シスター・先生から(宗教朝礼)
2017.06.07
2017年6月7日放送の宗教朝礼から
時々払拭に勤める
不二聖心に奉職して2年目の今年も早2ヶ月が過ぎました。昨年度は大きな環境の変化に戸惑いながら、ひたすら勉強の日々を過ごしてきました。その経験があるので、2年目はゆとりをもって過ごしたいと考えていましたが、2年目は2年目で又新たな経験が続き、毎日慌ただしさを感じながら、時間がものすごいスピードで過ぎて行くような気がしています。
そのような忙(せわ)しなさの中、先日、朝の茶事という茶道のお茶席に出席する機会がありました。私はお客として呼んでいただき出席したのですが、朝の茶事の名の通り、お茶席は朝6時から始まります。私は4時に起き、和服を着付け身支度を整え、お茶席の会場に伺いました。夜は既に明けているものの、あたりは静かでひんやりとした空気が漂っています。お客の立場とはいえ、作法通りにできるか不安になり、緊張感が高まってきました。ピンと張り詰めた空気感、場の雰囲気に圧倒されるものを感じます。中に進むと、お庭には打ち水がまかれており、朝日に映えるみずみずしい木の葉の緑が目にまぶしく感じます。すると、不思議なことにお茶室のにじりの前では先ほどの緊張感がおさまっていたのでした。おかげで、落ち着いた気持ちで、清々しい雰囲気を感じながら、亭主のお手前を拝見することができたのでした。
その日の床の間には「時々勤払拭(じじにつとめてふっしきせよ)」という禅語の掛け軸がかかっていました。この言葉の意味をそのまま解釈すれば、「その時その時に、ほこりを払い、拭き上げなさい」となるので、簡単に言えば「いつも掃除をしっかりしなさい」という意味ですが、これは禅語ですからそれ以上の意味を含んでいるのです。「人間は本来心も体も清浄であるが、煩悩の塵にまみれて迷いの世界にいる。だから毎日鏡を磨くように心の曇りを拭き、磨く努力を怠ってはいけない」、そんなふうに解釈するのだと茶道の師匠に聞きました。自分の日常を振り返り、なかなかこの言葉通りの生活はできないなあと感じます。
私たちは日々の生活の中で、やらなければならないことが今目の前にあったとしても、ついつい先伸ばしにしてしまうようなことがあります。殊(こと)に、簡単には済まされないもの、努力を必要とするようなものに関しては、後回しにしてしまうことが多いような気がします。時として、自分がやらなくても誰かがやってくれるだろうと、解決を人任せにしてしまうことすらあります。でも、この言葉に言う「心を磨く」事に関しては、人任せにできるものではありません。自分自身を磨くのは自分自身以外にはないのです。他人の力で自分の人格が磨かれることはありません。
聖書に「杯の内側をきれいにせよ。そうすれば外側もきれいになる。(マタイ23章26節)」とあります。現実には杯の内側をきれいにしても、外側はきれいにはなりません。この言葉は、外面が良くても内面は強欲と放縦(ほうじゅう)に満ちている偽善者に向け語られた言葉であり、杯は人間そのものです。つまり、杯の内側は心であり、心がきれいになれば外面も自ずと磨かれるというのです。
私たちの中に、自分自身の心が本当に清らかであると言い切れる人はいるでしょうか?むしろ「私は清廉です」と殊更に言う人は、周囲から胡散臭いと思われるものです。とすれば、杯の内側を磨くことは相当に大変なことだと思われます。今回のお茶席で私が感じたことは、清浄さが茶道でとても大事だと言うこと。その清浄さが、客に緊張感を強いるのではなく、むしろくつろぎの気持ちを与えることがあるということです。亭主は客をもてなすために庭を掃除し、遣り水をまき、茶室内も細部まで整えます。客もつくばいで身を清め、お茶室に入るのが礼儀です。隅から隅まで整えられ、作法にしばられる窮屈なイメージが茶道にはありますが、実はその空気感の中にこそ、亭主と客との間に平安がもたらされるのだと思えたのです。
茶道で磨くのは庭でも茶室でもお道具でもなく、心です。心を磨くことはたやすいことではありません。だからこそ、茶道では清浄さを尊ぶのでしょう。私たちも日々の生活の中で、人任せにすることなく自分の周囲を清めることを通じて、自分の心を清めることができたらと思います。
「心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。(マタイ5章8節)」
これで宗教朝礼を終わります。
M.S.(家庭科)