シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.11.28

2018年11月28日放送の宗教朝礼から

 今年の9月、中学3年生と一緒に長崎祈りの会に参加させていただきました。今の高校1年生と2年生が中学3年生の時には、広島を訪れていますが「平和とは何か」を学ぶ大切な行事です。私自身は祖父のルーツが長崎であるにも関わらず20年ぶりの訪問となりましたが、長崎の歴史・文化、キリシタン迫害と信仰の歴史、原爆被災地として平和を発信する地であることを、再認識できた旅でした。

祈りの会から帰ってきて、しばらく私の心にとどまっていた思いは、“原爆のために一瞬で失われた7万人以上の命”、”熱線のために形さえ残らず跡形なく消えてしまった命”から、私達は何を託されているのか、宗教上の理由で、京都から長崎まで歩かされたあげく4000人の群衆の前で絶命した26聖人、その中でもたった12歳や14歳で命を絶たれてしまった少年たちの命から、私達は何を学ばなければならないのか、という思いでした。

一方で、今月のある週末、大阪にある「南蛮文化館」という博物館にふらりと立ち寄る機会がありました。そこに広がっていた光景は、キリスト教伝来後、日本に持ちこまれた、聖櫃、聖杯、聖書、マリア様の御絵の他、横幅10メートルにも及ぶ南蛮屏風でした。南蛮屏風の中では、キリスト教が伝来して間もない時期に、人々が神父様や商人たち一行を興味津々で眺めていたり、お寺の境内で神父様が聖書を使って布教していたり、神父様に近寄る人々の姿が生き生きと描かれていました。屏風に描かれているのは、まさに、キリスト教やその文化を好意的に受容する日本人の姿でした。実際に、当時の人口は現在の4分の1ほどと言われる中、キリスト教徒は数十年で75万人にも増えたという説もあります。

日本人は16世紀後半の短い期間に、キリシタンを好意的に受容し、そして間もなく迫害もしているのです。歴史を振り返ると決して国策の問題だけでなく、人々の意識の中に、「許容」と「拒絶」が背中合わせに存在することが多くあります。

 原爆では罪のない一般市民が多く亡くなりましたが、一方で日本兵士が侵略した土地で、罪のない一般市民を多く殺めてしまったことも、揺るがない事実です。歴史から私たちが何かを学ぼうとするとき、悲しく、やるせない状況を作っているのは、特別な人たちではなく、普通の人たちであったこと、私たちと大きな違いはない人々であることは明確です。言い換えれば、私たちはいとも簡単に人を傷つけてしまったり、人生を奪ってしまう可能性がある、だからこそ、過去の教訓を生かして、「平和とは何なのか」「平和を築くとは具体的にどんなことなのか」を考えなければいけないのです。

さて、みなさんは平和な社会に生きていると感じていますか?平和とは、私たちの身の回りの人との、日々の関わりの延長線にあります。自分の周りの友達、家族は平和ですか?私たちは、自分の身近なところに平和を築くために、不安ではなく安心を与える存在になれているでしょうか?

人が嫌だと思うことを言ったり行動してしまう自分、仲間意識を確認するために他の誰かの陰口をたたいてしまう自分、相手の背景を推し量ることなく人の欠点ばかりに目が向いてしまう自分、自分の感情・イライラをただ爆発させてみる自分はいませんか?いかなる理由があっても、人を傷つけること、不快や不安を与えることは、あってはならないことです。

周囲の様子を見て、気づき、悲しみや痛みの中にいる人に寄り添える自分、不安を感じている人に優しい声掛けができる自分、自分が傷つく体験をしていても負の連鎖を断ち切るために誰かを許す自分、意見が相反したり、相性が悪かったとしても、相手が傷つかない言葉を選べる自分でありたいものです。

学校目標でもあるListen to your inner heart. 自分の心に中に静けさを持ち、心の声に耳を傾けた時、私たちが今、身近な人との関わりの中で、平和をもたらすためにできることは何か、聞こえてくるはずです。今日、あなたが安らぎを与えられるのはどんな場面か考えてみましょう。

クリスマスに向かうこれからの季節、自分の心の中に平和の灯(ひ)を灯し、何かをよいものを与えられる人になれるよう、共に努力していきましょう。                              T.H.(英語科)