シスター・先生から(宗教朝礼)
2023.09.20
2023年9月20日放送の宗教朝礼から
これから宗教朝礼を始めます。
今年の8月19日、元ハンセン病患者の療養施設である瀬戸内海の長島愛生園に行ってきました。学芸員の話を聞きながらの4時間に及ぶ見学ツアーでした。
ハンセン病は、顔や手足などが崩れていくような症状が出ることが多く、業病とも言われて恐れられた感染症です。多くの患者は、罹患したことで家族との縁を切られるような体験をしました。
学芸員の方のお話の中で特に印象に残ったことが二つありました。
一つは、患者の方が愛生園の海でイイダコ釣りをしていた時の話です。釣りをしていると何やら白い壺のようなものが浮いてきました。何かと思って手にとってみると、そこには、亡くなった患者の名前が書かれていました。その人もよく知る患者の骨壺でした。遺族が逝去の知らせを聞いて骨壺を引き取りに来たのですが、ハンセン病患者との縁を切ることで自分たちを守ろうとしてきた遺族は遺骨をそのまま持ち帰るわけにはいかず、瀬戸内の海に沈めたものが浮いてきたのです。ハンセン病患者の方が作った「もういいかい 骨になってもまあだだよ」という句がありますが、その句をまざまざと思い出させるエピソードでした。
もう一つは、園内にある納骨堂の話です。3億円の費用をかけて立て替えられた立派な納骨堂を見学しました。3億円のうちの7千万円は国などからの補助金が使われたそうです。残りの2億3千万円は長島愛生園で生活する元患者の方の寄付によるものだそうです。それを聞いた時に、現金収入は少ないはずの元患者の方たちから2億3千万円が集まったというのは、どういうことだろうかと思いました。続けて次のような説明が学芸員の方からなされました。元患者の方々は、国の隔離政策が間違っていたという判決が出た時に賠償金を受け取ったが、それを親族に渡すすべもなく、いずれお世話になる納骨堂だからという思いで、多くの人が多額の寄付を申し出たということでした。
このように社会から隔絶された患者たちは、さまざまな文化活動を通して、そこに生きる意味や喜びを見出していきました。その文化活動の一つに短歌があります。沼津に生まれ、後に長島愛生園で人生を終えた明石海人もその代表的な一人です。
長島愛生園に限らず、全国のハンセン病患者の療養施設で短歌の会が生まれ、数多くの優れた歌が発表されていきました。ハンセン病の歌人の何よりの喜びは、自分の歌で歌集を作ることでした。その歌集作りに多大な貢献をしたのが長島愛生園などで医師として働いた内田守人でした。明石海人の偉業も内田守人なしではありえなかったと言えるかもしれません。内田守人自身が歌人でもありましたが、彼の歌で忘れがたいのが島田尺草という歌人のことを詠んだ次の歌です。
尺草の稿料持ちてその遺族を炭鉱の町に尋ねあぐみし
ハンセン病患者である島田尺草の死後、彼の作品から得られた原稿料を渡そうと、わざわざ遺族を訪ね歩く彼の姿を想像するとたいへん心打たれるものがあります。
内田守人は、島田尺草の死の直前に何とか彼の歌集を完成させようと必死に編集作業にあたりました。歌集が完成した時、次のような歌を詠んでいます。
良きことをなせし思出乏しきに今日の歓びは純なるが如し
誰かのために生きることに無上の喜びを感じることができる内田守人の人柄が伝わってくる歌です。
彼の心遣いは患者だけに向けられたものではなく、患者の家族にも及びました。彼が九州の菊池恵楓園(九州療養所)にいた時のことです。患者の子どもで未感染の子供たちが十分な教育も受けられずに生活していることに内田守人は心を痛めていました。この子たちの将来を何とかしたいと考え、彼は信頼できる人に相談をしました。その人物こそが、不二聖心の前身である温情舎の初代校長であり、ハンセン病患者の療養施設、神山復生病院の第6代院長である岩下壮一神父でした。先ず6人の子供たちが九州から静岡県裾野市にやってきました。その子供たちが満面の笑みを浮かべながら温情舎で生活している映像が今も残っています。
内田守人の生き方は、誰かのために自分の命を使う生き方こそが純粋な喜びを私たちに与えてくれることを静かに語りかけてくれているように思います。
これで宗教朝礼を終わります。
国語科・宗教科 H・M