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フィールド日記

2013.04.07

今日の日本経済新聞で紹介されたジロボウエンゴサク  不思議な生物、オドリハマキモドキ

  2013.04.07  Sunday

 日本経済新聞に毎週日曜日に連載されている「都会のオアシス皇居」に今週は皇居内の貴重な植物としてジロボウエンゴサクが取り上げられていました。不二聖心でも職員室近くの中庭でジロボウエンゴサクが満開の時期を迎えています。昨日の爆弾低気圧の余波の強風に吹かれながらも、写真のように、たくさんの花が独特の美しい姿を見せていました。

 

  裏道のカシ類の葉の変色した部分に、なにやら点のようなものがついているのを見つけました。大きさは1ミリ程度です。顕微鏡でのぞいてみたところ、小さな糞の塔であることがわかりました。葉を刺激したところ、塔のてっぺんから裏側に潜んでいた幼虫が顔を出しました。この塔は巣の出入り口でもあったのです。ある方の貴重な情報提供により、これはオドリハマキモドキという蛾の幼虫であることがわかりました。オドリハマキモドキは成虫になっても1センチ程度の大きさにしかなりませんが、求愛のダンスをすることで知られています。成長の段階ごとにユニークな生態を持つ不思議な生物です。
http://www.jpmoth.org/Choreutidae/Litobrenthia_japonica.html


 

今日のことば


   ジロボウエンゴサクはスミレなどと同様に、花の後部に尾のように伸びた部分がある。これを使って昔、子どもたちがスミレの花と絡め、引っ張り合って遊んだという。強そうに見えたスミレを太郎坊、対戦相手を次郎坊(ジロボウ)と呼んだとの説がある。
   葉の深い切れ込みは冷たい風をやり過ごすのに適しているとも言われ、寒さに強い。同じ仲間はヒマラヤ山地でも確認されている。

「都会のオアシス皇居」より  

2013.04.06

ナツグミの新緑  ナツグミの絵かき虫



  

2013.04.06 Saturday

「共生の森」のナツグミが新緑の季節を迎えています。昨年、多くの苗木が鹿に食べられるなか、なぜかナツグミは被害が少なかったのを記憶しています。そのおかげもあってか、元気よく若葉を開き始めました。鹿は敬遠したナツグミですが、さっそくナツグミの若葉を食べようと潜り込んだ絵かき虫の幼虫がいます。採集して観察したところ、葉の表裏の間に潜り込んでいた幼虫が外に出てきました。環境の変化により、食草の状態の変化を察知した幼虫が移動を開始したものと思われます。そしてあっという間に蛹になってしまいました。生物は自分の属する環境が危機にさらされると自ら成長を速めて子孫を残せる状態に一刻も早く到達しようとします。これもその一例でしょう。
絵かき虫についての専門書を見ても、ナツグミの絵かき虫(潜孔虫)についての記述が見つかりません。この蛹から何が羽化するのか、今から楽しみです。


 
 
今日のことば

世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ。

ジョー・ディマジオ

2013.04.05

クリの新芽  コブシの実

  2013.04.05  Friday

 週末に爆弾低気圧が近づいているとは思えないような穏やかな天気の一日でした。築山の枝垂れ桜も満開です。

 栗畑の栗の新芽もだいぶ膨らんできました。

 特別第8教室の窓から見えるコブシの木は花の季節を終え既に実が作られ始めています。これから実っていこうとする姿には花にはない美しさがあります。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」という心境になります。

今日のことば

みみをすます
じゅうねんまえの
こじかのなきごえに
ひゃくねんまえの
しだのそよぎに
せんねんまえの
なだれに
いちおくねんまえの
ほしのささやきに
いっちょうねんまえの
うちゅうのとどろきに
みみをすます

谷川俊太郎

2013.04.04

貝母(バイモ)の花

2013.04.04 Wednesday

 中里恒子に「貝母(バイモ)の花」という小説があります。約50ページの短編ですが、バイモの花にふれた部分はわずか数行です。その部分を引用してみましょう。


せまい庭に、貝母の花がいちめんに咲きひろがつてゐる。点点と、花はうなだれて咲いていた。
「よくふえましたね、」
「これだけは、大事にして、前の家から移しました。花は、たつた五日か七日咲くために、一年中埋もれてね……」
風にゆれて、つぼんだ花芯がゆらゆらゆらめくのを、わたしは、無心に眺めてゐた。

 短いですが、忘れがたい印象を残す一節です。
今の時期の不二聖心では、まさにこの小説の描写にある通りの、花芯のゆらめく姿を東名高速沿いの道で見ることができます。

 

今日のことば

昨日の新聞から211 平成22年10月25日(月)
『不器用な日々』(清水眞砂子 かもがわ出版)を読む

―― あなたの心に火を灯す一冊のエッセイ集 ――

金曜日に静岡市にある私学会館に出張しました。私学会館から静岡駅に向かう途中に谷島屋という、個性的な品揃えの書店があります。帰りに店の中を覗いて見て一冊の本が目にとまりました。児童文学者の清水眞砂子さんの『不器用な日々』というエッセイ集です。手にとってページをめくり、すぐにこの本を購入することを決めました。長い間、探し続けていたエッセイが収められていることを知ったからです。それは「あこがれを手放すとき」というエッセイで、4年前に『婦人之友』という雑誌で読んだときの感動が忘れられず、何とかしてもう一度読みたいと思い続けてきた文章でした。次のような内容のエッセイです。
 個人的な体験から語ろうと思う。小学校3年か4年のある日、私は同じ集落の子どもたちと缶けりをしていた。Kさんが鬼になった(当時私たちは子ども同士さんづけで呼びあっていた)。Kさんはみんなより少し動作がのろかったから、なかなか鬼からはずれなかった。私はKさんをこのままいつまでも鬼にしておいてはいけないと思った。自分がグループのリーダーであることは自覚していたのだ。が、同時に、Kさんがぐずだからいけないんだ、と別の声がささやいた。缶けりはそのまま小一時間も続いただろうか。どのように終わったかは憶えていないが、とにかく終わって、子どもたちはばらばらに家路についた。
この日のことがやがて私を苦しめることになった。大学3年のときだったと思う。私は半年ほどまともに外を歩けなくなった。授業にはとりあえず出ていたが、うわの空だった。人ごみの中を歩いていると、もし今、鎌をこの手にしたら、自分はすぐ前をいく人の首を掻き切るかもしれないと思った。悪が瞬間、私を支配したら、何だってやりかねないと思った。私は身をひそめて、本ばかり読んでいた。自分を肯定できる何物も見つからなかった。幼い頃のことも次々とよみがえってきた。その中に缶けりをしたあの日の風景があった。何てひどいことを! なんという意地悪を! しかし、それが自分だった。醜い自分。人でなしの自分。私はきりきりと自分を責めた。
それから6、7年して、結婚し、人の子の母となったKさんが私の家に遊びにきてくれたとき、――Kさんは中学校を卒業して以来別の道を歩いていたのに、会うと気さくに声をかけてくれていたーー、私はあの缶けりのときの自分の非をわびた。Kさんは忘れているようだった。あるいは忘れたふりをしてくれたのだったか。
Kさんのことだけではない。大学生のあの頃、私は自分が家族を含め周囲の人たちにしてきた行為のひとつひとつを思い出し、こんな自分がこの世に生きていていいのだろうかと毎日自分を責め、自殺を考え続けた。が、自殺もできない自分がそこにいた。どうしたらいいか。私はこれまでの己の言動をわび、この世にいることを許してくださいと、見えないものに向かって、ひたすら頼むほかなかった。神がいてくれるなら神にと思ったが、そのときも、そして、今に至るまで、私は神に出会えていない。いじめたのはあの缶けりの日のKさんだけではない。同じ頃、私は時折妹に意地悪をした。幼いなりに、自分がなぜそうするのかはわかっていた。私は我慢していたのだ。家族の誰に言われたのでもないのに、我慢していた。家が苦しいのがよくわかっていた。私はごはんにかけるふりかけも始末しなくては、と自分に言い聞かせた。ところが三つ下の妹は好き放題にかけている。こちらはこんなに我慢しているのに。そんなとき、私はちくりちくりと妹をいじめた。このことでも、私はのちに自分を責めた。幼い妹に何がわかっていたというの。ただ食卓のものをたのしんでいただけなのに。
たかがわずかなふりかけのことで勝手に我慢し、我慢しない妹に意地悪したことを私は今もすまなかったと思っている。私は我慢して「いい子」「いい人」をやっている人が、そうしていない人をいじめたくなる気持ちがわかる。わかるが、それは何とも貧しい、情けない行為だ。(中略)
おまえのは小さないじめだと人は言うかもしれない。が、いじめに大きいも小さいもない。いじめは、いじめである。(中略)
今、小中学生の間で起こっていると報道されるいじめの話を聞くと、先にいじめに大きい小さいはないといったものの、私が体験したものとは質も規模も異なってきているように思われる。子どもの私はなぜ、あの時点で引き返せたのか。今もなお引き返すことのできる子どもはいるはずだし、そもそも、いじめに手を染めない子どもも大勢いるはずである。阪神大震災のあとは、しばらくいじめが起こらなかったとも聞く。それは何によってか。
二年ほど前、どうしたらいじめがなくなるか、と学生たちと話し合っていたとき、ひとりの学生がさらりと言ってのけた。「授業が面白かったら、いじめなんて起きませんよ」。ああ、本当だ、と私は思った。今思えば、あれはいじめだったのかもしれないと思うものにも、子どもの私はでくわしている。だが、私は自分を加害者として責めはしても、被害者と思ったことがない。私はいじめとは意識しないまま、つらいときは普段以上に勉強し、本を読んだ。そうやって自分を支えていた。自分の自尊心を支えていた。学生時代、自分を責めて責めて責め続けたのだって、自尊心あってのことだったかもしれない。人間として恥ずかしいとの思いがなければ、あれほど苦しむことはなかったに違いない。そして、そう、私には憧れがあった。子ども時代も今も。
学生が言うのは本当だ、と改めて思う。授業が面白かったらいじめなんて起こらない。ならば、その面白い授業とは?
それは、はるかなものへの憧れを私たちの中にはぐくんでくれる授業であり、己の内深くおりてゆけるはしごを差し出してくれる授業である。この学生と付き合っていると、それがよくわかる。彼女の視野にはいつもはるか遠くのものが入っている。小中学生には無理だなどとは決して言うまい。はるかなものとは、手の届かない遠いところにばかりあるとは限らない。神秘は日々のくらしの中にある。身近な草木や石が、雨や風が、色や形が、ことばや物語が、人々の生活技術が、私たちをはるかなものへと誘ってくれる。私たちに遠くを見せ、深みをのぞかせてくれる。学生が言うのは、日々の授業が、この世界の不思議への扉を開けてくれるものになっているならば、子どもたちは、くだらないいじめなどにうつつをぬかしているはずはない、ということだ。それなのに、今、子どもたちは傲慢にこそなれ、自尊心を奪われ、気がつけば「憧れ」はほとんど死語になっている。はるかなものへのまなざしなど、大人も子どもも、とうにどこかに置き忘れ、「ふつう生きる」などという、ありもしない幻想を追うことにやっきとなっている。よりよき人間に憧れ、そこに一歩でも近づこうとする真面目さも、私たちの先を生きた人々がずっと大切にしてきた自由への憧れも、さまざまな不思議に驚くことも、「ふつう」からはずれたものに見える。憧れを手放したとき、人は「ふつう」を標榜するようになるのだろうか。となれば「ふつう」はすさみであり、いじめの最大の温床になりうる。いや、すでになっていると人々は気づきながら、さらに「ふつう」を目指そうとしている。
成果主義も「ふつう」だと政府はさらに追い打ちをかけ、教育現場にさらに「ふつう」を持ち込もうとする。このままでは、いじめは増えこそすれ、減ることはないであろう。

このエッセイを読み、「はるかなものへのあこがれ」を生徒の心に育てる授業をしたいと強く思ったことを昨日のことのように記憶しています。その思いは、ぼくのなかにずっとあり続け、この年の終わりにその思いを詩にして曲をつけ、卒業式の日のホームルームで、生徒へのはなむけの言葉として歌ったことも覚えています。それは次のような歌詞でした。

はるかなものへの憧れを

はるかなものへの憧れを あなたは忘れないで 育ててください
どんなときも それはあなたの 希望になる
遠い国 遠い昔 はるかな未来 広い空
あなたはまだ人生を歩みはじめたばかり

はるかなものへの憧れを あなたは忘れないで 育ててください
どんなときも それはあなたの 希望になる
つらい時 楽しい日々 忘れられないあの思い出
すべての先に新しくきっと何かが生まれる


この曲を心に蘇らせつつ、「あこがれを手放すとき」を再読し、さらに他の文章も読んでいきました。その中で、とりわけ印象深かったのは、2010年1月29日に青山学院女子短期大学で行われた最終講義の内容でした。清水眞砂子さんは、学生たちに最後に一つのお願いをします。


今日は最後に、特に学生さんにお願いしたいことがあります。この人に出会えたから自暴自棄にならずにすんだと、そう思われるひとりにいつの日かなってほしい。この人に会ったから、この人に出会えたから生きられたという、そういうひとりになってほしいということです。何とか食べていければ、社会的地位などというものはどうでもいいものです。あなたがいてくれてよかった、おかげで人間なんて、どうせ、と言わずにすんだという、もっと言えば、子どもの本がしてきたような仕事、そういう子どもの本の一冊に、皆さんおひとりおひとりがなってくれたら、と願っています。


この一節を読んで、何かが自分の中で変わったと感じました。そして、「先生」について語った次の言葉を思い出しました。

普通の先生は、よくしゃべる。
よい先生は、何かを説明しようとする。
優秀な先生は、教えたことを自分自身が模範となって示す。
そして偉大な先生は、出会う人の心に火を灯す。


ぼくの中で何かが変わったと思った瞬間は、ぼくの心に一つの火が灯った瞬間だったのでしょう。清水眞砂子という児童文学者は一人の偉大な教師でもあったのだとこの本を読んで改めて思いました。

2013.04.03

オオシマザクラの花びらの黒い点の正体





 2013.04.03 Wednesday
裏の駐車場のオオシマザクラの花が満開となりました。写真にも無数の花の一つが写っていますが、花びらに黒い点がついているのがわかるでしょうか。自然観察ではこのような小さな印に目を向けることが大切です。これは何かのフンではないかと思って花の中をのぞいてみました。中には赤茶けた色をした小さなイモムシがいました。キリガ類の蛾の幼虫のようです。

 オオシマザクラは葉柄についている赤い蜜腺から甘い蜜を出して虫を呼び寄せ受粉に一役買ってもらいます。受粉を助ける虫もいれば、花を食べる虫もいて、桜と虫との関わりもさまざまです。

今日のことば

散る花は数かぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

上田三四二

2013.04.02

生物農薬としての可能性を秘めたネコグモ

  2013.04.02 Tuesday

 裏道に生えているカシの木の葉の中に葉先が丸くなっているものが何枚かあることに気づきました。葉を伸ばしてみたところ、中からネコグモのオス(頭から生えている、触覚のような触肢の先端がふくらんでいて複雑な構造を持っていることからオスであることがわかります。赤丸参照。)が出てきました。
このクモは茶畑にもよく生息していて、チャノミドリヒメヨコバイなどの茶の害虫を食べてくれることが調査で明らかになっています。2001年には静岡県茶業試験場の研究員の方が「茶園におけるネコグモ、アサヒエビグモのチャノミドリヒメヨコバイ捕食率の推移」という論文も発表なさっています。不二農園のお茶が減農薬で生産できているのは、不二農園の方々の努力とともに、周囲の豊かな生態系の中にネコグモのような自然の生物農薬が豊富に生息しているからかもしれません。あのレイチェル・カーソンもクモが果たす生態系の中での役割の大きさを強調していました。クモのおかげで若葉が守られている樹木は、お茶の木も含めて決して少なくはないと思います。
 

 

今日のことば

 学校は、授業の内容を生徒たちに学ばせるための場と思われているかもしれないが、学ぶ側からはそれは学校に来るきっかけの一つにすぎない。教えるのが上手ということであれば、やがてコンピュータを使ったティーチングマシンのほうが上手ということになっていくだろう。塾や予備校だって同じようになっていくと思う。でも、生徒はそれで満足するわけではない。そこには生身の、教えたいという願いをもった、自分自身の人生を生きてきた、先輩としての人間がいるのだ。生徒はたまたまであるかもしれないが、そこで出会った人生の先輩である教師の人間性そのものとつきあいたいのだ。授業や学活や部活で、教師はもっと自分を語ってほしいとみな願っている。どんなことに感動したのか、何に怒っているのか、若いころどうして教師になろうと思ったのか、等々、教師自身の人間性をそのまま出してほしい、そう強く願っている。そのことをぜひ忘れないでいてほしい。生徒たちは「人間」と出会うことを心から欲しているのだ。

汐見稔幸  

2013.04.01

クサボケとウグイス  木瓜と夏目漱石

 

 2013.04.01 Monday

 牧草地のクサボケがしばらく前から咲き始めています。昨年は4月12日にフィールド日記でクサボケが咲き始めたことを書いていますから、サクラと同じように、今年は花の咲くのが早いようです。ちなみにクサボケもサクラもバラ科に属しています。
フィールド日記 2012.04.18 クサボケ  ズアカシダカスミカメ
漱石に「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」という句があり「才人群中只守拙(才人の群れの中にただ拙を守る)」という詩があります。器用に立ち回るより愚直に生きることをよしとした漱石の心をうかがわせる句であり詩です。大作家漱石もすばらしいですが、木瓜を愛し菫を好んだ漱石になぜか心ひかれるものを感じます。
画像をクリックすると3月28日に録画した動画が見られます。背後にウグイスの鳴き声がかすかに聞こえます。クサボケは12の県で絶滅危惧種か準絶滅危惧種に指定されています。

今日のことば

努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する、それが真のよいものである。

幸田露伴  

2013.03.31

コナラの赤い新芽  ゴミに擬態するゴミグモ

2013.03.31 Saturday
 
「共生の森」に昨年高校1年生が植えたコナラの新芽が開き始めました。コナラの葉は開き始めた時には赤い色をしています。春の雑木林が全体に赤茶けて見えるのことがあるのはこのためです。早速ゴミグモがコナラの枝に巣を張っていました。ゴミに擬態しているゴミグモの姿が識別できるでしょうか。クモがいるということは、新芽を食べようとすでに虫が集まり始めているということです。 

今日のことば

青春期の悩みにぶつかったおいの満男が質問した。
「人間は何のために生きてんのかなあ」
寅さんはこたえた。
「何て言うのかなあ、ほら『あー生まれてきて良かったなあ』って思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのか」

「寅さんの伝言」(朝日新聞)より  

2013.03.30

『じかきむしのぶん』  羽化したスイカズラハモグリバエ



 2013.03.30 Saturday
福音館書店から出ている『じかきむしのぶん』はいわゆる「絵かき虫」(潜孔虫)を主人公にした珍しい絵本です。きわめてシンプルな作りの本でありながら、ハモグリバエの幼虫が糞をしつつ進んでいく様子なども丁寧に描かれていて、児童への「絵かき虫」入門としての役割を果たし得る貴重な絵本となっています。このような絵本が出版されているのは世界でもあまり例のないことではないでしょうか。不二聖心にもたくさんの「じかきむし」(字書き虫)がいますが、その中の一つ、スイカズラハモグリバエが羽化しました。スイカズラという植物がなければ絶対に生きていけない生物です。生態系は、このような目に見えにくい、たくさんのつながりによって成り立っています。

今日のことば 

わが国は世界でももっとも優れた多くの図鑑を出版している国と言ってもいい状況にある。それは植物、キノコ、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚、昆虫、エビ・カニ、貝類その他多くの生物群や岩石鉱物にわたり、現代の写真術を駆使した素晴らしいカラー写真によって印刷されている。
ヨーロッパ、アジアなどの外国の書店を覗いてみると、蝶、鳥、大型の甲虫、ランなど大型で美麗 な動植物の図鑑は多く置いてあるが、わが国で出版されている一般の関心がそれほど高いとは思えないクモ、ダニ、蛾、土壌動物、蘚苔類、海藻などの図鑑はほとんど見当たらない。このことは、日本におけるナチュラルヒストリーの広範囲な発展の下地が整っていることを示しているような気がする。

青木淳一  

2013.03.29

雑木林を歩くキジ

 2013.03.29 Friday
  今朝、裏の駐車場の近くでキジと出会いました。不二聖心のキジはだいぶ人に慣れていますので、すぐ逃げ出すようなことはありません。こちらの様子をうかがいながら静かに雑木林の中に消えていきました。その時の様子は動画で見ることができます。しばらくは「ケーン、ケーン」というキジの声が林の中から響いていました。高3の教室で授業をしていると時々この声が聞こえてきます。「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉を生んだ昔話のキジはこの声が災いして猟師に撃たれますが、不二聖心は禁漁区ですのでいくら鳴いても撃たれる心配はありません。悠然と歩くキジの姿が校内のあちこちで見られます。

今日のことば 

父母のしきりに恋し雉子の声

松尾芭蕉