校長室から
2016.03.08
欅坂を超えて (2016年3月8日)
学院の校内誌の名前となっている「欅坂」とは、どの坂をいうのでしょうか。そもそも古い文書を見ると学院の住所が「桃園﨔板一九八番地」となっており、「欅坂」は、地名でもあったことがわかります。『創立五十年記念誌』には、制カバンをもって「欅坂を下る生徒たち」という写真が掲載されており、通学路としての坂道が紹介されているアルバム等もあります。現在、校舎に至る坂道として整備されているのは、正門からの坂道、マラソン大会の時に走る通用門からの坂道、そして生徒は普段通ることが禁じられている温情舎跡からお墓へとつながる坂道。そのどれもが、昔の文集等に載せられている「欅坂」の光景とは異なっています。
『欅坂』の表紙題字は音楽と書道を教えてくださっていた湯山徳子先生の手によるものです。先生は、今年の学校目標である「魂を育てる~“Be Elegant”~」をそのまま体現したような方でした。多くの趣味をおもちで歌も詠まれていました。一昨年、裾野市の教育振興基本計画検討委員会に参加させていただいた折、先生の甥にあたる湯山芳健様とお近づきになり、先生の一周忌に出された歌集『たらえふ』を頂戴いたしました。その中に「不二聖心女子学院」という小題のもと学院にいらした頃に詠まれた歌が並ぶ箇所があり、通学路としての坂道を思わせる一首もありました。
校内といへど生徒ゆくことを禁ずる 百合咲く谷路 けふも通ひ来
昨秋、シスターたちと林のほとりで作業をしていた際、偶然、もう一つの坂道を見つけました。入り口は草に覆われていましたが、踏み入ると道そのものはしっかりと残っており、今も鹿が往来しているような跡がありました。ひっそりとした佇まいのやや急なその坂は、途中でお墓への坂道と合流し、敷地内の中継ポンプ小屋脇の緩やかな坂道から温情舎跡(通用門付近)へと続いていました。歩いてみて、昔のアルバム等の写真とも、湯山先生の歌とも、どこか重なるように思い、『欅坂』創刊号発刊に携わられたシスター里見貞代に伺ったところ、この道が山の上に校舎ができた頃の最初の通学路であり、山の上下両方に学舎があった時代には休み時間に教職員が移動した坂道であることがわかりました。
「欅坂」は、さらに先にありました。黄瀬川のほとり、大畑方面から温情舎跡(通用門付近)につながる今は舗装道路となった坂道であると、温情舎ご卒業の中家基良様が教えてくださいました。かつては河川敷までが学院の敷地であり、坂道の傍らに大きな欅の木があったのが由来とのことです。
人生は、よく道や坂にたとえられます。実際の道を歩き、坂を上り下りしながら、自らの生き方を思いめぐらしているのに気づくこともあります。戦前から不二農園と共にあり、戦時中には疎開してきた人々を受け入れ、シスター方が祈り、温情舎・聖心温情舎・温情舎女子中学校、そして初期の不二聖心の生徒たちが通学した欅坂。どれほど多くの人々がそれぞれの思いで踏みしめたことでしょう。その多くは今は坂を下りていかれましたが、一人ひとりの尊い思いが現在の不二聖心女子学院と不二農園を築いてきたことを忘れてはならないと思います。
広大な敷地の学舎ゆえ、普段の立ち入りを制限する場所の方がはるかに多いのは止むを得ないと生徒たちは理解しています。いつか準備が整ったら、先達が歩いた通学路を通って、「欅坂」まで生徒たちを案内することもできるでしょう。
上る道は異なっても、不二の坂道は、どれも天そそる富士に向かって揚々と伸びています。「希望をもって生きる人の眼には、いつも高い理想がある」とおっしゃられた初代院長マザーエリザベス・ダフのお言葉を胸に、生徒たちが、とりわけ今年坂を下りた新卒業生たちが、希望そのものである神様に眼を注ぎ、いかなる急坂をも超えていくことを切に祈ります。