シスター・先生から(宗教朝礼)

2018.07.04

2018年7月4日放送の宗教朝礼から

「言葉という刃物」

 家庭科の実習では、生徒が刃物で怪我をしないかいつも心配をします。心配だけしていても仕方がないので、調理実習の前には包丁を研ぐことにしています。「切れない包丁は怪我のもと」とよく言うからです。手入れの悪い包丁が原因で怪我をしたら困ります。シャカシャカと研ぎ機に包丁を通すのですが、ふと「切れ味の悪い包丁だからといって、必ず怪我をするというわけでもないよな」と思うのです。ヨーロッパに行くと「子供のおもちゃか?」と思うぐらいに、切れない包丁に出会ってびっくりすることがあるそうです。でも向こうの国の人たちが、日本人よりも包丁で怪我をしているという話を聞いたことはありません。
 日本の文化である和食は、食材をとても丁寧に扱います。丁寧に扱うために、包丁には繊細な切れ味が求められました。日本の包丁の刃先が薄くなったのはそのためです。刃が薄いので、まな板の上に包丁を振り下ろすような使い方をすることはできませんが、切れ味は良くなります。そのかわり、固いものを切ろうとすると刃がこぼれてしまいます。肉を骨ごと切るような押し切りには向かないのです。西洋の刃物はその逆で、固いものを切っても刃こぼれしない丈夫さを求めて刃先を厚くしています。それで日本の包丁と比べると切れ味が劣るのです。でも、それが理由で怪我をすることはありません。包丁で怪我をするのは切れ味が悪いからではないのです。
 包丁で怪我をするのはなぜか。それは、自分の思い通りに刃先をコントロールできなかったからです。だから怪我をしたくなければ、刃の向かう方向に自分の指や体を置かなければいいのです。食材を手に持ったまま包丁を使ってはいけません。手許が狂えばすぐに指を切っていまいます。食材は持たずにまな板の上に置きましょう。包丁は両手でしっかりと握って、まな板の食材目がけて振り下ろします。これで包丁で怪我をすることはありません。めでたし、めでたし…。ではありあません。そんな切り方では料理なんてできません。授業では、生徒に包丁の使い方をしっかりと覚えてもらわなきゃ、と、またせかせか包丁を研ぐのです。
 和食はユネスコの無形文化遺産に登録されています。食は文化だといいます。でも、もし包丁がなかったら、料理は文化にならなかっただろうなと思います。包丁があったおかげて私たちは豊かな食生活を送ることができています。もし、包丁がなかったら。リンゴもきゅうりも丸かじり、豚も牛も丸焼き、お刺身は丸ごとの大根の上に盛りつけることになるでしょう。いやいや、包丁がなければお刺身もつくれませんね。生魚にそのままかぶりつく勇気が皆さんにありますか?私にはありません。包丁のない生活なんて、とても考えられないなと思います。そんなに便利な道具ですが、使い方を間違えれば指を怪我します。それだけでなく、時として他人を傷つける凶器にもなります。刃物は道具としてモノを切るだけでなく、武器としてヒトを切るという使い方もできてしまうのです。
 考えてみると、道具というものには二面性があるようです。自動車や自転車は便利な乗り物ですが、人にぶつかれば命を奪いかねません。傘が人を殺したという話は聞きませんが、たたんで持った傘の先が人に刺さって怪我をさせることがあります。雨上がりは前を歩く人の傘につい目がいってしまいます。油断できません。油断ならないと言えば、ドラえもんが良かれと思って出したひみつ道具は、ほぼ100%のび太くんに災いをもたらします。油断ついでに、道具ではありませんが「プリントのフチで指を切る」というのは学校の先生にはよくある話です。プリントってたかが紙だと侮ってはいけません。薄っぺらのヘナヘナ紙でも、うっかりしていると指に切り傷をつくることができるのです。さらに加えて言うと、その傷は大して血は出ないけれど、とてもヒリヒリして痛い。「ああ、やってしまった!」と、とても悔しい気持ちになります。
 話がそれました。道具の話にもどります。道具は使う人により、凶器になるという話でした。若かりし頃、免許を取るために自動車学校に通ったとき、教官に「車は人を殺す道具だ」と脅されました。日本で交通事故で死亡する人の数は、殺人事件で殺されてしまった人の数の数十倍にもなるというのです。その言葉に私はかなり驚きました。自動車という道具が発明され、人間はとても便利な生活を手に入れましたが、事故という大きな不幸も呼び寄せてしまったのです。
 私たちが日頃何気なく話す言葉も、道具と同じだと感じます。日本で生活していると、言葉が通じない不自由を感じることはほとんどありませんが、海外旅行をすると同じ言語を使えないことが何と不自由なことであるかを痛感します。自分の意志を人に伝えることがどんなに困難なことなのか、お手洗いの場所を聞くだけでも、身振り手振りを交えて必死の思いです。日本に帰ってきて、言葉が通じることはとても幸せなことだと思い知るのです。
 もしこの世に言葉がなかったら、きっと世の中はとても味気ないものになってしまいそうです。ニュースキャスターはどうやってニュースを伝えるのでしょう。テレビなら映像があるのでまだ何となく伝わりそうですが、ラジオニュースはお手上げです。マンガの吹き出しも真っ白です。未来から来た猫型ロボットがなぜのび太君のもとにやってきたのか、読者はまったくわかりません。そもそも言葉がなければドラえもんというその名前すら存在できないのです。きっと家族同士でも全くコミュニケーションが取れなくなってしまうのでしょう。「おはよう」も「おやすみ」も、「ありがとう」もない世界はどんな世界なのか。何だか絶望してしまいそうです。
 言葉は人の生活を豊かにします。言葉は人を笑顔にしてくれます。言葉は人の心を癒やします。でも、そんな言葉にもやはり二面性があって、時として言葉は人の心を傷つけます。車を運転する人が、車が人を傷つける存在にもなることを忘れてはならないように、人は言葉を口にする時に、その言葉が人を傷つけることがないかをいつも考えていなければならないと思うのです。夫が先日、「この本を読んでみて」と、私に一冊の絵本をくれました。長田弘という詩人の「最初の質問」という本です。その詩は「時代は言葉をないがしろにしているーーあなたは言葉を信じていますか。」という言葉で終わっています。私はその質問に「はい」と答えられずにいます。みなさんはどうですか?
最後に「言葉」について書かれた聖書の言葉を一つ紹介して終わりたいと思います。
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
                             ヨハネ1:1
M.S.(家庭科)