シスター・先生から(宗教朝礼)

2017.11.29

2017年11月29日放送の宗教朝礼から

 皆さんは、ピンホールカメラを知っていますか。

ピンホールカメラを見ると、正面にはレンズはなく、そのかわり、針先で開けたような小さな穴が開いています。
光がその小さな穴を通り、穴の反対側の面に像を結びます。
像を結ぶ面に、フィルムなどの感光材を置くと、写真が撮影されるのです。
0.2ミリから0.5ミリの小さな穴を通った光は、レンズで屈折されることがないので、結ばれる像のどこにも焦点がなく、特有の柔らかなぼけた画像になります。また、小さな針穴を通る光は、通常のカメラのレンズを通る光よりもずっと弱いので、ピンホールカメラで写真を撮るのは、明るい野外で数秒から数分、夜の電灯のともった室内だと数時間かかることがあります。ピンホールカメラで撮った写真では、動く雲が糸のように細長く写り、流れる水は、まるでドライアイスの煙を風で飛ばしたかのような感じで写ります。動くものの軌跡が写真として残るのです。
数年前から私は、趣味でピンホール写真を撮り始めました。長くピンホール写真を撮っていらっしゃる先生のワークショップに参加、月に一度、撮影会に出かけています。撮影場所は、先生が東京のご出身であることから、東京が多いのですが、皆で三島に集まり、三島大社から撮影しながら歩いて、柿田川湧水公園まで行ってきたこともあります。
ピンホール写真は撮影に少なくても1秒かかるので、三脚を使います。レンズがないので、針穴の位置から見当をつけてカメラを被写体に向けます。光の量に応じて、穴をふさぐシャッターを開け、待つこと数秒から数分。時間が来たら手で素早くシャッターを閉じ、フィルムを巻きます。三脚に一風変わったカメラのようだけど何か違う箱状のものを乗せ、その傍らで立って待っている姿は、興味を惹かれるものらしく、撮影会中、受講生の誰かが、日本人であったり外国人であったりするのですが、何をしているのか、よく質問されます。写真を撮っている、と答えるとたいてい驚かれます。レンズがないのはまだ理解できるけれども、ファインダーがなく、何を撮影しているのか、その場で見られないことに驚くことが多いようです。
ピンホール写真をとっている時は、撮影している本人にも、実際どんな写真がとれているのかはわかりません。とりたいものにカメラを向け、撮れるであろう画像を想像しながら、露光時間が過ぎるのを待っています。露光時間が来たらシャッターを閉じ、フィルムを巻き、また次の被写体を探し、カメラを向け、良い写真が撮れることを期待しつつ、シャッターを開けて待つ、シャッターを閉じる、の繰り返しです。
とり終わったフィルムは、現像とプリントをしてもらいます。去年までは、三島に早くて数時間後、通常は翌日までに写真に仕上げてくれるラボがありました。ところが、今年から、現像はよそに発注し、そのあとプリントをその店でする、という方式に変わってしまい、写真に仕上がるまで、1週間ぐらいかかるようになってしまいました。フィルムの現像を頼む人が少なくなりすぎ、現像に使用する液などを維持するには、コストがかかりすぎてしまうからです。そんな訳で、できあがった写真をみるのは、撮影してから大分時間が経ってしまってからです。それだけ待った後だと、出来上がり具合を確かめるのが、逆に楽しみで、上手に撮れた写真があると、喜びもひとしおです。
デジタル優勢の時代、フィルムカメラを取り巻く状況はだんだんに厳しさを増してきています。以前はフィルムの種類も豊富にありましたが、次第しだいに製造中止になり、現存するフィルムの値段も高くなっています。アメリカのフィルム会社、コダックの破産申請もニュースになりました。こんな状況でも、私は、残されたフィルムで針孔写真を撮り続けたいと思います。
私が使っているカメラは、フランス在住のアイルランド人のお手製のもので、Reality So Subtle(現身は斯くもかそけし) と名付けられたカメラです。フィルム現像・プリントも人の手でしていただいています。光と時間、人の手、そして待つことでつくり出された世界を私は大切にしていきたいと思っています。
昼の時間が最も短い今、さまざまなことを待っている人は多いと思います。待たれているものが訪れますように、また訪れるものがよいものでありますように、お祈りしています。
C.K.(社会科・地歴公民科)