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フィールド日記

2014.02.05

雪の愛鷹山 -2度の寒さの中で鳴くタゴガエル

 2014.02.05
 昨晩は不二聖心にも雪が降り、「雪やこんこん、霰やこんこん」と元気よく歌う寄宿生の声が聞かれました。一晩中冷え込みの厳しい状態は続き、今朝は7時の時点で-2度でした。
 不二聖心は、愛鷹火山(洪積世中期の48万年前~38万年前の活動)の南東麓の末端域に位置していますが、今朝は雪の愛鷹山を眺めることができました。

以前、不二聖心で理科を教えてくださっていた保坂貞治先生によると、不二聖心の地層は、基盤に玄武岩質の凝灰角礫岩、上部に40~70㎝の亜礫岩を載せる地層からなり、凝灰角礫岩層は水が関与し層状構造を示しているそうです。その水が湧出しているところは、浸食されて穴となり、いろいろな生き物のすみかとなっています。
 幻のカエルと呼ばれるタゴガエルもその穴の中に生活しています。タゴガエルは真冬に交尾をするカエルとして知られていますが、-2度の寒さの中、オスがメスを呼ぶ声が今朝も確かに聞こえていました。

今日のことば

『雨のふる日はやさしくなれる』(平凡社編)を読む
―― 少年院から届いた詩集 ――
 
 六月十五日の朝日新聞の「折々のうた」に次のような歌と大岡信の文章が載りました。

 この澄めるこころ在るとは識(し)らず来て刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し     島秋人(しまあきと)

『遺愛集』(昭四二)所収。昭和四十二年(一九六七)年十一月二日、小菅刑務所で死刑を執行された死刑囚。警察官だった父が敗戦で失職し、自らも中学を出て非行少年となった。新潟県の農家に深夜忍びこみ、主人に重症を負わせ、その妻を絞殺、金品を奪って逃走するがまもなく逮捕された。獄中で短歌を独習し、毎日新聞の歌壇欄に投稿、選者窪田空穂を師父と仰ぐ。多くの愛読者があった。右は刑死前夜の作。三十三歳。

この「折々の歌」を読んで、久しぶりに島秋人のことを思い出しました。『遺愛集』は大学時代の僕の愛読書であり、刑務所での日常を愛おしむ歌を繰り返し読んだことを覚えています。新聞に載った歌には、処刑というかたちで人生の最期を迎える直前の心境が「この澄めるこころ」と表現されていますが、島秋人が落ち着いた静かな心で死を迎えたことは、処刑当日書かれた手紙からもうかがい知ることができます。短歌と出合うきっかけをつくってくれた吉田絢子さんに宛てた手紙を引用してみましょう。

奥様
とうとうお別れです。思い残すことは歌集出版が死後になることですね。被害者の鈴木様へのお詫び状を同封しますので、おとどけくださいね。僕の父や弟などのことはなるべく知れないように守ってくださいね。父たちもかわいそうな被害者なのです。
短歌を作ってよかったと思って感謝しています。僕のことは刑に服してつぐないする以外に道のないものとあきらめています。覚悟は静かに深く持っています。

島秋人の歌と手紙を久しぶりに読んで、僕は次の言葉を思い出しました。刑務所で五十年にわたって作歌の指導をしてきた扇畑忠雄の言葉です。

「わたしは年齢こそ上だが、人生では彼らがベテランです。悪いことをし、苦しんでいるのだから。石ころを蹴飛ばし、花を千切って歩いていた人が、歌を通じて見るものが新鮮に感じられるようになれば、すばらしいことですね」

実は、偶然にも、この一週間の間にもう一度、この言葉を思い出すことになりました。それは『雨のふる日はやさしくなれる』という詩集と出合ったことがきっかけでした。『雨のふる日はやさしくなれる』(平凡社ライブラリー)がどのような本かを伝えるために、嶋谷宗泰さんの「発刊にあたって」の文章を引用してみます。

少年の詩は、心の底の感動を素直にうたい上げるものです。日々の生活の中で、いろいろな思いが心につまって、豊かな感動となり、それがあふれて、濃縮された言葉で表現されたものが少年の詩だと思います。
少年院の少年たちに詩を書かせるのは、彼らの心の底に眠っている人間らしい豊かな感性を呼び覚まし、素直な感動を大切にさせて、それを表現させることで一層豊かな心をはぐくみたいと思ったからです。
八街(やちまた)少年院に来た少年たちはそれぞれ相当に非行の進んだ少年たちです。入院する前は人を傷つけ、自分をも傷つけ、人間であることを自ら拒絶したようなすさんだ心情に身をおいた少年たちです。人間らしい豊かな感受性や知性を堅い殻の中に閉じ込めて、全て無気力に、あるいは野獣のように荒れてきままな生活を送ってきた少年たちです。その少年たちに詩を書かせたいと思いました。一見それはたいへん不釣り合いなのですけれど、不釣り合いだからこそ、やる価値があると考えたのです。
しかし、ここで目指したものは、文学や芸術としての詩ではありません。生活の中の喜びや悲しみを素直に感じ取って、それを簡潔に表現することで、一生懸命生きてゆくことの尊さや、苦労しながら成長することの楽しさを少年自らが認識してゆく方法として詩を指導したいと思ったのです。つまり、芸術として詩を作らせるのではなく、教育として、心を育てる手段として、生活詩を書かせようと考えたのです。勿論、結果として、少しでも芸術の香りのする作品ができるに越したことはありません。しかし、芸術的な価値がなくとも、少年が真剣に考え、感じ取り、その感動を表現することができることをこそ、大切にしたいと思いました。たとえ表現が優れていても、その言葉に真の生活実感がこもっておらず、いわば口先だけで書いたのでは、詩は教育としての力を持ち得ません。表現が稚拙であっても、感動する心をこそ、大切にしてゆきたいと思いました。
詩の指導を開始してほぼ二年がたちました。月に一回程度、全員を集めて、少年たちの作った詩をプリントして配り、それを大きな声で朗読しました。その詩の良いところを話しました。そして、詩は心の感動を表現するものだから、感動を表現できる豊かな心がなければならないということを、だから、詩を作るということは、心を耕して心を豊かにすることなのだということを繰り返し話しました。表現の上手、下手はあまり問題にしませんでした。表現の指導よりも、心の持ちよう、ものの見方や感じ方を指導しました。

嶋谷宗泰さんは、「少年院の少年たちに詩を書かせるのは、彼らの心の底に眠っている人間らしい豊かな感性を呼び覚まし、素直な感動を大切にさせて、それを表現させることで一層豊かな心をはぐくみたいと思ったからです。」と書いていますが、少年たちの詩を読むと、嶋谷さんの思いが見事に実現していることがよくわかります。少年の詩をいくつか紹介してみましょう。

なりたい  和規(幼い頃から父母の葛藤の中で育ち、心の空白を埋めるために暴力団に近づき、覚醒剤を覚えた。)

心がこわれるほど
苦しくて
やさしい言葉をかけてくれる人
捜したけれど
どこにもいない
ふと思う
捜すような人間やめて
やさしい言葉をかけられる
そんな人間になりたい。


うそ   昌士(父子家庭で育ち、母不在の心の空白をうめるため暴力団に関係し、シンナーの密売を続けた。)

今日 詩の話があった
僕の名が二つもあった
素直に嬉しかった
寮にもどると
うそが うまいなあ
と みんなに言われた
悲しかった

僕の生活がみんなに
そう言わせているのかな


 人の祈り   兵吾

人は誰でも祈る
自分の都合に合わせて祈り
それが叶うと喜び 叶わぬと怒り
それでも人は祈り続けて
人など勝手なものだ
無論 私も自分のためにしか祈ったことがない

しかし
人は
自分以外の人のために 祈ることもあるという……
いつか
私も人のために祈ることができるだろうか
本当に人のために祈ることがあるだろうか


 ごめんなさいが言えなくて   吉之

ごめんなさい
その一言が言えなくて
多くの人を不幸にした
ごめんなさい
その一言が言えなくて
自分をこんなに不幸にした
ごめんなさい
その一言が言えなくて
後悔だけが残った
ごめんなさい
心からこの一言が言えていたら
俺は今ごろ何をしていただろう

嶋谷さんは「思えば彼らは、これまでに、幾度も挫折し、深い悲しみと苦しみを重ね、悩み、若くして大いに苦労を重ねて生きてきたわけで、いわば大変な苦労人です。彼らの詩には、彼らでなければ書けない、若い苦労人の優しさがあるように思われます。」と書いています。

本当に苦しんだことがある人だけが持ち得る優しさがある。そのことを、島秋人も扇畑忠雄も嶋谷宗泰も、そして少年たちも教えてくれているように思います。

2014.02.04

スミレモ

スミレモが壁面を覆っている場所が裏道にありますが、その面積が益々増えてきたように感じます。スミレモは空気がきれいなところにしか発生しないと言われます。先日のマラソン大会では、そのきれいな空気を吸いながら全校生徒が裏道を駆け上がっていきました。


今日のことば

人々はあれこれ明日を思えども不具者のわれは神にゆだねん
限りなき主の御恵みをさししめす窓からのぞく柿の若葉よ
                           水野源三

2014.02.01

ラッパスイセン


お茶畑の横の坂道の脇にラッパスイセンが咲き始めました。昨日はマラソン大会があり、この水仙の道を生徒たちが元気よく駆け抜けました。来週は中学校のスピーチコンテストがあります。全体の暗唱の部で中学3年生がワーズワースの水仙の詩を声高らかに暗唱してくれるはずです。


今日のことば

科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはり恋人にのみ真心を打ち明けるものである。                                  寺田寅彦

2014.01.30

続マラソンコースの石仏  カルガモの家族

マラソンコースに道祖神を見つけたという生徒からの報告を受けて確認したところ、それは馬頭観音であったという話を前回書きました。この事実を生徒にも伝えたら、生徒から確かに道祖神もあったという話を聞きました。再び確認したら、確かに道祖神がありました。すぐ近くに道祖神という文字が彫られた石があったのです。その道祖神には馬の姿が描かれた瓦が立てかけられてありました。この馬と馬頭観音は何か関係があるのかもしれません。


今日も朝焼けのきれいな朝でした。写真は牧草地からの眺めです。


この冬はカルガモの夫婦が見られないことをずっと気にしていましたが、ようやく今日、カルガモの家族に出会うことができました。


今日のことば

神は夜の静けさと沈黙の中でお働きになります。     聖マグダレナ・ソフィア

2014.01.28

マラソン大会のコースの石仏  カヤノキ

昨日、中3の生徒がマラソンの練習をしている時に道祖神を見つけましたと言ってきました。「おくのほそ道」の冒頭を学習した時の道祖神の話を記憶していて、報告に来てくれたのです。早速、早朝にコースに確かめに行きました。


残念ながら石仏は道祖神ではなく罵頭観音でしたが、芭蕉が馬頭観音も含めて道祖神と表現した可能性はゼロではないのではないかと思ったりしました。
馬頭観音の近くには地蔵をたくさん集めた小屋もありました。


コースの途中にある熊野神社のカヤノキは富士山麓でもまれにみる大木です。不二聖心のマラソンコースは歴史の香り漂う素敵なコースだと感じました。



今日のことば

希望と歴史は姉妹です。一方は前を向き、他方は後ろを向いて、二人してこの世界を、人が自由に活動できるような広々とした空間にするのです。

                                 レベッカ・ソルニット

2014.01.25

聖心橋から見えるイイギリの実

聖心橋からイイギリ(キリナンテン)の実を眺めるのが、朝の楽しみになっています。1枚目の写真は御殿場方面にカメラを向けて撮りました。

2枚目の写真は沼津方面を向いて撮りました。


不二聖心にたくさん生息しているヒヨドリがイイギリの実を好んで食べます。木の実の多くは鳥に食べられることで発芽率を高めます。2枚の写真に写っているイイギリの木の一生は、ヒヨドリに食べられた一粒の実からスタートしたのかもしれません。

今日のことば

Happiness consists not in having much, but in being content with little.

2014.01.24

山茶花と幸田文

「共生の森」の近くの山茶花がたくさんの花をつけています。


山茶花を見ると思い出されるのは、幸田文の「山茶花」という随筆です。冬の季節の不安な思いを述べたあとで幸田文は次のように書きます。

 でも、さういふ季節的なへんな不安感を救ってくれるものがないぢやありません。山茶花です。みんな身のまはりの色が消えて行くとき、この花はわづかに堪へて白く、うす紅く、一重に八重に咲きます。椿のやうに太い高い木にはなりません。骨細に立つ幹です。葉もお茶の葉くらゐのこまかい紫で、花頸のない花が葉の裏に密着したようになって咲きます。大きな堂々とした花ではなく、少しちぢれ気味の花びらです。しんは黄いろい蕊がたくさんあって、いかにも鄙びてすつきりはしません。しかし、この花びらは肉厚の花びらですから、一見鄙びた花ではあるけれど、よく見るとその色は見ざめのしない染めあがりを見せてゐます。(中略)種類によってはかなり野暮くさい色をしてゐますが、それとて一枝を手に取つて近く眺めればよくわかります。肉厚の花弁ですから、野暮は野暮なりに決して薄つぺらではありません。いぢらしいほど正直に染まった花弁なのです。もともと高価なものではありません。ときによれば垣根に仕立てられてゐるところさへあるくらゐなものです。木ぶりも花も椿にはぐつと劣りますけれど。これが淡い匂いを吐いて気どりもなく、ほそ枝に群がって咲いてゐるのを見ると、ものがみな色を失つてしまふ冬の入口の不安な気分が、ほつと助かる思ひがします。

 このあと幸田文は、山茶花はぺちゃぺちゃおしゃべりをしない木だと続けます。物静かな人に独特の魅力があるように、物静かな花にも他に代えがたい味わいがあるようです。

今日のことば

ああ智慧(ちゑ)は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」
                         三好達治

2014.01.21

昇る朝日  ニイニイゼミの抜け殻

今朝は昨日までと比べて若干気温が高く、昇る太陽が実に美しい朝でした。


教頭の田中正延先生が、ニイニイゼミの抜け殻がキンモクセイの木についているのを見つけてくださいました。秋に何度も台風が来たにもかかわらず、落ちることのなかった抜け殻です。蝉の種類で抜け殻もさまざまですが、ニイニイゼミは泥にまみれているので、よくわかります。まもなく中学3年生は授業で「おくのほそ道」の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」の句を学習する予定ですが、あの蝉もニイニイゼミだと言われています。


今日のことば
岩に爪たてて空蝉泥まみれ   西東三鬼

2014.01.15

堆積する落ち葉とイボトビムシ

 落葉の時期は樹木によってさまざまですが、さすがに今の時期になると、落葉樹の葉はほとんどすべて落ちつくしてしまいます。落ち葉の降り積もった場所は不思議な静けさをもっていますが、実はその下には多数の生き物が生活しています。

 下の画像の生物は校舎の裏道の脇に堆積する落ち葉の下から採集したイボトビムシ科のトビムシです。属はLobellaかVitronuraではないかと思われます。


 トビムシは跳躍器を持つために「跳び虫」と名付けられていますが、イボトビムシ科のトビムシには跳躍器がありません。トビムシは食物連鎖の底辺を支える重要な生き物です。跳躍器を持たず逃げるのが下手なイボトビムシは、とりわけ多くの生物の命の糧となっている可能性が高いと言えます。

今日のことば

メキシコ産のつゆくさの学名も読みて行く学名は学のよろこびのごと     高安国世

2014.01.12

マリアガーデンの蠟梅(ロウバイ)

マリアガーデンの蠟梅がたくさんの蕾をつけています。


蕾の一つが花開きました。


 冬の自然に貴重な彩りを添える蠟梅は多くの人に愛されている木です。文筆家の杉本秀太郎が亡友、大槻鉄男について書いた随筆には次のような一節があります。

 展墓ののち、高野川の堤を少し引き返して亡友の家を訪ねる。生前に愛していた蠟梅が、折しも窓辺に咲いている。七年のうちに、めっきり背が伸びて、かさ高くなり、夏などは見るも暑苦しく枝葉をしげらせているが、いまは寒々とした裸木に咲きだした胡蝶のような黄花だけが目にいちじるしい。
 大槻は不慮の死によってわれわれを狼狽させた。この日を蠟梅忌と呼びならわしている仲間たちが、一月十四日の日暮れとともに、蠟梅の見える亡友の居間に寄りつどうのである。


 
 今日のことば

 古い家のない町は、思い出のない人間と同じである。    ドイツのことわざ