シスター・先生から(宗教朝礼)
2022.11.09
11月9日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
11月はカトリック教会では「死者の月」となっています。1日は「諸聖人の祝日」、そして翌日の2日は「死者の日」です。キリスト教では、死は神のみもとに帰り、永遠の命にあずかるということを信じているので、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように11月は特別に祈りをささげる月となっています。不二聖心でも今月22日には追悼ミサが行われる予定です。
今日はある神父様のお話をしたいと思います。先日、ネット上でイエズス会のスペイン人司祭であるマヌエル・ディアス神父様の葬儀ミサの録画がアップされていることを知りました。神父様には大学時代からお世話になっており、ここ数年は新型コロナの影響で、ロヨラハウスにお住いの神父様にお会いすることが出来ませんでした。ディアス神父様が亡くなったことは大変ショックでしたが、神父様との思い出を偲びながら葬儀ミサの録画でお祈りを捧げました。
私はディアス神父様に出会わなかったら、神様の愛を知ることはなかったと思います。黙想会に参加すると、「あなたたちは私の大切な娘です。ようこそいらっしゃいました。」と言っていつも笑顔で歓迎してくださり、個人面接でも一人一人丁寧にお話を聞いてくださいました。学院にいらっしゃる神父様やシスター方から、そして宗教の授業で、「皆さんは一人一人が神様に愛された特別な存在です。」と聞く機会があると思います。私はこの言葉の意味を理屈ではなく、体験を通して心で学んでいったと思います。ディアス神父様は、晩年は長崎の黙想の家を担当されており、長崎を案内していただきながら神父様の若い時のお話や日本での体験などを伺う機会が何度かあり、神父様の言動を通じて私は少しずつイエス様に出会っていたと思います。
心に残っている神父様のお話の一つを皆さんにご紹介します。神父様がスペインから日本にいらしたのは第2次世界大戦後の傷跡がまだ残っている時でした。戦争で手足を失っていた人々が住む家もなく駅などにいたそうです。神父様はその中の一人の方とお話しをするようになり、修道会から与えられていた宣教地に向かうための電車代をその方に与え、ご自分は毎日宣教地まで歩いて行かれていたと話してくださいました。神父様は当時の日本の様子を私にお話しされただけだったと思いますが、私はそのお話を伺った時に、ある聖書の個所が心に浮かびました。皆さんもご存じのルカ福音書10章にある「良きサマリア人のたとえ」とマタイによる福音書25章40節です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
キリスト教の教えを簡潔に表した聖書のみことばはマタイによる福音書22章37節~40節であると私自身は思います。それは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」です。人々との交わりや様々な体験を通じて、私達は神様の無償の愛に触れることがあります。そして、私達は少しずつ愛することを学んでいきます。皆さんも、他の人から親切な行いや言葉を受けたとき、たとえその感謝の気持ちをその人本人にお返しすることが出来なくても、別の機会に別の人に同じことを行いたいと感じる時があると思います。同じように、私達も神様からいただいている多くのお恵みや愛に感謝の気持ちを表すために、人々を大切にしてください。隣人を、人々を愛することは、神様を愛することにも通じます。そして、同時に自分自身も大切にしてください。完璧な人間などいません。バラの花にはバラの花の良さが、ユリの花にはユリの花の良さが、桜の花には桜の花の良さが、そして、モミジにはモミジの良さがそれぞれあることを皆さんも良くわかっていると思います。
ディアス神父様は本当に神様を愛していらっしゃいました。ミサを大切にし、聖書のみことばを生きた方でした。ディアス神父様が体の一部を失った方に毎日電車代を与えられたのは、ディアス神父様の神様への愛が根底にあったと思います。一人一人が神様から愛された大切な存在であることを伝える為に、たとえ知らない人であっても、目の前の人に手を差し伸べることは、ディアス神父様の神様への愛の表し方の一つだったと思います。
今日のロングホームルームでは待降節の間行われるプラクティスを話し合うクラスもあると思います。待降節は希望であるイエス様の到来を待つ期間です。静寂の中で自分の心を振り返ったとき、皆さんの心は今どのような状態ですか?そして何が心に浮かびますか?
自分自身で改めたいところ、またはより良い人間になるためには、またはより良いクラス・学校をつくるためには何が必要だと思いますか?そして、そのために出来ることは何であると思いますか?
「プラクティス」とは文字通り「練習すること」です。皆さんが毎日行うプラクティスを通じて神様と人々への愛を表し、神様に喜んでいただくために。そんな「プラクティス」を待降節の間行ってほしいと願っています。
これで宗教朝礼を終わります。
M.M.(英語科・宗教科)