シスター・先生から(宗教朝礼)
2020.09.23
2020年9月23日放送の宗教朝礼から
新型コロナウィルス感染症、COVID-19の世界的流行の始まりから半年以上がたちました。
今年の2月からいままでの私たち自身を振り返ってみましょう。
私は、この変化を、どういう気持ちで過ごしただろうか。
私は、この期間にどのような言葉を多く使っただろう。
今、私はどのような気持ちになることが多いだろう。
なんで、こんな気持ちになっているんだろう。
私たちは、突然やってきたこの感染症と、それによって変化しなければならなくなった環境に驚き、傷つき、不安に振り回されてきて、今現在でもそれは続いています。この感染症は、生き物としての人間の特性ともいえる、お互いに関わりあうことに大きな挑戦を突きつけました。他者と直接顔をあわせ、言葉を交わし、触れ合う。これらを否定するその大きな挑戦に、いま、私たちは明確な答えを見つけられないまま、周囲を警戒し、寛容さをわすれ、必要以上に攻撃的にさえなっているように思います。
世界の指導者、とくに社会や経済に大きな影響を与える指導者たちですら「自分たち」の安心を最優先し、そのために異なる他者に対する敬意や配慮を忘れ、むしろ排除してもいいとまで思っているような言動を続けています。自分の「正しさ」だけを主張し、異なる相手にアラ探しのような攻撃的な言動をする。ニュースやネットでこのような状況に出会うたびに、私はなんともいたたまれない、気持ちの悪さを感じます。そして悲しくなるのです。
このような世界の中で、私たちは何を土台にしていけばいいでしょうか。世界中のどこでも同じように、傷つき、不安に感じている今を、穏やかに、寛容に周りの人々と一緒に生きていくためにはどうしたらいいのでしょう。
何か不安なことがあったとき、わからないことがあったとき、SNSをみてみる、という人も多いでしょう。SNSには多くの人がたくさんの考えや意見をあげています。そしてその投稿には気持ちを前向きにするものも、後ろ向きにするものもあります。どのような考えの投稿をチェックするかで自分の気持ちの持ちようも変わってしまいそうです。先にお話ししたような気持ちになるときに、私がよく見る投稿があります。それは、世界中のカトリック教会のトップである、教皇フランシスコのツイッターです。昨年来日された教皇さまは「すべてのいのちを守る」ということを大切にされ、人々だけでなく、生き物や植物などの環境もすべて大切に、一緒に生きていく世界をみんなで作っていくことを強く願っていらっしゃいます。その教皇さまのツイッターの投稿は、短い文ですがとても大切なことを伝えてくださいます。
例えば、この感染症大流行について9月10日にこのようなことを続けて投稿されています。
「感染症の世界的大流行とその結果引き起こされた社会経済上の危機に、キリスト者は愛に基づいて対応します。何よりもまずわたしたちを愛してくださった(ヨハネ一4・19)神の愛に倣います。この神の愛を喜んで受け入れるとき、わたしたちも神と同じように対応できるのです」。
「ウイルスには分離壁や国境、文化や政治の違いは関係ありません。そのようなウイルスですから、壁や国境、違いにとらわれない愛をもって向き合わなければなりません」。
「感染症の世界的大流行のなか、多くの誤った確信が崩れ去り、たくさんの希望が裏切られるのを目の当たりにして、こころが見捨てられる不安に苦しんでいる今、イエスはわたしたち一人ひとりに、こう語りかけています。『安心して、わたしの愛にこころを開きなさい』」(9月10日)
そしてこのような世の中で、他の人と関わるときにどのようなことに気をつけたらよいか、ということについてはこのように話されています。
「9月13日の福音箇所(マタイ18・21-35)で、イエスは勇気をもってゆるしの力へ自分を開くよう、わたしたちに教えておられます。人生で起こるすべてのことが正義によって解決できるとは限らないからです。だからこそ、いつくしみ深い愛が必要になるのです」。(9月13日)
ここにあげられた福音箇所、マタイ福音書の18章21節から35節はつぎのような内容です。
弟子のペトロがイエスのところに来て、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきか聞いたとき、イエスはこんなたとえ話を言われました。ある王から一万タラントン借金している家来が、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。その家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします。』としきりに願ったので、その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて『借金を返せ』と言い、どうか待ってくれ頼んだ仲間を赦さず牢に入れた。この話を聞いた王はその家来を呼びつけて、わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか、といい、家来を牢役人に引き渡した。このたとえ話のあと、イエスはペトロたちに、あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう、と言っています。
主君に借金を帳消しにしてもらった家来は、自分よりもずっと少ない借金を返済できなかった仲間を赦さなかった。赦してもらった人が、他者に対して赦すとは限らない。それは自覚的に「赦す」ことを選ばないとできなくて、でもいまこそ、その力が必要だ、と教皇さまはおっしゃっています。自分には何が一番大切なのか。自分だけが良ければいいのではなく、周りの人、自分と意見が違ったり、自分が苦手だなと思っている人ともともに生きていくには何を大切にすべきなのか。気持ちに振り回されやすいときに自分の気持ちを整える土台を、今のこのような時だからこそ、いろいろ迷って、さがして、つくっていきましょう。
H.N(社会科)