シスター・先生から(宗教朝礼)
2018.09.05
2018年9月5日放送の宗教朝礼から
「キリストとの出会いと生きる態度」
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
今日は昨年度に経験した不思議な体験をお話しします。私は昨年度、中学3年生の担任をしていました。中学3年生というと、一番最後に卒業式が行われます。卒業式では担任の先生が一人ひとりの名前を呼ぶのですが、卒業式の練習のとき、緊張をしていたせいか、生徒の名前をうまく言えなかったことがありました。
私は生徒の名前をうまく言えなかった自分をひどく恥じました。それ以来毎日、卒業式の本番でミスをしてしまったらどうしようという不安が自分を襲いました。いくら悩んでも、この不安と緊張にどう向き合っていけば良いのかが分かりませんでした。そこで、私はいつもお世話になっている一人のシスターに相談することにしました。そのシスターとのお話を通し、気づいたことがあります。
シスターとお話をしていく中で、次第に、卒業式の本番でミスをしてしまったらどうしようと思いながら、生徒の名前を呼ぶべきではないと思うようになりました。不安に震えながら生徒の名前を呼ぶなんて、なんて虚しい卒業式なんだろう。そうではなく、生徒との日々の関わりを思い返しながら、そして“卒業おめでとう”と心の中で言いながら、一人ひとりの名前を呼ぶべきではないのか。
そう思うようになると、不思議と緊張が薄れてきました。卒業式の本番では、中3の生徒たちと過ごした日々を思い返しながら名前を呼ぶことができました。終礼が終わった後の教室で他愛のない話をしたこと。広島に行って皆で平和について考え、祈ったこと。生徒と衝突したこともあったけれど、それが自分自身を見つめ直すきっかけとなったこと。
卒業式の本番では不安になりそうな瞬間もありましたが、そのたびに、私の横で私の背中を優しくさすって「大丈夫。言い間違えるかどうかで不安になるのではなく、目の前にいる生徒との関わりを思い返そう」と言ってくれた人がいたような気がしました。こんな不思議な経験をしたのは初めてで、あのとき私の背中を優しくさすって下さったのはイエス・キリストだったのではないかと今は考えています。
この経験を通して私が伝えたいことは、ある状況に直面したとき、その状況をどのように判断するかは、その人にゆだねられているということです。卒業式のとき、生徒の名前を間違えることに不安になりながら名前を呼ぶのか。それとも、“卒業おめでとう”と心の中で言いながら一人ひとりの生徒との関わりを思い起こすのか。卒業式で生徒の名前を呼ぶという状況を、どのように判断するのかは私にゆだねられていたのです。そして、私は、一人ひとりの生徒のことを思い起こしながら名前を呼ぶ方が、卒業式の本質に近いのではないかと考えました。
物事の本質を考える際、決して悲観せずに前向きに考えるという姿勢が大切です。それを私は佐々木禎子さんという一人の少女から教わりました。佐々木禎子さんは、原爆症の影響でわずか12歳で亡くなりました。原爆が投下されたあと、禎子さんは自分の体の異変に気づきます。入院をしても病状が重くなっていくなか、両親は医師から、禎子さんは白血病にかかっていて、あと100日しか生きられないことを伝えられます。両親はそのことを禎子さんには言いませんでしたが、禎子さんはふと自分の診断書を見つけてしまいます。白血球の数値が人よりも異常に高い、もしかしたら自分はもうすぐ死んでしまうのではないか。そんな不安に襲われながら毎日を過ごしていたでしょう。
あるとき、禎子さんは千羽鶴を作ったら願いが一つ叶うという話を聞きます。それ以来、禎子さんは毎日鶴を折り続けました。お父さんには「秘密」と言って、鶴を折っている理由を教えませんでしたが、お母さんにだけ秘密を明かします。禎子さんは「お父さんの借金が早くなくなりますように」と願って、鶴を折っていたのです。
なんて優しい少女なんだろう。私はそう思いました。もし、自分が禎子さんのような状況になったら、なぜ自分がこんな残酷な運命を背負わなければならないのかと思い、絶望するでしょう。そして、「自分の病気が早く治りますように」と自分のことだけを考えて鶴を折るでしょう。しかし、佐々木禎子さんは違いました。自分のことだけではなく、借金を背負い、苦しんでいるお父さんやお母さんのことを想いながら鶴を折っていたのです。
「もうすぐ死んでしまうかもしれない」という状況を悲観し、絶望するのか、それとも、そのような状況に陥っても自分に何ができるのかを考え、行動するのか。禎子さんにその判断がゆだねられましたが、禎子さんは後者を選びました。そして、その姿は今も多くの人に勇気を与えています。
今日、禎子さんのお話をしたのは、皆さんも禎子さんのように強く、そして優しく生きてほしいと思ったからです。自分が直面している状況をどう判断するのか。人は毎日この問いに答えなければなりません。宗教朝礼を聞いている今この瞬間も、宗教朝礼から何かを学び、人生を深めていくのか、それとも、そうしないのか。皆さんは一つの判断に迫られているのです。
宗教朝礼はこれで終わります。