校長室から

2014.07.01

中高別朝礼の話(2014年6月30日、7月1日)

 今、ロンドンの聖心で、聖心会第6代総長マザー ジャネット・スチュアートの没後100年祭としてアカデミック・コンファレンスが開催されており、理事長様も出席されています。1857年に英国で生まれ、1911年に総長に選ばれたこの方は、創立者マグダレナ・ソフィア・バラ(1865年帰天)を直接にはご存知なかった最初の総長様でした。

 20世紀初頭、聖心女子学院は世界5大陸に広がり続けていました。そんな時代にあって、スチュアート総長は、マグダレナ・ソフィアから受け継がれた聖心の教育というミッションに忠実であるためには、フランスを中心としたヨーロッパの伝統に固執せず、各々の地域社会や文化、そして時代の変化に適応していかねばならないとして教育の刷新を説かれました。彼女自身、ヨーロッパから始め、船で世界一周の旅をして各地の聖心を視察され、1914年には日本にもいらしています。

 彼女は、生徒一人ひとりがもっている固有の使命について次のように語りました。

 “We must remember that each one of our children is destined for a mission in life. Neither we nor they can know what it is, but we must know and make them believe that each one has a mission in life and that she is bound to find out what it is, that there is some special work for God which will remain undone unless she does it, some place in life which no one else can fill....We must bring home to our children and to ourselves also, the responsibilities of our gifts. We must put our talents at interest not bury them in the earth and the reason is sufficient, that they are God's.” (Janet E. Stuart)

 人には、他の人がその人に代わって果たすことはできないような使命(mission)がある――、これは、よく聞く「人材」とは全く異なる発想です。人材は「有用な人」のことで、「この人がだめなら、あの人」というように入れ替え可能なものともいえるからです。Mission(使命)は、mittere(遣わす)から来た言葉です。私たちは、生まれながらにして取り換え不可能なものとして、一人ひとり神様から遣わされてここにいるということです。このことが本当にわかったら幸いだと思います。

 今日も、私たちは神様から派遣されてここにいます。なんとなく居るわけではありません。まずは今日一日、一人ひとりに対する神様からの呼びかけに心を開いて過ごしてみましょう。

2014.06.03

中高別朝礼の話(2014年6月2日、3日)

 5月21日、裾野市立西小学校3年生の児童100名余りがお茶摘みに来てくださいました。初めての試みとして、例年は中学生が行っているお茶摘みを児童の皆さんとペアになって行いました。中学生のお姉さんぶりはとても微笑ましく、異年齢教育が社会性を育てることや不二聖心にかつて小学校があった時代等に思いを馳せました。

 帰り際に、一人の女の子の児童が走り寄ってきて、「あのね、最後に一つきいてもいい?これ、な~に?」と言って、手のひらに「十字架」の印をしました。「ああ、あの塔の上にあるものね。これはね、十字架っていうの。キリスト教で大事にしているもので、“お互いを大切にしましょう”っていう意味なのよ。」「ふ~ん・・・。私ね、中学校は絶対ここに入るの!」「そうなの。じゃあ、待ってるわね!」真剣な眼差しと率直さに圧倒されました。ふと、日本人は自分をはっきり表現しないと言われることがあるけれども本来はそうではない、文化や教育の中にそうさせるものがあるのかもしれないと思いました。それにしてもお茶摘みに来てくれた児童に、キリスト教の本質である十字架について質問されるとは思いませんでした。

 数日後、地区別の保護者会で、ある中1の保護者の方が涙を溜めながら次のような分かち合いをしてくださいました。「エンジェルさんとの対面式の日、中1の生徒は高3の方々と一緒に昼食を頂きました。その時、うちの娘がお弁当をひっくり返してしまったそうです。すると、そこにいらした一人の高3の方が、さっとおにぎりを分けてくださったと娘から聞きました。初対面の娘にこのようにしてくださったというのが本当に有難く、こんな方々のいる学校だから安心して預けられると改めて思いました。」

 この高3がどなたかはわかりませんが、この方に限らず、このようなことが自然に行える皆さんであることはよくわかっています。「愛」のシンボルである十字架は、塔の上の飾りではなく、不二聖心の生徒の中に生きていることを本当にうれしく思います。

2014.05.18

中高別朝礼の話(2014年5月18日、19日)

 3月末に、スコットランドのキルグラストンの聖心とマルタ島の聖心へ、5月初旬にカナダのハリファクッスの聖心へ行き、一年間留学中の生徒たちや、短期研修中の生徒たちに会ってきました。それぞれに得難い体験をしているのに感心し、はっとさせられることが多々ありました。

 たとえば、留学中の生徒達は、放課後のお掃除がないのに驚いたそうです。初めは楽で良いと思ったようですが、次第に、自分達の使う場所を自分たちできれいにすることは大切だと感じるようになったそうです。どの文化も完全なものはなく、それぞれから学ぶべきものがあるのは当然ながら、異文化に敬意を表し順応しつつも、良い意味での批判眼をもち、自分なりの見方を構築して生活しているのを頼もしく思いました。

授業については、生徒の主体性が授業を作っていくようなあり方、プレゼンテーションやインタラクションの多さ、特に「間違いを恐れない態度」については習うことも多いようでした。私自身、教える側としてとても参考になると共に、かつて不二聖心に講演にいらした広中平佑先生がおっしゃっていた「非線形」ということばをふと思い出しました。広中先生は、数学の世界のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞された方です。以下のようなお話であったと記憶しています。

「非線形」とは、直線的なものを意味する「線形」とは逆の意味であり、直線的でないことを意味する言葉です。たとえば、水。まっすぐ「線形」で流れた方がよさそうなのに、勢いのある流れになればなるほど、必ず渦を巻く、つまり「非線形」だというのです。人間も同じで、失敗しないことがいいことではない、何かをすれば必ず何パーセントかは失敗がある、むしろ将来性のある人ほど「非線形」であり、色々なことに挑戦しては失敗し、そこから学びつつ成長していくというのです。決して失敗しない方法、それは何もしないことだ、ともおっしゃっていました。

 今年、「フロンテイア・スピリット」を学校目標に掲げる私たちは「非線形」であり続けましょう!


http://sacredhearthfx.blogspot.jp/2014/04/international-student-shares-experience.html

       

2014.04.29

中高別朝礼の話(2014年4月28日、29日)

2014年4月27日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で2人の教皇が列聖されました。

ヨハネ23世(1881年11月25日-1963年6月3日)は、1958年10月28日から1963年6月3日まで教皇職を務められました。「第2バチカン公会議」の開催を宣言され、カトリック教会を現代化すべく大きく刷新することに着手されました。他宗教との対話に向けてカトリック教会を開き、カトリック信者以外の方を公会議に招きました。第2次大戦後の東西冷戦時代に「対立」ではなく「対話」で紛争を解決することを説いた回勅「地上の平和」は、20世紀においてもっとも重要なバチカン文書と言われ、政治的にも大きな影響を与えました。教皇に選出された時すでに76歳という年齢であったことから、このような大きな働きをされるとは誰も想像していなかったとも言われます。その飾らず、気さくな人柄から、多くの人に愛された教皇でした。


ヨハネ・パウロ2世(1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、1978年10月16日 から 2005年4月2日まで教皇を務められました。26年間の在位期間に100か国以上を訪問されたため「空飛ぶ教皇」とも言われ、演説の一部は訪問先の言語を使われるのが常でした。1981年の来日時には広島と長崎を訪れ、日本語でも核兵器の廃絶を訴えられました。広島での「平和アピール」の中で、全ての人々に向けてメッセージを発せられ、全世界の若者たち向けては次のように語りかけられました。「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。あなたがたの若い精神は、善と愛を行なう大きな力を持っています。人類同胞のために、その精神をつかいなさい。」(カトリック中央協議会 訳)

お二人の教皇様に共通するのは、それまでの人々が当然のことと考えていた境界線を越えて、世界の平和のための新しい扉を開いていかれたことです。お二人が発せられたメッセージは、今の時代の私たちにも訴えかける力をもっています。本年度学校目標である「フロンテイア・スピリット」から、皆さんは様々な人を思い起こすことでしょう。そして自分の中にも、フロンテイア・スピリットが息づいているのを感じ始めていることでしょう。総長様がおっしゃっていたように、フロンテイア・スピリットというのは、「愛」に方向づけられていくものであることをこのお二人もまた教えてくれるように思います。

2014.04.15

中高別朝礼の話(2014年4月14日、15日)

 4月16日に、聖心会の総長Sister Kathleen Conanと総長顧問のSister Kim Sook Heeが、聖心会日本管区長のシスター新庄美重子とご一緒に学院を訪問されます。
現在の総長様は、聖マグダレナ・ソフィア・バラから数えて16代目にあたります。本学院の保護の聖人聖ローズ・フィリピン・ドゥシェーンゆかりの北アメリカのご出身で、かつてグリニッジの聖心の校長を務められていたこともあります。良い機会ですので、聖堂で全校朝礼を行い、本年度の学校目標である「フロンティア・スピリット」についてお話頂くことにしました。英語でのスピーチとなります。上級生は理解できると思いますが、中1の方等のために先生が通訳してくださいます。その場では要約となりますので、後で担任の先生等から再度詳しく伺ってください。総長様は、昨年、コンゴの聖心の寄宿舎で起きた火災のことを寄宿舎主任のシスター足立から伺うやいなや、まだ学校でアナウンスされる前に自主的にベイクト・セールを行って募金を集めたこと、また温情の会としても寄付を送ったことに感銘を受けておられました。
総長顧問というのは、総長を補佐する役割をもつ方で、Sister Kim Sook Heeはアジア地域のご担当です。シスターは一昨年度まで韓国の聖心の校長をされていましたので、本学院と共催して行われている姉妹校交流プログラム「韓国体験学習」等でお会いした方もあるかもしれません。皆さんの中には韓国語を勉強していらっしゃる方もありますから、お会いすることがあったら韓国語でご挨拶してみてください。
管区長様は、日本の聖心会全体の責任者です。現管区長は、1908年の聖心会来日から数えて12代目となります。シスター新庄は東京聖心の校長をされていましたが、不二聖心でも教えていらしたことがあり、寄宿舎の担当もされていました。
国際修道会である聖心会は40か国にネットワークをもっています。不二聖心は、世界30か国の姉妹校のネットワークだけではなく、聖心会の国際ネットワークとつながっているのです。たとえば、皆さんがおかずを我慢する節約弁当によって得られる寄付の一部は、インドネシアでストリートチルドレンのために働くシスター井上にお送りしていますが、インドネシアには聖心の学校はありません。Informal educationといって、国の状況等を考え、あえて学校を作らずに別の形で教育に奉仕することを選択することもあるのです。フィリピン・ドゥシェーンの時代から今日に至るまで、フロンティア・スピリットをもって、まだ聖心会が創立されていない国に向かうシスター方が今もたくさんいます。
高校の入学式の中で、皆さんには国際性を生きる責任があるとお話しました。総長様のご訪問が、皆さんの中にフロンティア・スピリットを燃え立たせ、スキルに留まらない真の国際人としての自覚を促すものとなるよう願っています。

2014.04.05

前期始業式・校長講話

カトリックの価値観に根ざした全人教育

 不二聖心女子学院では、カトリックの精神に基づき、皆さんが「魂」「知性」「実行力」という領域においてバランスよく成長し、「社会に貢献する賢明な女性」として成長していくよう準備します。これら3つの領域が統合されていくためには、皆さん自身が各領域を自分自身と関連づけて意識していることが必要です。そこで、不二聖心では、毎年、一つ一つの領域に焦点をあて、学校の年度目標に取り入れています。先生方とご相談し、今年は「実行力を養う」を取り上げ、より具体的な目標としては「フロンティア・スピリット」(開拓者精神)を掲げることにしました。今日は、不二聖心女子学院創立に至る二つの流れから、二人の方の生き方をもとに、今年の目標について考えてみましょう。

1)  聖フィリピン・ドゥシェーン 「いかに幸いなことか、良き訪れを伝える者の足は」(イザヤ書52:7)

 カトリックの学校は、それぞれにゆかりのある保護の聖人を戴いていますが、フロンテイア・スピリットは、本学院の保護の聖人である聖ローズ・フィリピン・ドゥシェーンの代名詞でもあります。フィリピンは、創立者マグダレナ・ソフィア・バラに願い出て、アメリカ大陸へ派遣され、聖心女子学院を開校しました。これは、ヨーロッパ以外の地への初めての設立であり、学院が世界5大陸へと広がりゆくきっかけとなりました。不二聖心女子学院もこの大きな流れの中で誕生したのです。
1818年3月21日、フィリピンは4人の同志と共にレベッカ号に乗ってフランスのボルドー港を出航、5月29日にニューオーリンズに錨をおろしました。19世紀初頭、異なる言語・文化の中でのミッションは現在とは比べものにならない程の困難を伴いましたが、フィリピンは、「大きな目的のためには惜しみなく自分を捧げる」という“ドゥシェーン気質”をもって幾多の苦難を乗り越え、9月にはセントルイスに初めての学院を建てました。これが、現在不二聖心がアメリカ体験学習で訪れているAcademy of the Sacred Heartです。以後、1852年11月18日に帰天するまで、34年の長きにわたりアメリカ大陸でのミッションに献身しました。
1988年にバチカンの聖ペトロ大聖堂で行われたフィリピンの列聖式の中で、教皇ヨハネ・パウロ2世は、「果敢な宣教魂をもったこの偉大な開拓者は、神の愛に燃えた心の目で未来を見たのです。革命後のフランスのニーズを超えて、新しい世界、北米のニーズを見たのです。『全世界に行って、すべての人に福音を宣べ伝えよ』とのイエスのみことばを実践したフィリピンは、神の招きは全ての人に向けられたものであり、国家、政治、文化、民族を超えたものであることを思いおこさせてくれます」と讃えました。
2) 岩下壮一「闇をてらす足おと」 ― 不二農園100周年を迎えてー

 大正初期、関西の実業家であった岩下清周氏がこの地に移り住み、それまでの農園を「不二農園」と改名してから今年で100年目にあたります。近代農業に取り組んだ不二農園の先駆性、私財を投じて地域の子供たちのために農園内に創立した私立温情舎小学校(不二聖心の前身)のヒューマニズムに富んだ進取の気風の中にも、フロンティア・スピリットが満ちていました。
清周氏の志は、長男でカトリックの司祭でもあった岩下壮一神父様に受け継がれていきました。神父様は、6年間に及ぶヨーロッパ留学から帰国後、哲学の研究者としての道を敢えて辞し、温情舎小学校初代校長として教育に献身すると共に、日本人として初めて神山復生病院第6代院長となり、当時日本で猛威を奮ったハンセン病の患者の方々のために生涯を捧げました。
復生病院は、フランス人のミッショナリーが開いたハンセン病療養施設が始まりで、5代までの院長は全て外国人の神父様方でした。壮一神父様は、同じ日本人として、心身の苦しみに喘ぐ同胞に寄り添い、尽力することに強い責任感と使命を感じていらしたといいます。父清周氏の遺産を注ぎ込み、寄付を募り、患者たちの立場に立って病院の施設や生活を改善していきました。「天刑病」として差別され、家族から隔離され、本名を捨てて生きねばならなかった病者の方々は、壮一神父様と出会うことで人間性を回復していきました。まさに「復生」をもたらしたともいえる姿は、作家重兼房子によって『闇をてらす足おと―岩下壮一と復生病院物語』(春秋社1986年)の中で描かれています。
3)  フロンティア・スピリットに満たされて

 中学校の入学式ではオープンハートで「二人といない自分」(不二)に与えられた可能性を開花させましょうと、高校の入学式では”Vocation”をもとに、一人ひとりがその人にしか果たせない使命が名指しで与えられているということをお話しました。人と比べたり、既成の枠組や先入観に捕らわれずに、自分の深みで響く呼びかけに耳を澄まし、周囲のため、また自分自身のために本当に大切だと思う事柄に出会ったら、勇気と創造力、そして忍耐をもって向き合い、取り組んでみましょう。それは、身近なことから始まると思います。
また、今年は特に、学習においても、活動や態度、内面性においても、自分の中の未開拓の領域、これまであまり向き合ってこなかった未知なる分野、または新しいフィールドを意識し、チャレンジしてみましょう。向き合わずにあきらめてしまっていることがあったら、そのままで良いのかどうか確かめてみることも必要です。10代であきらめるには早すぎることもあるのではないでしょうか。
日々の生活の中で意識してできることは、目立たない、ごく小さなことかもしれません。けれど、すべては日常から始まるのです。ローズ・フィリピンや、岩下壮一神父様もそうでした。学生時代の学びや普段の小さな選択、姿勢や態度が、将来の大きな決断を支えたのです。
グローバル化がもたらす光と影が複雑に錯綜する現代にあって、世界をよりよく変容していく新しい生き方を提示し、信念をもってそれを生き抜く人――、世界は、そのような人を必要としています。前人未踏の世界に踏み込む勇気が必要かもしれません。
 皆さんの不二聖心女子学院での現在の学びが、世界の未来を作っていくと私は信じています。先生方も負けてはいません。皆で、不二聖心をフロンティア・スピリットで充満させましょう!

2014.03.17

『卒業研究』巻頭言より

 不二聖心女子学院の「卒業研究」の起源は、1978(昭和53)年に始められた「中3個人研究」にあります。この試みは、学院の目指す「創造性に富む堅実な思考力と正しい判断力を育てることを具体化していこうとするもの」であり、「各教科の枠を越えて一人ひとりが興味のある問題を自主的に、長い月日を費やして深く研究していくという作業を通して『学ぶこととは何であるか』を体得させたい」との願いから始まりました(1985(昭和60)年度『中3個人研究』)。生徒一人ひとりに対するメンター制度、秋のつどいでの研究発表、口頭試問、冊子発行等、今では当然のことのように行われていますが、35年前、最初にこのアイディアを共有し、実現の可能性を模索し、ついには研究体制を立ち上げられたシスター・先生方の教育への情熱と、新たな学習の地平を見つめて真摯に研究に取り組んだ生徒たちの姿勢に深い尊敬の念を覚えます。

 アーカイブ室には、歴代の卒業生全員の研究が掲載された冊子が大切に保存されており、研究方法の変遷や研究環境充実の過程を知ることができます。1986(昭和61)年には中学校の学習の集大成の意味を込めて名称を「卒業研究」と改め、今日に至っています。本年度からは、6カ年の学習デザインの中で、Foundation からOriginalityへの架け橋として卒業研究を位置づけることと致しました。

 2013年度の学校目標「知性を磨く~若さを価値あるものとせよ~」を胸に、知の可能性に挑戦した生徒たちが、今後の学びの中でこの経験を「各々に与えられた使命」とつなげて、深めていってくれるよう心から願っております。

     

2014.03.10

『欅坂』巻頭言より:若き日に、あなたの造り主を心に刻みなさい。(コヘレト書12章1節)

 不二聖心女子学院は、2013年度に創立61年目を迎えました。先立つ長い歴史があるのですが、この地に聖心会の修道院が創立された年をもって学院創立と定めています。初代校長は東京の聖心女子学院校長のマザー吉川茂仁香が兼任していましたが、当時マザーたちが外出される機会は限られており、実際には初代修道院長マザーエリザベス・ダフが校長のような役割もなさっていたようです。

 アイルランドご出身のマザーダフは聖心会入会後1907年にロンドンで初誓願、一九一二年にベルギーのブラッセルで終生誓願を宣立の後アイルランドに戻り、1917年から10年ほどロスクレアの聖心女子学院の校長を務められました。この学校は1842年の創立で、マグダレナ・ソフィアの生前に建った学校の一つです。若い頃から東洋へのミッションを望んでいらしたマザーは、一九三四年から上海聖心へ派遣されました。1937年の日中戦争、1939年に勃発した第二次世界大戦に代表される苦難の時代でした。その間、副院長として、幼稚園から大学までの広がりをみせた上海聖心での教育活動に献身されました。終戦後の1951年には中国政府により上海聖心が接収され閉鎖、他の聖心会会員が離国を余儀なくされる中、院長や大学学長らと共に上海で拘留されました。マザーは生命の保証もない状態にあっても希望を失わず、明るい便りを書き続けていらしたといいます。

 1952年の一月半ばに日本に渡る許可が下りると、同年4月には5か国8名の聖心会員と共に裾野の地を踏みしめていらっしゃいました。70歳近かったはずですが、明るさとユーモア、マザーを知る人が等しく感じた温かさをもって、不二聖心女子学院の礎を着々と築き上げていらしたお姿は、1962年5月から8月までの3か月にも及んだ「院長様金祝」(マザーの終生誓願宣立から50年目の祝いの記録)と書かれたアルバム等にみることができます。お祝いには小林秀也裾野町長もお祝いにかけつけられました。当時の裾野では外国人が珍しかったため、「マザーダフはエリザベス女王のいとこ」という噂もたったといいます。地域の方々にも愛されたマザーのお人柄が偲ばれます。学校で授業を担当されなくなった後も、英語のプライベートレッスン等を続けられたマザーは、一九七二年、聖心の月である6月11日に88歳で天に召されました。

 今年の学校目標「若さを価値あるものとせよ」は、マザーダフが実際に生徒に語られたお言葉です。学院が、人生でいえば還暦ともいうべき年を迎えるにあたり、不二聖心のルーツと、学院に生涯をかけた方々の思いに聴きたいと考えていた時、60年たっても色褪せることのないこのお言葉を、ぜひ生徒たちに伝えたいと思いました。ご生涯に思いを馳せつつ耳を傾ける時、「生涯をかけるに値するものに目を向けましょう」というマザーの祈りにふれる思いがいたします。

2014.02.24

『桃園』巻頭言より

 母の会誌『桃園』が創刊されたのは、翌年に学院創立20周年を控えた1971(昭和46)年のことです。前年には奨学会のご尽力によって地区会が始まっていました。1955(昭和39)年にできた寄宿舎には、現在よりも広い範囲から生徒が集まっており、『桃園』は地区会と共に、多様な地域から集う保護者を有機的につなぐことを目的に創刊されました。

「桃園」とは、裾野市中心部から西の方向に位置する三角形の地域を指します。この地の歴史は古く、1551(天文20)年に今川義元が発給した文書にも登場します。不二聖心女子学院創立当初の学院の住所は「駿東郡富岡村桃園198番地」、1957年に富岡村と須山村が裾野町に合併され、1971(昭和46)年には市制施行して裾野市となりましたが、「桃園」という名前はずっと学院と共にあります。

 この地名の由来は、平安時代にまで遡ると言われます。第56代清和天皇の第六皇子貞純親王は、京都の邸宅があった地名が「桃園」であることから「桃園親王」と呼ばれ、邸宅の菜園では主として桃の木を植えていたといいます。晩年、事情があって東下された親王は、916(延喜16)年に亡くなられるまで千福村の山城に住まわれ、この地に埋葬されました。1904(明治37)年、学院がまだ「鈴木農場」であった時代に敷地内で親王が埋葬され石の祠が立てられた場所が発見されました。その後、石の祠は桃園親王塔発見の経緯を刻んだ石碑と共に、学院近くにある親王を祭神とする桃園神社境内に納められ現在に至っています。(『裾野市史』裾野市史編さん委員会2001年、『われらが学び舎温情舎』温情の灯会2001年 参照)

 創刊号には保護者の「愛とまことと犠牲とよろこびの数々を子供たちの一人一人にそっと感じ取りつつ、その力に支えられながらご一緒によりよい親と教師とになって参りたい」と書かれています。古来、桃は女子の美しさにたとえられ、桃の節句ではその健やかな成長を祈られてきました。かつて不二農園にも様々な果樹が栽培されており、桃の林もありました。『桃園』創刊にかかわった方々が、由緒ある地名とその歴史、そして学院で目にする桃の花や実を子供たちの成長への願いに重ねながら機関誌に『桃園』と名づけたことは想像に難くありません。今年もまた、同じ願いをもって、『桃園』を皆様にお届けしたいと思います。

2014.02.12

不二雪景(2014年2月12日)

 2月8日の大雪で、不二聖心にも10cmほどの雪が積もりました。広大なキャンパスゆえ生徒たちのために道を確保するのが精いっぱいで、雪の下の花々のことが気になりながらも花壇には手がつかない状況でした。「根がしっかりしているから大丈夫ですよ」と言われたものの、屋根から落ちる雪が積もる花壇の上の雪は40cmにもなっていました。

ひと息ついた今日、皆で雪をどけてみると、色とりどりの花がしっかりと顔を出しました。雪国では真っ白な雪の下から緑の草が萌え出てくるのは自然なことですが、ここは気候温暖な不二の裾野の桃園の地――、なんだか感動しました。修道院のあるシスターが、生徒や教職員のためにと心を込めて植えてくださった花々です。少し横になった茎も、土にはりついた花びらも、陽を浴びて再生していくことでしょう、高校3年生が卒業式を迎える日までには。

        花はなぜ美しいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ
(八木重吉「花」)