シスター・先生から(宗教朝礼)
2024.10.23
2024年10月23日放送の宗教朝礼から
今年は不二聖心女子学院に関わることで何周年のお祝いがいくつかあります。たとえば不二農園は110周年、蒔苗先生の「昨日の新聞から」は20周年を迎えました。そしてもうひとつ、不二聖心とゆかりのあることとして、神山復生病院が135周年を迎えました。
神山復生病院については、中学生の皆さんは前期のはじめごろに中学校朝礼でシスター大原がお話くださったのを覚えていることでしょう。高校生の皆さんはご存じでしょう、高校の奉仕活動でうかがっている場所です。不二聖心では、長い間奉仕活動をさせていただいており、感謝状をいただいたこともあります。
神山復生病院は、現在は内科や皮膚科をはじめ、ホスピス、訪問看護ステーションなどを併せ持つ病院ですが、初めは、日本で最初のハンセン病療養施設として誕生しました。不二聖心で学ぶ生徒なら、どこかでハンセン病について学んでいることとは思いますが、改めて簡単にお伝えします。ハンセン病は感染症で、感染すると皮膚や手足などの末梢神経が侵される病気です。感染力は非常に弱く、感染しても発病するのはまれであり、よほどの接触がない限り周囲に感染することはありません。日本では1949年あたりから薬も広く使用されるようになり、治る病気であり、早期に発見し適切な治療を行えば後遺症も残りません。
しかし、感染の理由や特効薬、治療方法がわからなかった時代、感染した人たちは家族や社会から隔離され、偏見、差別の目で見られました。ハンセン病と診断されると、本人だけでなく、家族も偏見や差別の対象となってしまうため、患者の方々は療養所に行くしかなくなります。保健所の職員が患者の自宅を徹底的に消毒し、人里離れた療養所につれていくという光景が、人々の心に「ハンセン病は恐ろしい病気だ」という誤ったイメージを植えつけてしまったのです。後に、治療によって病気が治った方々も、多くは差別を恐れて家族の元に帰らず療養所で生涯を終えました。
神山復生病院は、そのような中で誕生し、そこではキリスト教の精神に基づいた治療、生活支援が行われていました。不二聖心女子学院の前身である温情舎小学校の初代校長である岩下壮一神父様も第6代院長として10年間務められました。岩下神父様は、医療面の改革や患者さんたちの娯楽面の充実、病院の改革などを積極的に行い、「おやじ」と呼ばれ慕われていたそうです。
私は神山復生病院がある御殿場の出身ですが、恥ずかしながら、不二聖心に勤めるまで、ハンセン病やその歴史のことも、復生病院のことも知らずに育ちました。大学生の時、遠藤周作の小説『わたしが・棄てた・女』を読んだとき、そこに御殿場のことが書いてあることに気づきました。主人公の吉岡は、大学生のとき、ミツという名の女性と出会います。ミツはずっと吉岡のことを慕い続けますが、吉岡は田舎育ちのミツのことをまるでぼろきれのように棄ててしまいました。あるとき、吉岡は会社の社員旅行で御殿場をバスで通過した際に、林の中に周囲から孤立しているように見える建物を見つけます。その場面を引用します。
「あれはなにかな。学校かな。」ぼくと同じように、この建物に注目した大野という男がバス・ガールにたず
ねた。「どれですか。」「あのカマボコ兵舎みたいなポツンとした建物さ。」「ああ。」バス・ガールはうなずい
た。「あれは、ハンセン病の病院ですわ。」「病院?」大野はびっくりして「伝染病の病院かい。」「そうです。」
「いけねえ、窓をしめろ。窓を。バイキンが流れこんできちゃあ、大変だ。」みなは笑った。しかし中には本
当にバタバタ神経質に窓をしめる連中もいた。病院は林の中に孤絶して建っていた。伝染をおそれてか、そ
の辺には農家も民家もない。暮れなずむ灰色の雲の下、畠も建物も陰鬱に、孤独におしだまり、一種いいようのない悲しみと暗い影をただよわせているように見えた。
後に吉岡は、この病院に、自分が棄てたミツがハンセン病と誤診されて入ったこと、診断が誤りであったことを知っても病院に残って働き、交通事故で亡くなったことを知ります。
たまたま手に取って読んだ本でしたが、大学生の私は大きな衝撃を受けました。これは実話なのか? 帰省した折に、母に聞いてみたところ、「神山のあそこの道ぞいにある病院が、ハンセン病の病院だったところだよ」と言われて驚きました。そして、ときどき通る道筋にある病院に気づいていなかったということ以上に衝撃だったのは、「私も子供の頃は、あっちのほうには絶対に行っちゃいけないと親に言われていたよ。小学校の頃、あっちのほうに遠足があったときも、行くのは大丈夫なのかと親がすごく心配して。」という母の言葉でした。すでにハンセン病は治る病気であると判明した後だったはずです。しかし、偏見や差別は変わらず続いていて、すぐそばにあったのです。
今、私が学校の行き帰りに毎日渡る橋があります。昔は人しか通れない、その存在も気づかないような小さな橋でしたが、数年前に少し場所が変わってクルマも通れる広い橋になりました。その橋には「しんれぜえばし」と刻まれています。「しんれぜえばし」、ひらがなで書いてあるので、最初に見たときは「しんれぜえばし?」と不思議に思いましたが、次の瞬間、あっと気づきました。「新レゼー橋」。「新」は新しいという字です。レゼーはカタカナ。そうか、それは、復生病院の第5代目院長、岩下神父様の前の院長だった、レゼー神父様からとった名前だったのです。昔のあの小さな橋が元々の「レゼー橋」だったのでしょう。復生病院と外界をつなぐ唯一の橋。それは、私が不二聖心女子学院に勤め、奉仕活動で復生病院にうかがったり、高校生のLHRで学んだりしたからわかったのだと思います。この橋を渡るほとんどの人はそれに気がつかず、不思議な名前の橋だなぁと思って通り過ぎるだけなのではないかと思います。
知ることは自分の世界を変えてくれます。不二聖心で、ハンセン病やその病に侵されてつらい思いをした方々のことを知って、私は自分がいかに無知でまだまだ学ばなければならないのだということを思い知りましたし、人の気持ちに寄り添うためにまず何をしなければいけないのかも気づかされたように思います。不二聖心は自分の世界を広げてくれる学びと気づきに満ちています。皆さんも、そのような機会をどうか大切にして過ごしてください。
これで、宗教朝礼を終わります。
参考:厚生労働省リーフレット「ハンセン病問題を正しく伝えるために ハンセン病の向こう側」
神山復生病院HP
神山復生病院「かえでの森」
講談社文庫『新装版 わたしが・棄てた・女』 遠藤周作
M.S.(国語科)