シスター・先生から(宗教朝礼)

2021.05.12

2021年5月12日放送の宗教朝礼から

  「宗教とは神に対する人の道である」―温情舎小学校の初代校長で司祭・哲学者であった岩下壮一は、講義録『カトリックの信仰』のなかで公教要理を引きながら宗教の定義についてこう述べています。キリスト教に基づいた教育を行う不二聖心で、信者でない私がどのように教育活動に貢献できるか。これは、不二聖心にお世話になることが決まったときから私の中にあり、そして今でも考え続けている問いです。宗教とは何か、という問題に対する答えはさまざまで、考える人の数だけ定義もあるものだと思います。ここでは、「神に対する人の道」ということについて少し考えてみましょう。

 「道」という言葉には、私たちが普段歩く道、そこから派生してある目標や結果にたどり着くための「道」つまり方法、そしてさらに事物の理や人としてあるべき姿を示す道徳的な「道」といった意味がありますね。中国思想では「道」はもっとも重要な概念のうちの一つで、例えば道家の『老子』には「道は…淵として万物の宗たるに似たり」とあり、「荘子」には「道通じて一と為す」とあるように、「道」は万物の根源で一種の霊妙なはたらきのようなものとして考えられています。「神に対する人の道」とは、神を前にしたときの人のあるべき姿と普通には解釈されると思いますが、ここではあえて「道」を人がそこを踏みしめるものとしての道と捉えると、宗教とは神に向かって人が歩んでいく道筋、つまり超自然的なものを探し求めそれへと無限に近づいていくその過程自体と考えることができるのではないでしょうか。
 私自身の「神に対する道」を振り返ると、幼い頃母に連れられて週末に教会へ行ったのが、おそらく私の初めてのキリスト教体験でした。私の母は、信者でこそないもののキリスト教に理解のある人で、時々週末に私を連れて教会へ行くことがありました。そこでいろいろなお菓子をもらえるのが楽しみだったことを子ども心に覚えています。それからはしばらくキリスト教との関わりはなかったのですが、高校を卒業しカトリックの大学に入りました。ドイツ語を専攻していたのですが、哲学という学問に関心をもち、いろいろ勉強していくなかで中世は特にキリスト教神学と哲学が不可分だったということもあり、その文脈でキリスト教も学びました。近世以降の西洋の哲学者もほぼ例外なくキリスト教の影響を受けていますので、哲学を学びながらもキリスト教的な思考の素地は感じとっていたのではないかと思います。メインに研究していたマルティン・ハイデガーという哲学者も最初は神学を学んでいます。
 そしてご縁あって不二聖心にお世話になることが決まりました。最初の半年ほどはわからないことばかりでしたが、すぐに手を差しのばしてくださる先生方の姿にキリスト教の精神が行き渡っていると感じたことが印象に残っています。また、どんな立場の先生方もフットワークが軽く、皆さん一人ひとりとよく関わり、真摯に向き合っていらっしゃるところも不二聖心の良さだと感じています。私も、同じ聖心で結ばれた「家庭」の末席にいる者として、日々学ばせていただく毎日です。人間はともすると自分のことだけで精一杯になってしまうこともありますが、それでもゆとりを持ち、周囲に心を配り、ほんの小さなことでもそれがたとえ誰からも気づかれなくても「他者のために」何かをできる人間でありたいものです。まだまだキリスト教に関して浅学の身ではありますが、皆さんとともに不二聖心で学び、「神に対する人の道」を歩んでいければと思います。最後に、歩んでいく「道」のよすがとなるような聖マグダレナ・ソフィア・バラのお言葉をご紹介します。
  
次から次へと日々の仕事を片付けながら帰国を急ぐ旅先の商人のような私たちは、わずか数日数夜をすごす宿舎ににた現世に、どれだけの執着をいだく価値があるでしょうか。しかしまた、地上ですごす一日一日は、永遠につながる日々であることも決して忘れてはならない真実です 
(三好切子著『聖マグダレナ・ソフィアの生涯』150頁)
これで、宗教朝礼を終わります。
K.O.(英語科)