための規制を要求するようになる。だがその地点でとどまっていることも、また許されない。なぜなら自然を破壊するものは、具体的契機としては、開発や自然の改造であるとしても、その基礎には、私たちの近代から現代にかけての歴史と、その精神がよこたわっているからである。 だから私は人間の理性の力で森を守ろうとすることにも躊躇する。今日の人間の理性とは、現代社会の精神と分かちがたいものでしかない。
恐らく森は、人間たちの営みの確かさをとおしてしか守れないであろう。森とともに暮らす人々の営み、そしてそんな人々を支えていく私たちの営み。そのさまざまな営みが、永遠に循環し続けるように展開していく森の時空とともにあるとき、森は永遠である。
内山節
今日のことば
自然を守る運動は、初めはその破壊に対する告発から始まり、次に自然を守るための規制を要求するようになる。だがその地点でとどまっていることも、また許されない。なぜなら自然を破壊するものは、具体的契機としては、開発や自然の改造であるとしても、その基礎には、私たちの近代から現代にかけての歴史と、その精神がよこたわっているからである。
だから私は人間の理性の力で森を守ろうとすることにも躊躇する。今日の人間の理性とは、現代社会の精神と分かちがたいものでしかない。
恐らく森は、人間たちの営みの確かさをとおしてしか守れないであろう。森とともに暮らす人々の営み、そしてそんな人々を支えていく私たちの営み。そのさまざまな営みが、永遠に循環し続けるように展開していく森の時空とともにあるとき、森は永遠である。
内山節