シスター・先生から(宗教朝礼)

2017.04.14

2017年4月12日放送の宗教朝礼から

 みなさん、おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。

中学1年生の皆さん、高1の新入生の方、そして編入生の方、ご入学おめでとうございます。この時間は、シスターや先生方が、皆さんに伝えたいメッセージやご自分の体験をキリスト教的な視点で語ってくださいます。時には、少し難しいと感じる内容も含まれますが、どうぞ、自分の心に響いた言葉を大事にしてください。
さて、カトリック教会では、今週末の日曜日、復活祭(イースター)を迎えます。それにあたり、今週は聖週間(聖なる週間と書きますが)といって、今から約2000年前、イエス・キリストが死の宣告を受け、十字架に磔けられて亡くなり、ご復活されるまでの、その受難と死と復活を、私たちが思いおこし祈る一週間です。
復活祭はクリスマスと並んで、キリスト教において、一年の中でもっとも大切な行事と考えられています。では、なぜ大切なのか?色々な観点から、キリストのご復活の意味を考えることができると思いますが、その一つは、私たちが聖堂で目にする、十字架上の痛々しいイエスの姿に、神様の「愛」の深さを見ることができる点だと思います。
中1の方は、初めて聖堂に入ったとき、中央正面の十字架を見て、きっとなぜあのような痛々しい姿で人(イエス)が磔れているのだろうか、と不思議に感じたのではないでしょうか。イエスは、ご自分は何も悪いことをしていないのに、当時の様々な宗教的、社会的背景により、死を宣告され、人々の罪をすべて背負って、当時最も過酷な刑と言われていた十字架刑で最大の苦しみを味わいながら亡くなりました(イエスがなぜこのような形で亡くならなければいけなかったのかは、どうぞ宗教の授業で学んでください)。
聖書には、イエスが亡くなる直前、十字架上で次のような言葉をのこしたことが書かれています。
群衆から、
「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。(マタイ:27章40節)。」
とか、
「他人を救ったのに自分は救えないのか(マタイ:27章42節、マルコ15章31節」
と、罵られる中、イエスは
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
と仰います。
自分がもっとも苦しい時にさえも、なお周りの人を思いやり、赦そうとなさったイエスの姿に、神様がイエスを通じて私たちに伝えようとなさったメッセージが表現されていると思うのです。
インドで、貧しい方々のために一生を捧げられたマザー・テレサが日本にいらしたとき、次のようなお話を日本人にされたそうです。
少し前、わたしたちの『子どもの家』でお砂糖がなくなってしまいました。それを聞いた4歳の坊やが家に帰って、両親に言ったのです。「ぼく、3日間お砂糖はいらないよ。その分、マザー・テレサにあげるんだ。」3日後、坊やは両親といっしょにそのお砂糖をもってきてくれました。その坊やは、やっとわたしの名前が言えるくらいの幼い子どもでしたが、それでも彼は私に人間とはほんとうに大きな愛をもっているものだということ教えてくれたのです。大切なのは、いくつあげたがということではなく、愛をもってあたえることです。小さな坊やは自らが痛むまで与えたのでした。 
(『マザー・テレサ100の言葉』 ヴォルフガング・バーダー編 山本文子訳より)
また、次のようなお話もあります。
数週間まえのことです。若い夫婦(カップル)がわたしを訪ねてきて、飢えている人たち、貧しい人々にあげる食事のために使ってほしいといって、お金を置いていきました。私たちはカルカッタで、毎日7000人の人たちのために調理しています。私たちが食物を用意しないと、この大勢の人々が何も口にできないのです。わたしは「どうやってこのお金をつくったのですか」と尋ねました。二人は、二日まえに結婚したばかりで、結婚式のまえに式服は買わず、披露宴もしないと決めたと教えてくれました。そういうための費用を飢えている人たちを養うのに使うことにしたいというのです。「どうして、そう決めたの」ときくと、「わたしたちが愛し合っているからです。とても深く愛し合っているので、お互いに特別な贈り物をすることにしました。その特別な贈り物が、自分たちが痛みを感じるほどの犠牲を払って、困っている人たちに贈り物をする」ということだったのです。
(『愛-マザー・テレサ 日本人へのメッセージ』 三保 元訳 女子パウロ会 編より)
さて、先日シスター大原からもお話があったように、今年度の学校目標は『実行力を養う~Bring Joy to Others』です。皆さん一人ひとりが、自分に与えられた場で、言葉や小さな行動を通して周りの人の心の支えになったり、希望や勇気を与える存在として日々を歩んでいかれることが期待されています。「周りの人」とは、かならずしも普段一緒に過ごしている相手だけではなく、おそらく少し苦手な相手も含め自分の周りにいる人すべてを指すのでしょう。相手に“Joy喜び”を運ぶためには、自分が一緒に楽しみながら相手を喜ばすことができる場合もあれば、自分が何かを少し我慢することで相手が喜んでくれる場合もあります。
 最近の様々なニュース、出来事に目を留めると、私たちは、自分たちの利益の追求であったり、自分の国の都合を優先しようと考える人たちが大勢いる社会、またそういった世界の動きの中で、生きていかざるをえません。しかし聖心の学校で学ぶ皆さんは、他者を中心に行動することの大切さを知っている人たちだと思います。十字架上のイエスがそうであったように、自分が苦しい状況にあっても、それでも、周りの人を思いやり、周りの人のために自分ができることを心をこめて行うことは、それ自体がとても尊い行為で、相手の心を動かし、『Bring Joy to Others』 につながるではないでしょうか。
 聖書に次のようにあります。
 『受けるよりも 与える方が幸いである』(新約聖書 使徒言行録20章35節)
 また、聖マグダレナ・ソフィア・バラもおっしゃっています。
 『イエスの聖心をお喜ばせすることで、小さすぎることは何もありません。』
 私たちそれぞれが、自分の置かれた場で、相手のために、心を開いて自ら具体的に行動することが、周りの人の力になったり、喜びを分かち合えると信じ、私自身も皆さんと一緒にこの一年を歩んでいきたいと思います。これで宗教朝礼を終わります。
                                 Y.S(英語科・宗教科)