シスター・先生から(宗教朝礼)
2021.07.07
2021年7月7日放送の宗教朝礼から
先日、父の介護のために伊東市の実家まで往復をしました。毎週末には妹と交代で実家を訪ねるのですが、前回来たときにも草取りをしたのに、庭はもう草ボウボウになっています。父は生来(せいらい)めんどくさがりの上に、80歳を過ぎて大分足腰が弱っており、自分ではもう庭の手入れができないのです。「あー今日も草取りかあ」とうんざりします。いっそ、除草剤を使おうかとも思うのですが、猫の額ほどの狭い庭で目と鼻の先に隣家の窓があるので、無断で薬を撒くわけにもいきませんし、除草剤は人体に害はないと言うものの、植物を死に至らしめる力のある薬剤が、動物に対し全くの無害であるとは私には信じられず、思いきれません。たとえ人には害がなかったとしても、庭には雑草だけでなくきれいな花を咲かせる草木も生えているし、虫たちも生活しているわけで、自分が楽をするために花が枯れたり、虫が死ぬのは違うのかなとも思います。とはいえ、蚊はいなくなって欲しいなあ。あと、シロアリとゴキブリも。なんてことを夫に言ったら、「同じ虫なのに、なぜ差別するのか?」と言われました。「いやいや、差別ではなく嫌いなだけなんですけど」と思いましたが、よくよく考えると同じ虫なのに、殺してもいい虫とそうでない虫がいるのは差別なのかもしれません。
でも、「蚊は人の血を吸って伝染病を媒介するし、ゴキブリだって食中毒の原因になる不衛生な害虫だし」と思うのです。でも夫は「そんなの、虫が自分に近づかないようにすればいいだけなんじゃないの?蚊も人の血が吸えなきゃ動物の血を吸うだろうし、ゴキブリは何でも食べられるから、家の中に餌がなければ下水道にでも森にでも住むだろうよ。結局、家の周りを草ボウボウにして蚊を呼び込んで、生ゴミの始末をサボってゴキブリをおびき寄せて、それを殺してるわけだよね。自分に近づいてこない虫を、わざわざ駆除しに出かけて行くなんてことはしないわけでさ、殺さなきゃいけない虫なんていないんじゃないの?」と言うのです。確かにその通りかもしれません。自分に害がなければ殺す必要はありません。虫に刺されないように体を覆い、虫のいるところに私自身が行かなければ、虫と私は共存できるはずです。とは言っても、長袖長ズボンで草取りなんて暑くてかなわないから、やっぱり虫は嫌いです。
結局、蚊取り線香を焚きながら草取りをしました。しゃがみこんで目線が地面に近くなると、立っていたときには気づかなかった景色が見えてきました。草をむしった後には、アリやダンゴムシがいました。毛虫もいたし、やっぱり虫は嫌だなあと思います。前回来たときに刈り切れなかった草むらには、かたつむりがいました。なめくじは嫌いだけど、殻がついてるだけでだいぶイメージが変わります。てんとうむしも見つけました。これはかわいいと思える。触(さわ)れます。小さいバッタのような虫も見つけました。ゴミ袋の中に捕まえて夫に見せると、「キリギリスかな?」と言います。イソップ童話ではバイオリン弾きとして登場するくらいだから、鳴き声を聴いてみたいなと思いました。「まだ幼虫だから鳴かないよ」と夫が言うので、「夏まで飼ってれば鳴くかな?」と聞くと「バッタと同じで肉食だから、飼うには餌が大変だよ」と言われました。嫌な虫を食べてくれるのはありがたいけど、その餌を私が集めるのは御免です。草刈りの終わった庭に帰すことにしました。夫の話ではキリギリスは昔、機織虫とか機織女(め)と呼ばれていたそうです。ギーッチョンという鳴き声が、機織りの音に似ているからなのか、見た目は単なるバッタの割にかわいい名前です。庭にはいっぱい嫌いな虫がいたけれど、何だか好きになれそうな虫もいました。自分の周りにいる虫がどんな虫なのかを知ることができると、虫に対する印象が変わるんだなと思いました。人間と虫が共生することは、それほど難しいことではないのかもしれません。
さて、今日は七夕です。夫に「宗教朝礼で織姫と彦星の話をしようと思うのだけど」と言ったら、「あれはひどい話だよね。夫婦なのに年に1度、1日しか会えないのだから。それも雨天中止でしょ。雇用主がひどいと、機織りも牛飼いもブラックな職業になるんだな」と、ひどく現実的な、ロマンのかけらもないことを言われました。「この前実家で見つけたキリギリスの話なんて、機織りつながりでいいんじゃないかな。どう思う?」と聞くと、「キリギリスはオスしか鳴かないから織姫にはなれない」と言われました。「じゃあ、何で機織女と呼ばれたのよ!おかしくない?」と言うと、「確かに機を織るのは女だっていうのは、古い考え方だな。だから今はキリギリスって呼ばれてるんじゃないの?」と、言われました。ま、確かにそうだけど、うちの夫はどうしてこう私の言うことにイチャモンをつけるのだろう。夫との共生はとても難しそうです。
最後にやなせたかしさんの言葉を紹介して終わります。
バイキンは食品の敵ではあるけれど、アンパンをつくるパンだって菌がないとつくれない。助けられている面もあるのです。つまり、敵だけれど味方、味方だけれど敵。善と悪とはいつだって、戦いながら共生しているということです。
(「やなせたかし 明日をひらく言葉」より)
M.S.(家庭科)