シスター・先生から(宗教朝礼)
2019.04.17
2019年4月17日放送の宗教朝礼から
おはようございます。今年度最初の宗教朝礼です。
新入生の皆さん、不二聖心に入学して2週間たちましたが、学校生活はいかがですか?
また、新しい学年へと進級した、在校生の皆さんは、この4月をどのようにスタートしましたか?
教会では、今度の日曜日、キリスト教の最も大事な祭日であるイースター(復活祭)を迎えます。明日からの3日間は、聖なる3日間:聖木曜日、聖金曜日、復活の主日と呼ばれます。私たちが「ミサ」と呼ぶ儀式のもととなった、イエス様が弟子たち共にされた最後の晩餐や、その後捕らえられ、十字架上で亡くなるまでの受難を思い起こし、復活をお祝いするまでの特に大切な期間です。私たちは今、そのための心の準備期間として「四旬節」の最後にあたる、大事な時期を過ごしています。
カトリック教会では、この四旬節の過ごし方として、節制(必要以上の欲望を我慢すること)と共に、私たちの心の軸を、神様に向け直す(回心)ことを呼びかけています。この四旬節の過ごし方について、東京にある聖イグナチオ教会のある神父様が、教会の会報にとても興味深い記事を書いておられたので、今日はそれを紹介いたします。読んでいて、私自身が心を動かされた記事です。
(以下抜粋です)
(前略)・・・四旬節とはただ節制するというより、自分と神様との関わりをもう一度見つめ直す時だと思います。イエス様が一番願われることは、弱さをもった人間である私たちが神様とはどういう方かを知ること、そしてその心に触れることです。そして私たちもその心に倣い、同じような生き方をするようになることです。
イエス様は、この世に来られ、ご自分の姿と行いで、天の父がどのような心の方であるか明らかにしてくださいました。そしてその一番の特徴は、罪人である人間を裁くのではなく、温かく接し、励まし、道を示すことで人間の立ち上がりを助けるということでした。そういう意味での救い主であることを示そうとされたのです。
ルカ福音書の13章でイエス様が話された「実のならないいちじくの木」のたとえがあります。イエス様はこのたとえを語って、すべての悔い改めを忍耐強く待ち続ける神様の姿を示されます。
園丁(庭園などの手入れや管理をする人のこと)は3年待った主人にもう一年の忍耐を求めます。それほどまでこの実らないいちじくの木を慈しんでいるからです。悔い改めない人間を前にして神様は葛藤を覚えられます。そしてこの葛藤こそが神様の私たちへの愛です。切り倒すことがおできにならず、やはりもう1年待ってみようと思い直し続けておられるということ。そんな神様の心と思いに私たちが気づくことができるかどうか。真の回心(「回す心」と書く)は、まずこの神様の心にしっかり触れることから始まります。自分も実をなせないいちじくの木の一つであること。それでも神様は切り倒さずに待ち続けてくださっていること。そのことを思って自分のあり方を見つめ直すことです。(中略)
私たちがこの1年をどのように使って過ごしていくのか。神様の忍耐をいかせるかどうか、それが今問われています。
何か規則や掟に反したことを反省するのが四旬節の過ごし方ではありません。もっと今まで以上に神様の心に触れていくこと。そのような努力をしていくこと。自分もできることに努めていくこと。そのような態度を取ることこそ、心を神様の方に向ける真の回心になります。
(聖イグナチオ教会報『Magis』2016年3月号 1頁目 田丸敦神父様の文より抜粋)
私たちは、今新学期が始まったところです。希望や期待とともに新しいことに挑戦したり、これまでの自分から一歩成長した自分になりたいと強く願ってこの4月をスタートした人も多くいるでしょう。私たちは、一人ひとり、みな違った存在です。ですから、勉強においても、友達や周りの人との関わりにおいても、成長していくスピードは人それぞれです。すぐできるようになることもあれば、時間をかけてできるようになることもあります。始めは、上手に周りの人と関わりを築いていくことできなくても、様々な経験を通じて、少しずつ他者とよい関わりが生まれてくることもあります。私たちは、一人ひとり、神様が自分に与えてくださった使命は何なのか、問いつづけながら生きていきます。完全ではない私たち人間は、その過程で、時に失敗したり、判断を誤ったり、神様の心から離れた行動をとってしまうこともあります。そのことに気付き、どうしたらいいのだろう?と悩んだら、そのような時こそ、「実のならないいちじくの木」のたとえ話を思い出してください。不完全な存在である「人間」という木を、切り倒さずに実がなるのを、忍耐強く待ち続けてくださる神様の存在を思い出してください。あなたが変わっていくことを、待ち続けてくださる神様がいることを感じてください。神様の愛は、一方的。交換条件は何も必要ない、無償の愛です。神様を信じている人も、いるかどうか正直分からないと感じている人も、たとえあなたが神様を拒んでも、神様はあなたに期待しつづけることをやめません。
ヨハネの手紙Ⅰ、4章に次のように書かれています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(みこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
(『聖書』新共同訳 ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節~ 「神は愛」より)
「神様ってどんな存在なのですか?」宗教の時間によく質問されます。一言ではとても表現しきれず、私自身も問い続けている疑問ですが、その答えのヒントが「実のならないいちじくの木」のたとえ話に示されているのではないでしょうか。
神様は、姿かたちはなく、直接目で見ることはできませんが、私たちの何気ない日々の出来事や人との関わりのなかで、働かれます。
神様からのメッセージを感じ取る努力をしてみてください。
学校目標「Design Your Future!」のもと、私たちは未来を築いていく責任を担う仲間として、共に一歩を踏み出しました。これからの歩みにおいて私たちが、自分たちの現実に謙虚に向き合いつつ、失敗をおそれずに、私たちの変化を忍耐強く待ち続けてくださる神様の愛に信頼しながら、一日一日を大切に過ごしていけるよう祈りたいと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
Y・S(英語科・宗教科)
参考:聖イグナチオ教会報『Magis』2016年3月号 1頁目より抜粋
『聖書』(新共同訳)日本聖書協会
新約聖書 ルカによる福音書 13章6節~「実のならないいちじくの木」のたとえより
新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 4章10節~「神は愛」より