シスター・先生から(宗教朝礼)
2023.05.17
2023年5月17日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
皆さんは、小さいころ読んだ絵本で心に残っている本はありますか?心が温かくなったり、感動したりできた本はありますか?
今日は、先日2歳になった甥に読んであげながら、自分の心が温かくなった絵本を紹介します。
「はるです、はるのおおそうじ」福音館から出ている、3匹のネズミたちを主人公にした物語です。
ぽかぽかとした春の日差しが温かいある日、3匹のネズミたちが家の大掃除を始めます。
家の中の家具を外にだして、掃除を始めると、リスの親子がとおりかかります。「はるですね、ぽかぽかして、とってもいいきもち。おや春の大掃除ですか?」「まあ、きれいなカーテン、わたし、こどもべやにそんなカーテンをかけたいとおもっていましたの」りすのお母さんがいうと、ネズミは「よかったら、どうぞ、うちにはほかにもカーテンがありますから。」カーテンがなくなります。
つぎにウサギがやってきます。「はるですね、ぽかぽかしてとってもいいきもち。うさぎは、はとどけいをじっと見つめて「なんてすてきなハト時計!こんなとけいが、うちにもあったら、あたしたち、おきるのが楽しみです」「よかったら、どうぞ!うちには、おきどけいもありますから」ネズミはハト時計をあげてしまいます。
つぎに通りかかったキツネのおばあさんは、ゆりいすをみて、「なんとまあ、しゃれたゆりいすだこと!こんないすでゆらりゆらり、昼寝ができたら、極楽ですよ」と言います。「よかったら、どうぞ、うちにはあと、ふたつも ありますから、」ゆり椅子も1つなくなりました。こうして、つぎつぎとやってくる動物たちに、ネズミは家の家具をどんどんあげてしまいます。大掃除が終わり、3匹のネズミたちは庭に出したものを家にもどしました。残ったのは、ゆり椅子が2つと小さな丸い小机が1つ、そして小さなクッションが1つだけでした。
最後に、アナグマが通りかかりました。「赤い屋根のすてきな家だ、こんな家で、バラの花に囲まれて暮らせたら、どんなに 幸せだろう。」でもこの家をあげてしまったら、3匹のネズミには住むところがなくなってしまいます。このあと、どうなるのでしょうか?
アナグマは、3匹のネズミたちの家の庭に、自分の家の庭に植えるつもりだったバラの苗木を植えて、いってしまいます。
「花が咲いたら、お茶をご馳走になりにくるよ。」
バラの苗木はぐんぐん伸びていきました。やがて、赤い屋根の、ネズミたちの小さな家は、バラの花に囲まれ、アナグマや近所の動物たちがいつもお茶を飲みに訪ねてきて、ゆったりと寛いでいく、素敵な家に様変わりします。最後のページは、綺麗なバラに囲まれて、ネズミたちと沢山の他の動物たちが楽しそうにお茶を飲みながら憩う、可愛らしいイラストで終わります。ものをどんどんとあげてしまう気のいいネズミたちにとって、最後の持ち物であった「家」。どうなってしまうのかヒヤリとしたところで、心温まるハッピーエンドが待っているお話です。
家の中の物はほとんどなくなってしまいましたが、神様は、最後に、ネズミたちに、バラの花に囲まれた仲間を繋ぐ素敵な空間を残してくださったと感じさせてくれるお話です。
さて、この本を読み終えた時、ふと、児島なおみさんの絵本「聖マグダレナ・ソフィア・バラ」のあるページが思い出されました。
「ほんとうに まい日 いろいろな人が 修道院を たずねてくるのです。おなかを すかした 兵隊や ぼろぼろの ふくをきた おじいさん だれにも あたまをなでてもらえない 番犬。
そうすると マザーバラは じぶんの 戸だなのなかを さがして なんでも あげてしまいます。
たべものも ようふくも お金も 犬のあたまも なでて あげるのです。
えらい お医者さんや 貴婦人 せんたく屋さんや 卒業生 みんな マザーバラに はなしを きてもらいたくて やってくるのです。
そんなとき ひとり ひとりの はなしを ききながら マザーバラの 目は わらい かがやき なみだで ぬれます。そして マザーバラは できるかぎりのことを してあげるのでした。」
(p38~39『聖マグダレナ・ソフィア・バラ』児島なおみ)
聖心女子学院の創立者聖マグダレナ・ソファア・バラは、いつも自分のことはさておき、子どもたち、困っている方、自分を必要としている人のために、ご自分を与えつくす方でした。
「与える」という言葉。ソフィア・バラは何をお与えになったのでしょうか?
物? 時間? こころ? 勇気? やさしさ? 慰め? 希望? いたわり? くつろぎ?
おそらく、こういったことすべてだったのだと思います。「与える」とは、必ずしも物理的な「物」とは限りません。困っている人、悲しんでいる人の話を聞いてあげること、それは相手のために時間と慰めを差し出すことでしょう。例えば、熱い夏の日、喉が渇いている人に水を分けてあげること、それはただの水ではなく優しさや相手を思いやる気持ちがプラスされた水になるでしょう(感染対策の観点から実際に自分が口をつけた水を分けてあげることができないかもしれませんが・・)。ソフィア・バラは、何度も重い病気にかかりましたが、それでも、自分の慰めと励ましを待っている生徒や仲間のシスターのところに足を運び続けたといいます。重い病気にかかって一人孤独な時間を過ごしたからこそ、遠く家から離れて一人で寝ている子どもの気持ちが分かったといいます。ソフィア・バラにとって教育を通じて他者と繋がり他者のために尽くしていくことが真の意味で自分を満たしてくれる喜びでした。
キリスト教で特に大事されている価値観は、他者のために自分から進んで「与える愛」です。それも見返りを求めない「与える愛」です。
新約聖書 使徒言行録20章に次のようにあります。
「受けるよりは、与える方が幸いである」 (新約聖書 使徒言行録20章35節~)
一般社会で、与えたらその分の見返りをもらうのは当然のことという考え方があります。お店でただで物をもらうことは普通ないでしょう。私たちはお金と交換で物を買います。ですが、キリスト教の視点は違います。自分が相手にしてもらうより、自分が相手のためにしたことによって相手が喜び、それを自分の喜びとできる視点=つまり他者中心の視点です。もし、与えるばかりでは、自分は損をしているのでは、と感じる人がいたら、視点を他者の軸に変えて考えてみましょう。相手の喜びはきっと自分にも返ってくると思います。
聖心の学校で学んだ方たちは、学校生活の色々な場や体験の中でソフィア・バラのスピリットである「与える愛」を知っている方たちだと思います。多くの卒業生が、そのスピリットを今生きている場で実践されています。ある方は、医者として、またある方は看護師として。ある方は、家庭で母親として。ある方は国連の機関で紛争地域の人道支援の活動にあたっています。また別の方は、東日本大震災のあと福島の復興支援に全力で取り組まれていました。色々な卒業生の方のお話を伺うたびに私自身、とても勉強になり、自分も聖心の学校に関わる一員として何ができるか日々考えさせられます。
来週は、聖マグダレナ・ソフィア・バラの祝日があります。ソフィア・バラの生き方に触れ、身の回りの小さなことから周囲の方のために行動をおこしていこうと思える日にできたらよいと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
( Y・S 宗教科・英語科)