校長室から
2014.02.24
『桃園』巻頭言より
母の会誌『桃園』が創刊されたのは、翌年に学院創立20周年を控えた1971(昭和46)年のことです。前年には奨学会のご尽力によって地区会が始まっていました。1955(昭和39)年にできた寄宿舎には、現在よりも広い範囲から生徒が集まっており、『桃園』は地区会と共に、多様な地域から集う保護者を有機的につなぐことを目的に創刊されました。
「桃園」とは、裾野市中心部から西の方向に位置する三角形の地域を指します。この地の歴史は古く、1551(天文20)年に今川義元が発給した文書にも登場します。不二聖心女子学院創立当初の学院の住所は「駿東郡富岡村桃園198番地」、1957年に富岡村と須山村が裾野町に合併され、1971(昭和46)年には市制施行して裾野市となりましたが、「桃園」という名前はずっと学院と共にあります。
この地名の由来は、平安時代にまで遡ると言われます。第56代清和天皇の第六皇子貞純親王は、京都の邸宅があった地名が「桃園」であることから「桃園親王」と呼ばれ、邸宅の菜園では主として桃の木を植えていたといいます。晩年、事情があって東下された親王は、916(延喜16)年に亡くなられるまで千福村の山城に住まわれ、この地に埋葬されました。1904(明治37)年、学院がまだ「鈴木農場」であった時代に敷地内で親王が埋葬され石の祠が立てられた場所が発見されました。その後、石の祠は桃園親王塔発見の経緯を刻んだ石碑と共に、学院近くにある親王を祭神とする桃園神社境内に納められ現在に至っています。(『裾野市史』裾野市史編さん委員会2001年、『われらが学び舎温情舎』温情の灯会2001年 参照)
創刊号には保護者の「愛とまことと犠牲とよろこびの数々を子供たちの一人一人にそっと感じ取りつつ、その力に支えられながらご一緒によりよい親と教師とになって参りたい」と書かれています。古来、桃は女子の美しさにたとえられ、桃の節句ではその健やかな成長を祈られてきました。かつて不二農園にも様々な果樹が栽培されており、桃の林もありました。『桃園』創刊にかかわった方々が、由緒ある地名とその歴史、そして学院で目にする桃の花や実を子供たちの成長への願いに重ねながら機関誌に『桃園』と名づけたことは想像に難くありません。今年もまた、同じ願いをもって、『桃園』を皆様にお届けしたいと思います。