フィールド日記
2017.03.12
キジムシロ
キジムシロの花が咲き始めました。茶草場農法を実践している不二聖心では、雑木林の林床に早春から色々な花を見ることができますが、キジムシロはその中でも最も早い時期に花を咲かせます。絶滅が危惧されるチャマダラセセリというセセリチョウの幼虫はキジムシロの葉を食べます。
今日のことば
昨日の新聞から396 平成二十九年二月十三日(月)
『キミよ歩いて考えろ』(宇井純・ポプラ社)を読む
――自分の足で歩いてこそ、はじめて社会がみえてくる。――
二月八日(水)の朝日新聞の1面に新泉社の『阿賀の記憶、阿賀からの語り 語り部たちの新潟水俣病』という本の広告が出ていました。この広告を読んで、『キミよ歩いて考えろ』(宇井純)という本のことを思い出しました。著者の宇井純は新潟水俣病に深く関わった方です。早く読みたいと思っていた『キミよ歩いて考えろ』を、これを機に読むことに決めました。今週は、この本を紹介したいと思います。
公害問題研究家として知られる宇井純の大きな功績は、熊本の水俣病と関わるところから生まれました。
一九五九年、宇井純は体調不良からそれまで勤めていた日本ゼオンという会社を退社します。ちょうどそのころ、次のような噂を耳にします。
水俣市のはずれにある漁村で、がんじょうな漁師が、ある日ばったりたおれて口がきけなくなり、手足をばたばたさせて、大さわぎになる。医者がいろいろ手をつくしても、病気はひどくなるばかりで、くるい死にする人が何人もでた。命をとりとめた人もねたきりの廃人になってしまう。
東京大学工学部応用化学科を卒業した宇井純は、この噂の真相をつきとめるために必要な科学的知識を持ち合わせていました。彼が注目したのは「新日本窒素」という会社の水俣工場とこの病気との関わりでした。工場が病気の原因物質を出しているのではないかという疑いを抱いた彼は、水俣工場の附属病院を二度にわたって訪問します。
二度目に訪問した時に思わぬ偶然に恵まれました。
この先生が、ノートをくりながらデータを説明している最中に、看護婦さんが先生をよびにきた。先生はノートを机のうえにおいて、そそくさとでていった。
わたしと桑原さんは、そっと目くばせをしてノートをのぞいてみた。そこに一まいの紙がはさまっていて、酢酸工場の排水のなかに、水銀がどのくらいふくまれていたかのデータがあるではないか。はっとして、つづきを読んでみると、その排水をネコにのませて完全な水俣病の症状がでたこと。排水を濃縮してゆくと、有機水銀の結晶がでたこと。それをネコにたべさせると、やはり水俣病がおこること。つまり工場のなかで、水俣病の原因は工場排水の有機水銀だったことを、うたがう余地なく証明した報告書だった。
桑原さんは得意のカメラでその報告書の写真をとった。わたしはじぶんのノートに、必死になって、その内容をかきうつした。そのあいだ五分とは、かからなかっただろう。
うつしおわって、ノートをもとのまま机のうえにそっとおいて、しばらくすると、わかい先生がもどってきた。おそらく、わたしたちのただならぬようすに、なにか先生は気づいたかもしれないが、しずかにひとこといった。
「もう、わたしたちの申しあげられることは、ぜんぶお話しました」
わたしたちは心からこの先生に感謝のことばをのべて、宿へかえってきた。さあ、これからどうしたものだろう。会社側が、水俣病の真相を知っていて、しかもそれをかくしていた証拠が手にはいったのだ。
宇井純は書名にあるように、とにかく「歩く人」です。驚くべき行動力の持ち主です。証拠をさらに確かなものとするために、工場の附属病院の前医院長で病気の原因物質について研究していた細川先生を四国まで訪ねていきました。
細川先生の引退された故郷というのは、四国の大洲というところだときいた。わたしは、はじめて四国へわたり、のちに「おはなはん」で有名になる、小京都とよばれるこのちいさな町へたどりついた。
引退した老医師夫婦二人きりの、しずかな生活をおくっていた細川博士にとって、たしかに、わたしは不意の客だったろうが、あたたかくむかえてくれた。
その細川先生にむかって、わたしは、じぶんのしらべてきたことを説明してからたのんだ。
「最近、わたしは、こんな報告書を手にいれました。かいてあることがほんとうなら、これはたいへんなことです。先生には、会社に対する先生のお立場もあるでしょう。この報告書がほんとうなら、なにもおっしゃらなくてけっこうです。
もしこの報告書がまちがっていて、その結果、わたしが考えている、会社が水俣病の犯人だという考えがまちがっているなら、それだけをおっしゃってください」
わたしは、附属病院でみかけた報告書をよみあげた。そして、これまでのわたしの調査でも、酢酸工場の排水にふくまれていた水銀化合物が、水俣病の原因だという結果がでていることを話した。
細川博士の声は、おちついて冷静だった。
「キミのもっている報告書は本物だし、キミの結論はただしい。そこまで、つきとめたのならば、わたしもほんとうのこと話そう。じつは、もっとはやくから、水俣病の原因はわかっていたのだ。熊本大学が有機水銀説を発表するすこしまえから、わたしも水俣工場の排水がほんとうに、水俣病と関係がないのかをうたがいはじめた。
そこでたくさんある工場排水を、順ぐりにあたえる動物実験をはじめてみた。すると酢酸工場の排水をのませたネコだけに、水俣病の症状がでた。それだけでは、まだ心配だったので、そのネコを殺して、九州大学で脳の検査をしてもらった。
その結果、まちがいなく、水俣病になっていたことがわかった。わたしはその結果を、工場の幹部に報告した。それは、あの漁民乱入事件がおこる直前だった。おどろいた工場長は、この結果をぜったいに秘密にすること、わたしが相談なしに実験をしないことを命令したのだ」
わたしはびっくりして、声もでなかった。たしかに、漁民乱入事件のすぐあとで、工場側が発表した、水俣病と工場はなんの関係もないという報告書を、わたしは読んだことがある。そのなかに、いろいろな工場排水をネコにのませたが、どのネコも健康で、水俣病の症状はでなかったとかいてあったが、工場側は、じぶんにつごうのわるい結果はかくして発表したのだった。そうすると、工場はウソをついたのだ。
「それから一年ばかり、わたしは、工場長のいうとおりの実験しかゆるされなかった。しかし、どうしても、ほんとうのことをつきとめずにはいられなかった。水俣病のさわぎもおさまり、工場長が交代したのを機会に、わたしは、工場長にたのんで、もう一度工場排水の実験をはじめる許可をもらった。けっして、外部に結果をもらさないようにするというのが、実験を許可する条件だった。キミがみつけたのは、その二度目の実験の報告書だ」
とうとう、わたしは、水俣病の真相にたどりついたのだった。会社と日本政府がグルになって、国民の目からかくそうとしてきたほんとうのことが、いま、わたしの目のまえにある。これまで、ごく少数の会社の幹部と、細川先生しか知らなかったことを、わたしは、ようやくさがしあてたのだ。ことの重大さに、わたしはどうしていいかわからなかった。
「わたしは会社と、秘密をもらさないと約束して実験をはじめた以上、じぶんの口から、このことを人に話すことはできなかった。
しかし、キミがそこまでさがしあてたのだから、ほんとうのことをかくしておくわけにもゆかない。よくここまでやってきた。
だが、いまの日本では、大きな会社の力はつよい。キミがしらべたことを発表して、人の信じてもらえるようになるには、まだまだ慎重な準備がいることだろう。わたしは、もう年老いたが、キミはわかいのだから、あせってはやまってはいけないよ。今夜は、ここへとまってゆっくりしてゆきなさい」
このあと宇井純はすぐに新日本窒素を告発することはしませんでした。結婚をし就職をして、ひとまず生活の安定ややすらぎを手にすることに時間を使っていました。そんなある日のことです。
ところが、このやすらぎは、ほんとうにつかのまのことだったし、また根拠のないものだったことを思い知らされたのは、助手になって直後のことだった。美香がうまれて一月もたたない一九六五年六月十三日のこと、その日の新聞のトップの見出しをみて、わたしは仰天した。
『新潟に水俣病発生。死者一、患者数名を発見。新潟県は原因の調査を開始』
この見出しをみたとたん、わたしはじぶんのみとおしが、どれほどあまかったかを、身にしみて感じた。まさか二つめの水俣病が、こんなにはやくおきるとは思わないから、自分が発見した真相を、ほかの人に知らせることも、それほどいそがなかったし、研究と安定した生活の両方がつづけられると、のんびりかまえていたのだ。もし、じぶんの学者としての地位などを気にせずに、ほんとうのことを、批判をおそれずに発表していたら、この第二水俣病がおこることは、あるいはくいとめられたかもしれない。すくなくとも、死者や患者の数は、へらすことができたかもしれない。正直にいえば、わたしに勇気がなかったために、第二水俣病がおこるのをゆるしてしまった責任は、とてものがれることはできない。
その日からしばらく、夜もねむれずに考えたあげく、わたしは、じぶんの生活がどうなっても、ほんとうのことを話そう、わたしの手にはいった事実はすべて公表しようと、決心した。ことによると、東大や日本の学界を相手にまわして、生きるか死ぬかの大立ちまわりをやることになるかもしれないし、この家庭の平和だってどのようにこわされるかもわからない。だが、自分の勇気がなかったために、第二水俣病をだしてしまったようなことは、もうくりかえすわけにはゆかない。わたしは生まれたばかりの赤ん坊の顔をみながら、じぶんにそういってきかせた。
今度は、躊躇はしませんでした。第二水俣病の調査を即開始し、細川先生にも協力を要請して事の真相を明らかにしていきました。
『キミよ歩いて考えろ』は決して新しい本ではありませんが、今こそ宇井純の本のメッセージに耳を傾ける時ではないかと思います。私たちの生きる時代は、さまざまな解決困難な問題を抱える時代です。今こそ歩いて考え、行動することで社会の真相を見つめなおしていくことが求められていると言えるでしょう。
作品の最後の一節を引用して、「昨日の新聞から396」を終わりたいと思います。
未来をよむのはたしかに困難だが、確実にいえることは、それが現在の延長ではないということである。これが読めなくて困っているのはわたしたちだけではない。おそらく日本中、世界中でだれにも正解がみつからないのではないか。この十年、世界と日本の政治情勢をみていて、つくづく思うことである。そしていささか政治をかえる仕事にもかかわってきた人間として、やりようによっては世界もかえられるということを証言しておこう。いまの学校教育では、社会をかえるなどという大それたことを考えるなどという教育がいきわたりすぎているように思われるので、そうではない、社会はけっこうかわってゆくし、かえられるのだというのが、わたしの生きてきた結論である。