シスター・先生から(宗教朝礼)
2020.09.16
2020年9月16日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
今まで読んできた本の中で、考えさせられたものの一つに、遠藤周作の『沈黙』があります。舞台は、幕府による激しいキリシタン弾圧が行われた江戸初期の長崎。日本で幕府に捕えられ、信仰を捨てたとされる宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴたちが長崎へと向かうという物語です。
ロドリゴたちは日本にたどりつき、「隠れキリシタン」と呼ばれる日本人の信者と出会うも、幕府に捕えられてしまいます。棄教(信仰を捨てること)を拒むロドリゴたちに、幕府はキリシタンを次々と殺して棄教を迫ります。「自分のせいでキリシタンたちが苦しんでいる」、「なぜ神は沈黙し、私たちに手を差し伸べないのか?」-神の沈黙の問題と闘うロドリゴや、強い信仰心をもって生きる人々の姿を通し、信じることの意味を問う作品です。
「なぜ、神は沈黙しているのか?」-この問いを考えるときに道標になるのが、マーガレット・F・パワーズの「足跡」という詩です。詩の内容を簡単に紹介します。あるとき、砂浜を歩いていると、足跡が二組あることに気づきます。一組は自分の足跡、もう一組は主の足跡でした。「自分は主とともに歩んでいる」-彼はそう思って生きていました。しかし、大きな困難に直面し、苦しみや悲しみに打ちひしがれているとき、ふと足元を見ると、自分の足跡しかありませんでした。彼は主に尋ねます。「主よ、あなたと歩むと決めたとき、あなたはどんなときも私とともに歩んで下さると約束されたではありませんか? 私があなたを最も必要としているときに、どうしてあなたは私を置き去りにするのですか?」-主は答えます。「私は決してあなたを見捨てはしない。一組しか足跡がなかったのは、私があなたのことを背負っていたからだ。」
足跡が一組しかないのは、神が苦しんでいる自分を背負ってくれていたからであった。苦しいときこそ、神は自分を支えてくれていた。沈黙をしていたわけではなかった。このことは遠藤周作だけでなく、キリスト者の内村鑑三も強く感じていたことでした。彼の著書『基督信徒のなぐさめ』には、以下のように書かれています。「かつては神に熱心に祈っていたからこそ、神はそばにいると思っていた。しかし、妻を亡くした悲しみから祈ることもできず、神を否定するような言葉を吐くこともあった。それからしばらくすると、自分が祈ったときに神が自分の近くにいたのではなく、自分が祈れないときにこそそばにいたということに気がついた」と。
足跡が一組しかないのは、神が苦しんでいる自分を背負ってくれていたからであった。苦しいときこそ、神は自分を支えてくれていた。沈黙をしていたわけではなかった。このことは遠藤周作だけでなく、キリスト者の内村鑑三も強く感じていたことでした。彼の著書『基督信徒のなぐさめ』には、以下のように書かれています。「かつては神に熱心に祈っていたからこそ、神はそばにいると思っていた。しかし、妻を亡くした悲しみから祈ることもできず、神を否定するような言葉を吐くこともあった。それからしばらくすると、自分が祈ったときに神が自分の近くにいたのではなく、自分が祈れないときにこそそばにいたということに気がついた」と。
「なぜ、神は苦しいときにこそ寄り添って下さるのか?」-批評家・随想家の若松英輔の詩「受苦」を引用して考えてみたいと思います。
いっしょに喜ぶよりも
悲しめるようになりたい
悲しめるようになりたい
でも本当は悲しむだけでなく
ともに苦しめるようにもなりたい
大事な人と人生の避けがたい試練を分ちあうことが
真の幸せかもしれないのだから
そしてあなたをこの世にひとり残さないように
どうにかして与えられたいのちを生き抜いてみたい
真の幸せかもしれないのだから
そしてあなたをこの世にひとり残さないように
どうにかして与えられたいのちを生き抜いてみたい
これは、愛する人への想いを詠んだ詩ですが、この詩と同じように、神は「私たち一人ひとりに訪れる試練を分かち合いたい」、「ともに喜ぶだけでなくともに悲しみ、苦しみたい」という気持ちで私たちに寄り添おうとして下さるのではないでしょうか。今まで皆さんに伝えてきたことは、一つの考えに過ぎません。しかし、もしそうした考えが、何かを機に自分の中で確信に変わったとき、それは主体的真理(自分だけの真理)としてあなたを支え続けるでしょう。
そして最後に、皆さんがキリスト教を大きな支えとし、困難の中であっても絶えず前進していくことを願い、宗教朝礼を終わります。
K.K.(社会科)