シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.10.24

2018年10月24日放送の宗教朝礼から

おはようございます。宗教朝礼を始めます。

 まずはじめに、皆さんに感謝をお伝えしたいと思います。昨年、私は宗教朝礼で家族の話をしました。今はすっかり元気に生活している妹ですが、妹の病気について、本当にたくさんの生徒から、「お祈りしています」「絶対に元気になるから大丈夫だよ」という言葉をもらいました。あるクラスでは、皆でお祈りしましょうと先生が声かけをしてくださったそうですね。一教員の家族について、心に留めてくださる先生や生徒が多くいたこと、そして祈りの支援がここまで広がったこと。これだけでも十分、私の想像を越えた恵みだと思いましたが、なんとこの励ましは、その日だけに終わらず、今日に至るまで続きました。あなたがたがくれたそのたった一言が、どんなに私を救い、妹の支えになったことか。心から感謝しています。
あのとき、私は1つの御言葉を紹介しました。特に、高校3年生は卒業に向けての様々な課題を目の前にしている今。中学3年生は、卒業研究という大きな課題をやり遂げた今。1年前にも聞いたこの御言葉から、新しい学びを得ることでしょう。
(第1コリント10章13節)
「あなた方の会った試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます」
 今流れているこの曲は、先程お話ししたことを受けて作ったもので、この第1コリント10章13節が歌詞になっています。
さて、今日も御言葉を紹介します。私がクラスでの朝礼や宗教朝礼で聖書の御言葉をたくさん紹介するのは、その御言葉が、他のどの言葉よりも確実にあなたを励まし、支え、あなたに気付きを与えてくれるものだということを知っているからです。私が今日の宗教朝礼で伝えたいことの核心を、一人ひとりが捉えてくれると信じてお話しします。今何の不安もない人、自信に満ちている人、ただ何も考えずに今の時間を過ごしている人。そして不安を抱えている人、苦しみの中にいる人。自分の足で「立っていると思うものは、倒れないように気を付けなさい」(12節)と聖書は言っています。
イエス様はあなたの心のうちを見られます。知った上で、どんな人とも、同じように関わろうとしてくださいます。私たちが神様を知らん顔して日々をすごそうと、イエス様はあなたを見離さず、あなたが試練に会ったとき、支え、不安を拭い去る光になりたいと思ってくださっています。
聖書のみことばをひとつ紹介します。
(黙示録3章20節)
「私は戸の外に立って叩く。誰でも私の声を聞いて開けるなら、私は彼のところに入り、彼もわたしと共に食事をする。」ここで言う戸とは、私たちの心の扉のことでしょう。私たちが抱えるたくさんの課題、悩み。私たちが話したくないと思っている間は、イエス様はその心の扉の中に、むりやり入ったりはなさいません。心の扉を「あなたが」開けるなら、とイエス様は仰います。そうしたら、私はあなたのところに入り、あなたと共に食事をして、あなたもわたしと共に食事をする。このみことばを聞いて、おかしいと気付いた方がいらっしゃるでしょうか。
「あなたと食事をし、あなたもわたしと共に食事をする」二重の言い回しです。私はあなたと食事をする、と言うだけで、十分、2人が一緒に食事をしているという情景は思い浮かぶでしょう。でもそれだけでは不十分なのです。授業中に上の空になっている人がいるとしましょう。もしくは、教師が話している内容に全く関係のない言葉が、その場で交わされたとしましょう。同じ空間に存在していても、相手がどんなに大切な言葉を語っていたとしても、あなたの心がどこか別のところにいては、意味がないのです。私はあなたと食事をするが、あなたは心ここにあらずでその場に存在していただけだった、では困るのです。私はあなたと食事をし、「あなたも」わたしと共に食事をする、という、この双方の意思が交わって初めて、そこに本当の関わりが生まれるのです。
 今、あなたの心はどこにありますか?向かうべき方向に向いているでしょうか。
まず、「あの子はできていない」という他人への批判が今のあなたの心にあるとしたら、他人の批判ではなく、自分に目を留めてください。批判をするのは簡単です。でもそれは、自分に欠けがあることに気づいていない人がすることです。
自分自身の行動や心と向き合ってください。さらに問いを深めます。あなたが正しいと思ってしていることは、本当に正しい
ことでしょうか。正しく見えること、ではなく、本当に正しいことを選択していますか?また、周りに流されて、それが正しいかのように行動してはいないでしょうか。
私が辛い中にいたときにあたたかい言葉をくれた生徒のように、自分が心をどこに向けているのか、それは正しいのか、判断して修正できるお互いでありたいですね。生徒もですが、教員である私も、間違えるときはあるのです。お互いに励ましあい、相手に心を留める関係でありたいと思っています。
 最後に、これから正しい道を歩みたいと思った方へ、一編の詩を紹介します。もし正しい道を選択する中で苦しさを覚えたなら、そのとき神様は必ずあなたを助けてくださいます。自信をもって進んでください。 今流れている曲はFootprintsという曲です。
「あしあと」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(マーガレット・F・パワーズ)
これで宗教朝礼を終わります。
M.M.(音楽科)