シスター・先生から(宗教朝礼)

2020.11.11

11月11日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。これから宗教朝礼をはじめます。

「女のくせに生意気な」
これは、私が小学生のときに、同級生の男子に言われた言葉です。そう言われるからには、確かに生意気だったんだろうな、と反省しなければなりませんが、ただ、「女のくせに」という言葉がひっかります。私が小学生のときは、女子が学級会や行事をしきったり、授業で積極的に意見を述べたりすると男子からそういう声が飛んできました。特に、5・6年生のときに激しかったように思います。当時の私は、そう言われるたびに、「そっちこそ、男のくせに生意気だね」と返していました。
私は、女性社会学やジェンダー論について詳しくはないので、ここではあくまでも私の考えを述べさせていただきます。今、私が小学生の頃の話をしましたが、その頃は、例えばランドセルの色も、男子は黒で女子は赤と決まっていました。学校でそう決められていたわけではありません。でもそれ以外の色を背負っている人はいませんでした。まれに女子で茶色や濃い緑のランドセルの人がいましたが、「男子の色のランドセルを使っている」とからかわれていました。私も、手提げバッグが紺のデニム地でしたが、登下校の道々、何回「女のくせに男のバッグを持っている」とはやしたてられたかしれません。
このように、今までは男性と女性で、社会の中で役割や「らしさ」と言われるものが固定していました。それは私よりも母の時代、祖母の時代、その前の時代…と、時代を遡るにつれて厳しいものだったと思います。私の母は専業主婦でしたが、結婚する際に、仕事は持たず、しっかり家庭を守ってほしいと言われたそうです。父は、自分は外で仕事をしてくるから、家の仕事と子育てと親戚・地域のつきあいはすべておまえに任せた、というスタンスだったそうで、父の退職後、母はちょっとしたプチ反乱を起こしました。
私は、子供の頃は父と母のそんな関係は特に気にもせず過ごしましたが、大学生になり、就職を考える頃になって、驚かされたことがありました。同じ部活の男子と話していたときのこと、ある1人の男子が、「将来結婚するとき、自分の奥さんになる人には、結婚後は仕事をやめて家庭に入ってもらう」と言い出したのです。私は「えっ?」と思いました。大学生になって、男女の差別や役割の固定についてそこまで感じることはなかったのに、卒業も間近になって、こんな閉鎖的な考えに遭遇するとは。しかも、1人だったら、「そういう考えの人もいるよね」と思えたのですが、なんと、そこにいた6人の男子中、4人が「奥さんには仕事をやめて家庭に入ってほしい」と発言したのです。「結婚後も奥さんが仕事を続ける」と言った男子は1人だけ。それも、奥さんの仕事の価値を認めるというよりは、共働きでないと経済的に大変そうだから、という理由で、あとの1人は「奥さんがどうしてもと言うのなら働いてもいいけど」と言いました。「働いてもいいけど、?」私は怒るというより本当に驚きました。当時、私をはじめ、大学で一緒に学んでいる女子のほとんどが職を得て働くことを考えて就職活動に励んでいました。経済的にどうの、というよりは、自分の学んだことを生かしたい、生きがいややりがいを持ちたい、と思ってです。就職氷河期と呼ばれた時代のはじめごろでした。男子も女子もなんとか就職できるようにと努力しているそのときに、同じ空間にいる人からそんなことを言われるとは思ってもみませんでした。「せっかく就職したのに?奥さんになる人だって仕事をやめたくないでしょ」と私がその男子たちに言うと、「そうだけどさ、じゃあ、家のことは誰がやるの、ってことだよ。」「男が仕事をやめるわけにはいかない。どっちかがやめるなら女の方がやめるべき」「専業主婦でいいって言ってるんだよ。女の人も、男性に食べさせてもらう方が楽でしょ」などなど口々に言われました。同じ部活で4年間一緒だった仲間なので、絶交ということにはなりませんでしたが、私は心の中で「世の中の、生きがいを持って働く女性が、この人たちに当たりませんように」と思わず願ってしまいました。私は教師という仕事に今ついていますが、自分ができることで、男女差別なく歳をとっても働けるということは、選択の上で大きかったと思います。
そういうわけで、我が家では男だから、女だからという考えをなるべくしないように心がけています。今は男女の差別、男性・女性という区別をしない世の中になりつつあります。生徒の皆さんはこのようなことをあまり気にしてきていないかもしれません。しかし、やはり固定概念というのはなかなか崩せないものなのだなと実感することもあります。たとえば、息子に、「お母さんはお母さんなのにお母さんらしくないね」と言われ、「お母さんらしいってなんなのよ」と反論しつつ、ちょっと傷つくということもありました。「お母さんらしい」という固定のイメージにはまる必要はないと思いつつ、私は子供に、母親として手を抜いていると思われているのね、と不安になる、ここで「母親として」という言葉が出てしまったり不安になったりするのがおかしいのですが、なかなかそうはいかない、やはり自分も「母親らしさ」「母親の役割」に固定的な考えを持っているのだと思います。先日テレビで、家族全員が一台の車に乗っているというコマーシャルを見ました。ドライバーが女性で、助手席に乗っているのが男性というシーンを見て、子供たちが、「男性と女性がいるなら運転するのは男性でしょ」というような発言をしました。「えー?そうとは限らないよ。どっちも免許どっちがしなきゃいけないって決まっているわけじゃないでしょ」と言うと、子供たちは「そっかー、確かに。決めつけちゃいけないよね」と納得しましたが、日常のちょっとしたことにも男女の差に関する考え方が出てくることがあります。
 ただ、反面、今まで言ってきたことと矛盾するかもしれませんが、私はやはり男性と女性には違いが明らかにあると思っています。身体のつくりは違いがはっきりしていますし、脳のしくみの違いなどは研究でもわかっていることです。ずっと昔の、狩猟と採集をしていた頃から男性・女性の差は生まれていたとも聞きます。私は女の子と男の子の2人の子供を育てていますが、「全然違う…」と思うこともしばしばあります。なので、今私は、これは「差」ではなくて、「傾向」なのだ、と考えるようにしました。上手な言葉が見つからないので、「男性的」「女性的」というふうにここでは表しますが、1人の人間がいて、その中に詰まっているものが、必ずしも「男性的」・「女性的」と呼ばれる傾向ひとつだけではないと思います。その人は別の片方の傾向も持っているし、男性・女性では括れないような傾向も持っているはずです。自分の中のそれらの傾向をそれぞれ大切にしていけばいいのではないかと思っています。
 先日、NHKの朝の番組で、このコロナ禍において、男女の役割を見直す家庭が増えたという特集をしていました。私は、自粛生活によって、男性が、今まで男性が女性に課していた「妻・母親の役割」を実感し、反省したのかな?と思って見ました。内容は、確かに家庭において今まで「これは男性の仕事、女性の仕事」と分けていた役割について見直したという話もありましたが、後半のほとんどは男性も自らの「男性としての役割」に悩んでいるということでした。私は自分の側からしか見ていなかったことに気づき、反省しました。
 人は産まれたとき、便宜上男性、女性と分けられます。でもそこからは、自分の中の傾向を大切にし、性別にとらわれることなく、また、差別だ区別だのと声高に叫んで肩肘をはることもなく生きていけたらいいなと思います。そういう社会になるといいなと思います。これは私が今現在考えていることなので、また変化していくかもしれません。皆さんがこのことについてどのように考えているかも、聞いてみたいです。意見や考えがあったら教えてください。
これで、宗教朝礼を終わります。
M.S.(国語科)