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フィールド日記

2013.02.25

炭焼きの文化に救われた命  クヌギの冬芽

  2013.02.25 Monday

  
今日の国語の授業で中学3年生に新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』を紹介しました。
授業では組織論と絡めた紹介の仕方をしましたが、この傑作は細部に興味深い事実が数多く書かれ、組織論以外にもさまざまな読み方ができる小説です。
興味深い事実の一つは、199名が雪中行軍で亡くなった中で、助かった兵卒の8名に共通していたのがいずれも農家の出身であり全員が冬山での炭焼きの経験があったという事実です。炭焼きの文化が8名の命を救ったのです。
不二聖心とともに歴史を歩んだ不二農園にも長い炭焼きの歴史がありました。その名残りが今もあちこちに点在するクヌギの雑木林です。炭焼きの歴史を今も静かに語るかのように、クヌギの冬芽が寒風に耐えながら空に向かって伸びていました。

 


以前に不二聖心で美術を教えていらした岡先生の炭焼きの絵です。高校1年生の教室の近くに飾られています。

今日のことば

昨日の新聞から292 平成25年2月25日(月)
『八甲田山 死の彷徨』(新田次郎・新潮文庫)を読む

―― この悲惨事の最大の原因は何か ――

今日のニュースで、青森県の八甲田山の酸ヶ湯温泉の積雪が5メートル32センチとなり全国の最高記録を更新したと報じていました。5メートルというと信号機が隠れるほどの積雪だと言います。八甲田山が日本でも有数の豪雪地帯であることを改めて知りました。
この真冬の八甲田山に敢えて雪中行軍することを強いられた人々がいることをみなさんは知っているでしょうか。
時は1902年、この頃には既にやがてロシアとの戦争が勃発することを日本の陸軍は予想していました。ロシアとの戦争となれば当然、雪の中での戦いにも備えなければなりません。そこで考えられたのが真冬の八甲田山を行軍するという訓練でした。
その時の様子を描いたのが、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』です。今週はこの小説を紹介しましょう。

 冬の八甲田山を舞台とした、ただでさえ厳しい訓練にさらに悪条件が加わりました。統率が大切な軍隊において2名のリーダーが生まれてしまったのです。神田大尉と山田少佐です。神田大尉が本来のリーダーでしたが、行軍に同行した山田少佐が神田大尉の指揮にことごとく干渉するようになります。大尉より少佐の方が位は上です。良識的な判断ができる神田大尉は位が山田少佐より低いがために自分の考えを押し通すことができませんでした。そこから悲劇が生まれます。
例えば、神田大尉は、冬の八甲田山に入るためには必ず案内人が必要だと思って、あらかじめ案内人を頼む準備も進めていました。しかしそこでも山田少佐の干渉によって思わぬ事態が起こります。
その部分を次に引用しましょう。

田茂木野に着いた隊は行李隊を待つために小休止した。村中の者が外に出て雪中行軍隊を見守った。この前、来たときよりは今度の方が大掛かりだなと言いたいような顔であった。
田茂木野の作右衛門と源兵衛が連れ立って大隊本部が休んでいる栗の木の下にやって来た。
「この前来た大尉様はいませんか」
作右衛門が頬かぶりしていた手拭いを取りながら言った。
「神田大尉殿は向こうにおられるがなんの用だ」
将校の一人が前方を指して言った。
「この前来たときに、田代までの案内人のことを訊いておられたから、もし案内人がいるならなんとかしようと思いましてね」
「神田大尉が案内人を頼むと言ったのか」
山田少佐が作右衛門に大きな声で訊いた。作右衛門は、山田少佐を見上げすぐ五日前に来た神田大尉より上官であることを知った。
「案内できる者はいるかどうかと訊いただけで、案内を頼むとは言いませんでした」
「そうだろう、案内など頼むわけがない」
山田少佐はこともなげに言った。
「しかし、案内なしで田代まで行こうというのは、なんとしても無理ではないでしょうかね、道を知っているこの村の者でさえ、いままでに道に迷って二十人も死んでいるところだ。それに明日は、山の神の日だ。山は荒れることに決まっている」
作右衛門はそういうと、一度取った手拭いでまた頬かぶりをした。寒くなったからだった。
「案内人なしでは田代までは行けないというのか」
「まず無理でしょうね。今ごろになると、山は毎日吹雪だ。田代までは広い雪の原っぱで目標になるものはなんにもない」
「この村に案内人は何人いるのか」
「五人ぐらいはなんとかなるな」
作右衛門は源兵衛を振りかえって言った。
「そうだ。五人はたしかだな」
源兵衛はそういうと、
「ああ、この間の、大尉様が来た」
と叫んだ。隊の先頭にいた神田大尉が、こっちへ向って歩いて来るのを見掛けたのである。源兵衛の声で山田少佐はそっちを見た。急いでこっちへやって来る神田大尉と眼が会った。
神田大尉は、作右衛門と源兵衛が直接大隊本部へ行ってしまったのを見て、しまったと思った。神田大尉は、田茂木野へ着いたらすぐ、作右衛門と源兵衛を呼びにやり、二人を通じて案内人を手配し、その処置が終わったあとで山田少佐に報告に行こうと思っていた。神田大尉は、雪中行軍隊の指揮官であるから、その措置に対して山田少佐が反対する理由はない筈であった。だが、作右衛門と源兵衛は直接、大隊本部の山田少佐のところへ行ったのである。
「お前たちは案内料を欲しいからそのようなことをいうのだろう」
山田少佐の怒鳴る声が神田大尉の耳に入った。神田大尉はぎくりとした。思わず足が遅くなった。
「雪の中を行く軍(いくさ)と書いて雪中行軍と読むのだ。いくさをするのにいちいち案内人を頼んでおられるか、軍自らの力で困難を解決して行くところに雪中行軍の意味があるのだ。お前等のように案内料を稼ぎたがる人間どもより、ずっと役に立つ案内人を軍は持っている。見せてやろうろか。ほれこれは磁石というものだ。」
山田少佐はポケットから磁石を出して、作右衛門に見せた。
「磁石と地図があれば案内人は要らぬのだ」
作右衛門と源兵衛は、揃ってぺこりと頭を下げた。これ以上なにもいうべきではないという顔をした。
神田大尉は、山田少佐が作右衛門と源兵衛に向って怒鳴った言葉は、実はそのまま、指揮官の自分に向けられたものであることを知っていた。山田少佐は、神田大尉に対して案内人を使ってはならぬと命令したのである。それは、この雪中行軍の指揮権に対する干渉であった。
「案内料が欲しいがために、案内人がなければ田代へ行くのは無理だなどと言いおるわい、ばかな奴等だ」
山田少佐は神田大尉の顔を見て念を押すように言った。案内人は使用しないことに決めたぞ、分ったかと言わぬばかりの言葉であった。


山田少佐の考えは間違っていました。案内人がいなければ、冬の八甲田山に挑むのは無理だったのです。そのことが行軍を始めて間もなく明らかになっていきます。


その日輸送隊に当ったものは特にみじめであった。彼等の下着は汗でびっしょり濡れていたが、着替えもないし、脱いで乾かす炭火の余裕もなかった。夜が更けると共に暴風雪はいよいよ激しくなり、気温は著しく降下した。寒気は、二枚の外套を通し、軍服をつらぬき、濡れたままになっているシャツにまでしみ通って行った。その寒さは耐えがたいものであった。
「眠るな、眠ると死ぬぞ」
と怒鳴る声が、各雪壕で聞えたが、極度に疲労している兵の中には、気が遠くなるような寒さに誘われて眠りこむものがあった。
午前一時になって半熟飯が一食分ずつ各自に分配された。それで隊員たちは一時的に元気を恢復したが、そのすぐあとに襲いかかって来る寒気には、なんとしても耐えようがなかった。彼等は足踏みをしながら軍歌を歌ったが、その軍歌も途切れ勝ちであった。

 山田少佐は一刻も早くこの窮地を脱しないとたいへんなことが起こるだろうと思った。(中略)
「このまま時間を空費することは兵を死地へ追い込むようなものだ。今すぐ出発すれば数時間前に歩いた道を引き返すことができるが、朝までじっとしていると全員が凍傷にかかって動けなくなる虞れがある。すぐ出発しろ」
神田大尉は山田少佐の命令にさからうことはできなかった。神田大尉は、各小隊長を集めて、午前二時に露営地を出発して帰営の途につくから準備するように命じた。行李隊は各小隊の間に入れて進むように指示した。
「午前二時出発でありますか」
と各小隊長が反問するほど、その出発は誰が考えても非常識に思われた。(中略)
「大隊長殿の命令が出たのだ」
神田大尉はそれ以上のことは言わなかった。山田少佐に夜明けまで待ってくれと頼んだことなど小隊長たちに言ったところでいまさらどうにもならないことであった。
午前二時各小隊は雪壕を出て整列した。兵たちは雪壕を出て吹き曝しの風に当ると思わず身震いをした。寒さを口に出す者もいた。
集合が終り、点呼を取って、いざ出発の号令が掛った直後に、獣物(けもの)のような声を上げながら、隊列を離れて雪藪の中に駈けこんだ兵がいた。その声は絶叫に似ていた。狂った者の声であったが、叫びつづけている言葉の意味は分らなかった。狂った兵は銃を棄て、背嚢を投げ捨て、次々と身につけているものを剥ぎ取りながら、雪の中を想像もできないような力で押し通って行った。周囲の兵たちが引き止めようとしてもどうにもできなかった。気の狂った兵は死力を出して同僚を突き飛ばした。その兵は軍服を脱ぎ、シャツも脱いで捨てた。絶叫はそこで止み、兵の姿は雪の中に沈んだ。
「なにが起こったのだ、どうしたのだ」
神田大尉はその方向に向って怒鳴った。中橋中尉が発狂者が出たことを報告した。
「すぐ手当してやれ、軍医に見て貰え」
だがその時には兵はもう死んだも同然の状態にいた。はだかのままで雪の中から引き摺り出された兵に投げ捨てた衣類を着せ終ったときには、兵はもう動かなくなっていた。
出発に先立ってのその事件は雪中行軍隊の気を滅入らせた。神田大尉はこの兵の死を山田少佐に報告した。
「雪壕を出て、厳しい寒気に身を曝したがために発狂したものと思われます」
神田大尉は発狂者が出たことが、或いは山田少佐の気持を変えるかもしれないと思った。神田大尉はその兵が死に至った経過の概略を述べた。その兵は前日輸送隊員として行李の輸送に全力を出して働いた。彼が着ていた一枚のシャツは汗でびっしょり濡れていた。その汗が小倉の軍服にしみ通り、軍服がかちかちに凍っていた。彼は、雪壕の中で与えられた半熟の飯を口に入れることもできないほど疲れ切っていた。雪壕の中にいたとき既に、彼は疲労凍死の症状を現わしていたのであった。
「それでどうしたのだ。一名の発狂者が出たがために命令を変更せよというのではないだろうな」
山田少佐は神田大尉の機先を制した。もはや、出発する以外に取るべき道はなかった。

 週刊文春の二月二一日号で春日太一氏は、「『八甲田山』は組織論と絡めて紹介されることが多い」と書いています。この「昨日の新聞から」でも、先ずは「組織とリーダー」というところに焦点をあてました。しかし新田次郎は次のように書いています。

装備不良、指揮系統の混乱、未曽有の悪天候などの原因は必ずしも(この遭難事件の)真相を衝くものではなく、やはり「                 」がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。

「        」の中に入る表現は、多くの国の歴史の持つ、ある普遍的な残酷さを抉り出す一節です。ぜひ本を手に取り、 「       」に入る言葉を確認してください。三二〇ページに答えがあります。

悲劇の原因が列挙されることからもわかるように、『八甲田山 死の彷徨』はさまざまな読み方が可能な小説であり、実にいろいろなことを考えさせられる小説です。良い本の条件の一つは、読者にいろいろなことを考えさせることでしょう。ぜひ『八甲田山 死の彷徨』を手に取り、さまざまなことを深く考えるという体験をしてみてください。