シスター・先生から(宗教朝礼)

2020.11.25

2020年11月25日放送の宗教朝礼から

  おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。今日から、プラクティスが始まります。先日のロングホームルームで、各クラスの幹事委員を中心に、それぞれのクラスの目標や表し方などを決めましたね。その時に、そもそもプラクティスとはなにか、というお話が幹事委員や担任の先生からあったと思いますが、今日は改めて、プラクティスについて見つめ直せたらと思います。

 カトリック教会ではクリスマスに先立つ4週間を待降節とし、静けさを大切にし、心を落ち着かせて、幼子イエス様の御降誕の日をお迎えする期間としています。世界各国の聖心の学校では、心の準備をする手段として、沈黙や周りの人への優しさを心がけた目標を、学校全体の静けさのうちに心を込めて守ります。この精神的な鍛錬をプラクティスと呼び、これは聖心ならではのクリスマスに向けた伝統的な取り組みです。
 小説家でありフランス文学者である辻邦生の著作に『詩への旅 詩からの旅』(筑摩書房、1974年)という1冊の本があります。その本の中に、「基督降誕祭前後」という短いエッセイが収録されています。ここに、フランスの聖心でのプラクティスの取り組みの様子が紹介されているので、その一部を読んでみます。
 1968年のクリスマス、私はパリの下町のレストランでぼんやり雑誌を拾い読みしていた。クリスマス特集号で、いろいろ愉しそうな記事がいっぱいだった。その中の小さな片隅に私は新進女流作家のクリスチーヌ・ド・リヴォワールの次のような文章を見つけた。
(この後、クリスチーヌの文章が続きます。)
 「私には、クリスマスといえば静寂しか思いだせません。私は聖心女子学院の幼い寄宿生でした。聖心女子学院の先生がたは、とても詩的な方ばかりで、毎年、二十五日まで九日間の沈黙とお祈り(Une neuvaine de silence)を私たちに課されるのが習慣なのでした。その後、何年かたちました。けれどもクリスマスの思い出のなかで、もっとも印象に残っているのは、この寄宿学校のなかの静寂なのです。
 九日間というもの、それは死んだような静けさでした。小さな女の子たちの黙りこくった行列が、聖母マリアの像の前を進んでゆきました。聖母の足もとには二つの籠が置いてありました。右の籠はからっぽでした。左の籠はジャガイモでいっぱいでした。小さな女の子たちは一人一人左の籠からジャガイモをとり、右の籠に入れるのです。それは沈黙を守りとおした子だけがやれることなのでした。そして沈黙とお祈りの終る九日目に、このジャガイモは全部貧乏な子供たちに与えられるのでした。
 つまり私たちの九日間の沈黙は、こうしてこの貧乏な子供たちに与えるジャガイモに変形していったわけですが、この沈黙が、幼い私の心を深く動かしたのです。そのとき私は自分に向かってこう言ったものでした。<もしクリスチーヌ、あんたが一言でも喋ったらどこかの子が、あんたの不謹慎な行いのために、ジャガイモをもらえないで飢えに苦しむのよ>私はその当時八歳でした。そして私は責任感というものを、そのとき、発見したのです。
 私は賑やかな歌にみちた多くのクリスマスを忘れました。でも、この沈黙のクリスマスだけは決して忘れることはありますまい」
 
(このクリスチーヌの文章を読んだ辻邦生は、その思いを続けて次のように語っています。)
 私はこれを読みおえたとき、眼が熱くなるのを感じた。レストランの外を賑かに大勢の人人が行き交っていた。しかし私は、遠く北フランスの小さな修道院寄宿学校にいる小さなクリスチーヌの姿しか眼に浮かばなかった。私は何か大切なことを今まで忘れていたような気がした。この八歳の女の子が、貧しい子供たちのために感じた「責任」ーその沈黙の、重い重い勤めのなかで、くっきりと彫像のように掘り抜かれた「責任」という意識ー私はそれをながいこと忘れつづけていたような気がした。
 私も日々歌と踊りのなかを浮かれあるく一人の通行人にすぎないではないか。そういう反省が、そのクリスマスの夜ほど私の心に深く突きささったことは、かつてなかった。
 ※「聖心女子学院」は原文では「聖心女学院」、「沈黙とお祈り」は原文では「静修」と表記されています。
 この文章からも、イエス様のご誕生をお祝いするクリスマスを沈黙の中でお迎えすることの大切さが書かれていますね。そして幼いクリスチーヌはプラクティスを通して「責任」を「発見」した、と述べられています。「責任」に関して、18歳のプロファイルの中にも「自分自身の責任を明確に認識し、それを実行できます。」という項目があります。
 皆さんは「責任を負う」ということについて、どのようなイメージを持っていますか。リーダーとなった人が取るもの、大人が取るもの、前に立つ人が取るもの、大変そうなもの、厄介なもの、今の自分には関係ない、大人になったり、重要な立場になったときに自然とくっついてくるもの、というイメージがあるでしょうか。
 確かに、何らかの立場や役職についたときに付随してくる形の「責任」もあるでしょう。しかし私は多くの場合、「責任」というものは皆さんの周りに無数に存在しているもので、皆さんの気持ち次第でいくらでもその「責任」は見つけることができるものだと思っています。
 例えば、授業を受けるにあたって、教科書やノートをチャイムが鳴る前に揃え、自分の席で立って先生をお待ちする。これは、授業を受ける人にとっての「責任」ですね。でも、さらに押し広げると、同じクラスのメンバーの一員として、他の人たちも同じ状態でお待ちできるように、声をかけて、クラス全体を整えていく。これも教室のメンバーの一員としての「責任」です。授業中、先生からの問いかけに積極的に答える、発表する。これも先生と一緒に授業を作り上げていく仲間としての「責任」です。
 「責任」はリーダー的な人だけが担う特別なものではありません。皆さんの周りに無数に存在しています。それをこのクリスチーヌのように「発見」できるかどうか。そして「発見」した「責任」を私が背負うべきものだと考えるのか、「いや、私は関係ない、私はできない」と見て見ぬ振りをてしまうのか。その決断はあなた自身にしかできません。学年が上がってくると、見えてくる範囲が広がります。視野がグッと広がります。見えてくるものが広がれば、広がった先にある「責任」を「発見」することもできるでしょう。
 慌ただしい毎日の中では、こうした無数の「責任」から目を背けがちです。「今は忙しいから」、「それに手を出している余裕はないから」。理由はいくらでも作ることができます。もしかしたら、その忙しさゆえに、目を背けていることにすら気がついていないかもしれません。
 だからこそ、このプラクティスの機会を大切にしていただきたいのです。学校全体で、落ち着きを持って、静寂の中でイエス様のご誕生をお祝いするクリスマスをお迎えする。クリスマス・キャロルの準備や各科目のテストなどもあって、もしかしたら日々のバタバタした生活は続いてしまうかもしれません。ですが、どこかいつもとは違う穏やかな過ごし方を意識して、いつもなら目を向けそびれてしまうようなところに、目を向けてみましょう。そこにある「責任」を、幼いクリスチーヌのように、「発見」してください。そして、それを「自分ごと」として、一人一人が受け止めて欲しいと思います。
 今年のクリスマス・キャロルのテーマは、「環 ~つなぐ〜」です。皆さんの周りにある「責任」に気がつき、それを背負うということは、それに関係する人たちとのつながりを築いていくということでもあります。人と人との接触が制限される現在の状況の中だからこそ、精神的なつながりを大切にしていきましょう。今日からの一ヶ月間のプラクティスという鍛錬を、実りのある時間としていきましょう。
 これで、宗教朝礼を終わります。
S.N.(社会科・地歴公民科)