シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.09.19

2018年9月19日放送の宗教朝礼から

 おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。私はこの夏に,東京聖心主催のカンボジア体験学習に姉妹校からの引率として参加しました。今日は私がカンボジア体験学習を通して感じたことや考えたことを皆さんと分かち合いたいと思います。皆さんはカンボジアと聞いて,どんなことをイメージするでしょうか。国旗にも描かれている世界遺産のアンコールワットが有名ですね。上級生の皆さんはポルポト政権下の大虐殺など悲惨な歴史を知っている方もいるでしょう。

現在のカンボジアは、急速な経済発展を続けているものの、発展途上の国です。これまで日本を初めとする様々な国際的な支援が行われてきました。今回、現地で20年近く支援活動を行う日本人の方のお話を伺って、はっとしたことがあります。それは,海外支援において「相手と同じ目線にたつ」という視点がとても大切だということです。「恵まれた立場の自分たちが恵まれない可哀そうな人々を支援してあげている」といった、カンボジアの人々を下に見ている人が少なくない、そしてそれはカンボジアの人々にも伝わってしまう。相手を尊重した国際協力が必要だというお話でした。そこに暮らす人々が何を必要としていて、何を幸せと感じているのか、それを無視して貧しいからこれを支援しようというのは、相手を下に見ているということにつながるのかもしれません。今回、事前に不二聖心で不要になった文房具を集めて、農村部の子どもたちに届けることができました。しかし、それを受けとった彼らの気持ちは単純に「ありがとう」だけだったのか、物をあげるということが良かったのか、「相手と同じ目線にたつ」という難しさを感じました。旅行のプログラムに農村部の子どもたちとの交流もありました。カンボジアの子どもたちの笑顔からは、決して物質的な豊さだけが幸せなのではないということを感じました。私たちと同じように日々の暮らしの中に幸せを見出しているのだと思いました。経済的に貧しい暮らしをしているから可哀そうだと考えるのは相手と同じ目線にたっていないのだと思います。

とはいえ、いくら彼らが笑顔だったとしても、安全な水や電気を利用できなかったり、十分な医療や教育を受けられていなかったりという現実は変えなければならないとも感じました。旅行中訪れた村では、人々は1日5ドルで生活しており、水は雨水や衛生的でない井戸水を利用、そして昨年やっと村の集会場に電気が通り、家庭では車用のバッテリーを充電して使っているとのことでした。また、経済的な貧しさなどから高校まで卒業できる子どもはわずかしかいないとのことです。旅行中ガイドをしてくださったチアさんは、農村部の子どもたちは夢をもっていない、それは自分が大人になったらどうなるのかを知っているからだと教えてくださいました。目の前にいる大人だけが、自分の将来の姿として考えられるということなのだと思います。もし彼らが中学や高校に行って、いろいろな村から集まった仲間とともに教育を受けることができれば、あるいは、そうした人々が近くにいれば、自分の可能性や、キャリアについて広い視野で考えることができ、それぞれが自分は将来こうなりたいという夢をもてるのではないかと思いました。実際に、その後に訪れたアンコール高校の子どもたちは皆夢をもっていました。しかし、アンコール高校に通うことができるのは非常に限られた、富裕層の子どもたちだけです。日本ではほとんどの子どもが高校まで卒業しています。しかし、これが当たり前のことではないということや、教育を受けるということが、いかに大切なことかを実感しました。こうした現実を目の当たりにして思うことがあります。私は日本に生まれ、教育を受けることができました。しかしカンボジアの子どもたちはそうではありません。私には黙ってそれを受けとる権利があったのでしょうか。そうではないと思います。「多く与えられた者は、多く求められる」という聖書の言葉が思い出されました。目の当たりにした現実に対して、行動する使命が私にはあるのだと思います。今回の旅行中、ガイドをしてくださったチアさんをはじめ、長年現地で支援に携わる日本人の方や訪れた学校で働くカンボジアの方々など、自らに与えられた使命を果たそうとカンボジアのために尽力している方々との出会いも多くあり、とても感銘を受けました。旅行に参加する前に,海外体験学習を通して自らの生き方を変えた卒業生が多くいると聞いていました。私は今回初めて海外体験学習に参加して、本当にその通りだと思いました。この旅行を通して自分に何ができるのか、神様から与えられた使命は何かということを改めて問い直し、自らの生き方を見つめていきたいと強く感じました。これで私の話は終わりますが、今週の土曜日にはカンボジア体験学習や他のプログラムに参加した生徒たちが、貴重な体験を分かち合ってくれます。それを聞いた皆さんが、次は私もそのような体験をしてみたいと思ってくれたらうれしいです。

これで宗教朝礼を終わります。

M.H.(理科)