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フィールド日記

2013.03.10

金色に輝くコガネコバチが水面を移動していました



 2013.03.10 Sunday
第2牧草地の池で奇妙な光景を目にしました。水面を金色に輝く寄生蜂(コガネコバチの1種)が移動していたのです。3ミリ程度の小さなハチですが、画像を拡大すると産卵管がはっきりと見え、雌であることがわかります。水上の何かに産卵しようとしていた可能性があるわけです。動画のURLをクリックすると金色に輝く様子が一瞬ですが見られます。水面をハチが移動する例は珍しく、この観察例は日本で初めての記録かもしれません。

今日のことば

正しい信仰が必要だ。どんな信仰でもいいというわけじゃない。それから、いつもへりくだっていなきゃいけない。つつしんで宇宙の創造主の御業の一部を拝見させていただく気持ちで、実験をしなければならない。つまり、私たち科学者が実験室で実験しているのと、修道士が修道院で祈っているのと同じなのだ。実験は祈りだよ。

永井隆  

2013.03.09

木製の素敵な木の名札を設置しました







 2013.03.09 Saturday
「共生の森」の苗木に、株式会社インプル特製の木製の木の名札を、高校1年生がつけました。木製の名札には、今までつけてきたプラスチック製の名札とは違う味わいがあります。この木の名札が朽ちる頃、「共生の森」は立派な森に育っているはずです。

今日のことば 

明日世界の終わりがきても
今日は私はオレンジの木を植える
そんなイスラエルの言葉を信じながら

高石ともや

2013.03.08

正門近くのヒメリュウキンカ

 

 2013.03.08 Friday
昨年はプールでよく見かけたカルガモの夫婦が今年はいっこうに訪れないのを心配していましたが、今朝ようやくカルガモのつがいを見ることができました。
正門のところでは、ヒメリュウキンカがたくさんの花を咲かせています。花弁の光沢は独特の輝きを持ち、慣れると一目見てヒメリュウキンカだとわかります。

今日のことば

本当に美しいもの、人間的なものを発見し、そこにひそむ美しいルールを発見してゆくためには、理科の勉強はとても大切である。哲学、社会学、心理学など、人間にかかわる学問、さらには美を創造する芸術にたずさわる人たちも、人間がよって立つところの自然、宇宙の法則、そして遺伝子やDNAについて学ぶことは大切である。
そして何よりも、少年のころ自然にふれ、自然に感動したという体験を持つことが大切だと私は思う。理系とか文系とかは関係ない。そして、理系の学校に入って科学を研究するようになったとしても、その研究の原動力になるのは、少年のころ持った美へのあこがれではないかと思っている。

多田富雄  

2013.03.07

築山の池のコカゲロウ

 

 2013.03.07  Thursday

 昨日に引き続き築山の池の生物を紹介します。今日はカゲロウの幼虫が元気に泳ぐ姿が見られました。すでに羽化している個体もたくさんいました。専門家の方からはコカゲロウ科のシロハラコカゲロウではないかというご教示をいただきました。シロハラコカゲロウは山地の渓流から平地の浅瀬まで広く分布する種のようです。カゲロウはきれいな水のある特定の環境に生息することから環境指標生物と呼ばれることがありますが、広域にわたって生息する種もいることがわかり勉強になりました。動画を見ると鰓を動かしている様子がよくわかります。


今日のことば

美しいとは、そもそも何だろうか。私は、自然が時間とともに作り出したものこそ美しさの原型なのではないかと思う。あらゆる芸術は、自然を眺めたときの人間の感動から始まる。何十億年もの時間をかけて、私たちの宇宙が作り出され、そこに生き物が生まれた。私たち人間はその究極の産物である。人間の美への欲求は、進化の歴史の中で作り出されたに違いない。

多田富雄  

2013.03.06

移入種のサカマキガイを発見



 2013.03.06 Wednesday
 今日は急に気温が上がりました。裾野市の夕方の5時の気温が13度ありました。静岡市では最高気温が20度を超えたということです。
急に生き物が動き始めた築山の池でサカマキガイが見つかりました。北アメリカからの移入種です。 
いったいどのような経路で不二聖心に侵入してきたのか、興味深いです。多くの貝が右巻きであるのに対し、サカマキガイ(逆巻き貝)は左巻きです。
中学2年生が行ったサカマキガイについての非常に面白い研究がネット上で公開されています。
http://www.shizecon.net/sakuhin/42jhs_minister.html

今日のことば

人間はだれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。

シモーヌ・ヴェイユ  

2013.03.05

開花した河津桜  虫こぶに住むアリ



 2013.03.05
 今日は啓蟄です。不思議とこの日を境に自然界はいっそう春めく気がします。河津桜も可憐な花を咲かせました。

昨日の「不二聖心のフィールド日記」で紹介したタマヤドリコバチはクヌギエダイガフシという虫こぶの形成者に寄生する蜂でしたが、この虫こぶが空き家になったあとでその空き家を利用する生き物がいます。その代表はアリとクモでしよう。第2牧草地の上の雑木林で空き家に新たに集団で住みついているアリの一族を見つけました。テラニシシリアゲアリではないかと推測していますが、中に白色の個体がまじっているのが興味深いです。

 

今日のことば

息を吸うと、酸素が入ってきます。それは植物と太陽からやってくる光によって生み出され、私たちの活動のエネルギーを生み出します。私たちは、個々の独立した生命体ではありません。自然の大きな生命の中に織り込まれている。誰でも知っていることですが、それをただ知識として知っているのと、それを肌で実感することの間には大きな違いがあると思いませんか?

星川淳  

2013.03.04

南アフリカからのメールでタマヤドリコバチ科(Ormyrus)と判明

 

 2013.03.04 Tuesday
  すすき野原のクヌギから採集したクヌギエダイガフシという虫こぶから寄生蜂が羽化しました。タマヤドリコバチ科のハチではないかと思い、いろいろ調べたところ、南アフリカのケープタウンにある博物館のホームページの中にタマヤドリコバチ科のハチだけを集めたページを見つけました。ホームページの製作者であるSimonさんに不二聖心のハチを見ていただいたところ、間違いなくタマヤドリコバチ科のハチだと教えていただきました。一匹のハチがきっかけで南アフリカの研究者とつながれたことをうれしく思っています。件のホームページは下のURLをクリックすると見られます。
http://www.waspweb.org/Chalcidoidea/Ormyridae/Ormyrus/index.htm

 
今日のことば

文章の品格というものは、技術を超えたところにあります。文章技術はむろん大切です。が、それだけでは「品格」という巨大なものを肩にかつぐわけにはいかない。人間全体の力が充実しないと、肩にかつぐことはできないもののようです。

辰濃和男  

2013.03.03

薩摩紅梅の花弁  築山の池のプランクトン

 2013.03.03 Sunday
築山の池に薩摩紅梅の花弁が浮いていました。その周りにあるのはカゲロウの抜け殻です。水中のプランクトンの動きも活発になってきました。池の水面の風景にもいろいろな春を感じることができます。

今日のことば

寒い日が続くがやはり時期がくると梅、桃などが咲き始める。時々、不思議に思う。葉も無く棒切れのような木の枝からこんなに寒いのにきれいな花が咲く。毎年繰り返されていることだし当たり前といえば当たり前なのだが、やはり自然はまだまだ分からないことが多い。われわれはまだまだ潜在能力を秘めた自然とうまく付き合えているのか?とふと考えさせられる。

青木嘉孝  

2013.03.02

河津桜の蕾



 2013.03.02  Saturday
講堂の横の河津桜の蕾がふくらんできました。今年の寒さに影響されてか、例年より開花が遅いように感じます。今日は新入生学校説明会が行われましたが、河津桜は花期が長いと言われますので、4月4日の入学式の頃にもまだ花が見られるかもしれません。

今日のことば

小雨の降る日、籬の梅のしろく咲きて、そこらおぼつかなきほどに見え侍りければ 

雨雲の梅を星とも昼ながら

鬼貫  

2013.03.01

キジムシロの奇形 2年連続の発見

  2013.03.01 Friday

 3月になるのを待っていたかのようにキジムシロが開花を始めました。掲載した2枚の写真はいずれもキジムシロの写真ですが、1枚目と2枚目を比較して違いがわかるでしょうか。上の写真は花弁が6枚ですが、下の写真は5枚です。上の写真はキジムシロの奇形なのです。昨年もほぼ同じ場所で同じ奇形を見ていますので2年続けての奇形の発見となりました。

今日のことば

昨日の新聞から45  平成17年7月11日(月)

『村田エフェンディ滞土録』を読む
――私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもないーー    

今年の4月にクラスの生徒に「中学3年生になって」というプリントを配り、中3になっての抱負を書く時間をつくりました。その中に愛読書について書く欄を設けたところ、ある生徒はその欄に次のように書いていました。

好きな作家は梨木香歩さんです。「西の魔女が死んだ」すっごいオススメです。泣けます。図書館にあります。ぜひ読んでください。

「西の魔女が死んだ」というタイトルからファンタジーのような作品だろうかと思いましたが、それはまるで見当違いでした。新潮文庫の裏表紙には次のようにあらすじが要約されています。

中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。

これを読んで「魔女」が主人公のおばあちゃんであることがわかりました。物語はこの「西の魔女」と呼ばれるおばあちゃんが亡くなるところから始まります。


西の魔女が死んだ。四時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。まいは事務のおねえさんに呼ばれ、すぐにお母さんが迎えに来るから、帰る準備をして校門のところで待っているようにと言われた。何かが起こったのだ。
決まりきった退屈な日常が突然ドラマティックに変わるときの、不安と期待がないまぜになったような、要するにシリアスにワクワクという気分で、まいは言われたとおりに校門のところでママを待った。
ほどなくダークグリーンのミニを運転してママがやってきた。英国人と日本人との混血であるママは、黒に近く黒よりもソフトな印象を与える髪と瞳をしている。まいはママの目が好きだ。でも今日は、その瞳はひどく疲れて生気がなく、顔も青ざめている。
ママは車を止めると、しぐさで乗ってと言った。まいは緊張して急いで乗り込み、ドアをしめた。車はすぐ発進した。
「何があったの?」
と、まいはおそるおそる訊いた。
ママは深くためいきをついた。
「魔女がーー倒れた。もうだめみたい」
突然、まいの回りの世界から音と色が消えた。耳の奥でジンジンと血液の流れる音がした、ように思った。

このように物語は始まりますが、13ページからは時間が一度二年前に戻り、おばあちゃんとのさまざまな思い出が語られていきます。思い出の中で語られるおばあちゃんは「魔女」というよりも「哲学者」か「思想家」か「教育者」という感じで、心に響く言葉を次々に口にします。例えば次のような言葉です。

「おばあちゃんは、人には魂というものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけれど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」(中略)
「魂は身体を持つことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとって願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会を与えられたわけですから」
「成長なんて」
まいは、なぜだか分からないが腹が立ってきた。
「しなくていいじゃない」
おばあちゃんは困ったようにため息をついて、
「本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです」

少女まいとともにおばあちゃんの言葉に耳を傾けているうちに、物語は静かに進んでいき、最後はたった四文字のおばあちゃんの言葉で物語が閉じられます。
『西の魔女が死んだ』を読んでから雑誌や新聞に「梨木香歩」という名前が載っていると自然にそちらに目が行くようになりました。数週間前のある日、不二聖心の図書館でブックスタンドに立てかけられている梨木香歩の本(『村田エフェンディ滞土録』)を見つけたのです。それは今年度の読書感想文コンクールの課題図書を展示したコーナーでした。「おや、梨木香歩の本が課題図書に選ばれたのか」と思い、昨年の小川洋子に続く粋な人選に驚きと喜びを覚えました。ただその時は時間がなく手にとって見ることまではしませんでした。ところがこの本の横を通るたびにどうもこの本のことが気になってしかたがないのです。おそらくブックスタンドに立てかけられた本のたたずまいが何とも言えず魅力的だったからだと思います。決して派手な装丁ではないのですが、中村智という人の落ち着いた品のいい装丁は『村田エフェンディ滞土録』が読むに値する名作であることを静かに語りかけているように思われ、ついに僕はこの本を手にとりました。そして、表紙をめくるとカバーの内側に印刷されている言葉が目に入りました。「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない…」という言葉です。これを読んでこの本は間違いなくいい本だという確信のようなものを僕は持ちました。
7月3日の毎日新聞は大きく見開き2面を割いて読書感想文コンクール特集を組んでいました。もちろんそこでも『村田エフェンディ滞土録』が紹介されていました。その紹介文を引用してみましょう。

トルコに留学した村田君。国を超えて結ばれた友情はやがて悲劇にーー。友だち、宗教、国境とは何だろう。百年前の青春を描く感動小説。

村田はトルコ皇帝の招かれて歴史文化研究のためにトルコにやってきて、ディクソン婦人という英国人の経営する下宿に滞在しています。この下宿には他にもドイツ人のオットーやギリシャ人のディミィトリスが下宿していて、国籍も宗教も異なる人たちの交流を描くことがこの物語の軸となっていきます。先ほど引用した表紙に印刷されていた言葉は79ページに出てきました。病床にあって療養中の木下という日本人のためにディミィトリスが醤油をどこからか調達してきた場面にこの言葉は出てきました。

木下氏のことは、昨夜ディミィトリスに話してあった。そのときからこのことを考えていたのだろうか。何といい奴なのだろう。
――有り難う、本当に有り難う。この醤油ほど、日本人の心を取り戻させてくれるものはないんだ。それにも増して、彼にとって異国人である君の思いやりが、彼をどれだけ励ますことか。
私(村田)は感激のあまり口ごもった。ディミィトリスは照れくさそうに微笑んだ後、
――こんな事は何でもないことだ。「私は人間だ。およそ人間の関わることで、私に無縁なことは一つもない」。
と、呟いた。いつものことながら、ディミィトリスの呟きは実に含蓄に富んでいる。そのことを言うと、彼は、
――いや、これは私の言葉ではない。
と断り、
――テレンティウスという古代ローマの劇作家の作品に出てくる言葉なのだ。セネカがこれを引用してこう言っている。「我々は、自然の命ずる声に従って、助けの必要な者に手を差し出そうではないか。この一句を常に心に刻み、声に出そうではないか。『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。

『村田エフェンディ滞土録』の魅力は、登場人物の多くが国籍を異にし宗教を異にするにも関わらず、「私は人間である」という意識で他国の人と関わる姿勢を持っているところにあるのではないかと思います。
しかしその国籍を超えた交流も、新聞からの引用文にあったようにやがて悲劇を迎えます。実は、最後の10ページぐらいのところまでその悲劇が何であるかは明らかにされません。それまではむしろ物語は静かに淡々と進んでいくのです。最後の悲劇について語ることはできませんが、最後をより深く味わうために、第一章(「鸚鵡」)と98ページをとりわけよく読んでおいてほしいとだけ書いておきます。

 さて、最後に、この一週間のあいだに体験した一つの出来事について書いておきましょう。『村田エフェンディ滞土録』を読み始め、その世界にひたり、気が付けばこの本のことを考えていたある日、僕は職員室のテーブルの上に置かれていた札幌聖心で発行している新聞「聖雪」の第六十六号を手に取りました。そしてパラパラとページをめくって、高校二年生の清水玲華さんの次のような文章を見つけたのです。

 ブックトーク  人が人として生きるために
去る五月二十五日(水)に本校図書館司書新田裕子先生による、人間関係ミーティング「ブックトーク あなた宛てのメッセージ」が行われました。今年は戦後六十年ということで、人は今の時代にどう生きるべきか、幸せとは何か、をテーマに戦争にまつわるたくさんの本を紹介していただきました。
その中でも特に勧めてくださったのが『村田エフェンディ滞土録』です。この本は、国も民族も違う者同士が一つ屋根の下で生活をし、互いが認め合うかけがえのない友となっていく一方で、彼らの国と国とが争いを始めてしまうという、どうにもできない国と国との境界線を描いた作品です。人が人として生きるためにそのような境界線がはたして必要なのだろうか、六十年経った今、平和について考えた時それらにどれだけの意味が存在しているのか、皆さんも一度考えてみてはいかがでしょうか。


『村田エフェンディ滞土録』を紹介しようと意気込んでいた時に、この文章を偶然目にしてとてもうれしく思いました。もしかしたら、この本が伝えようとしているメッセージは聖心が大切にしたいと考えていることとどこかで深く通じているのかもしれません。