シスター・先生から(宗教朝礼)
2016.04.27
2016年4月27日放送の宗教朝礼から
おはようございます。宗教朝礼を始めます。
私は昨年12月に聖フィリピーン・ドゥシェーンの生涯についての講演会に参加する機会をいただきました。中学1年生の皆さんはまだフィリピーン・ドゥシェーンのことをご存知ないかもしれないので、彼女のことを簡単に説明します。彼女はアメリカ大陸に行きインディアンのために生きたいという大きなその夢を約40年間ひたすら追いかけ続けたとても辛抱強く、そして行動力のある方です。彼女の死後100年の1952年にここ不二で温情舎ができたので、彼女を不二の保護の聖人として祀っています。教室に飾られているその御影こそがフィリピーン・ドゥシェーンであり、我々のことを日々見守ってくださっています。
その講演会では彼女が夢を追いかけ続けるにあたって直面した困難や当時のエピソードなど、フィリピーン・ドゥシェーンの一生をこと細かに知ることができました。私はこの講演会に行くにあたって彼女のことを調べている時に、彼女が残した言葉を聖心会のホームページで見つけました。その言葉を日本語で要約すると、「素晴らしい自然科学の発見は、今まで夢にまでも見なかった新しい世界を広げてくれる。しかしそれを使っていく人々の心の教育をしなければ、ただ自らを傷つける道具を得ただけになる。」ということです。
知識や技術の使い方ではなく、それを使う人の心によって良くも悪くもなってしまうということだと私は解釈しました。彼女が生きた18世紀以降、人間の技術は目まぐるしく発達し、我々の生活が快適になっているのは確かです。しかし人間がこの地球を支配する範囲が広がりすぎて、動物や自然がのけ者にされています。さらには地球そのものも人間は私利私欲のために傷つけてしまっています。その結果、いまでは人間の生活をも危機にさらされてきてしまっています。また人間どうしが戦争や核兵器によって傷つけあっていることだって数を知れません。技術が発達し、やりたいことが何でも簡単にできてしまう今だからこそ、我々人間の心遣いがより一層求められているのではないかと考えさせられました。
このことは環境問題だけではありません。私たちが何気なく使うインターネットもその1つです。ネットワークの発達のおかげで世界とつながることは今では珍しいことではありません。SNSを活用してニュースでは取り上げられない詳しい現状を発信し世界に助けを求めたり、重い病気にかかる莫大な手術代の寄付を求めたりと、昔では考えられなかった方法で日々世界中の人々が助けあうことが出来ています。しかし、一方で相手のことを考えずに安易に誹謗中傷をしたり、気軽に発信したことが大きな反響を得てしまったり、ときには個人情報を発信しすぎて自分の命を危険にさらしてしまうことだってあります。ネットワークも使い方1つで良くも悪くも活用できます。良くも悪くもなる根底には使用者である私たちの心が問題なのではないかと思います。
今年の学校目標である、~知性を磨く~Climb Every Mountain この言葉にもフィリピーン・ドゥシェーンが残した言葉と同じような意味があると私は思います。皆さんは日々の学習の中で新しい知識をどんどんと吸収しています。ではなぜ「知識を磨く」ではなく「知性を磨く」なのでしょうか?「知識」とは、知ることや物事について知っている内容のことです。それに対して「知性」とは、物事を知り、考え、判断する能力のことです。つまり、知性とは知識を正しく使いこなすという意味が込められています。今の社会に求められているのは知識を使う人の心遣い。つまり、知識ではなく知性であるということがわかると思います。近年、ものすごい速度で発達してきた我々人間の知識や技術。それを使っている私たちに知性が養っているのでしょうか?考えさせられます。フィリピーン・ドゥシェーンが残した言葉の中の「心の教育」とはやさしさや思いやりはもちろん、「知性」も含まれているのではないかと思います。
最後に皆さんに伝えたいことは、知性を磨くことは簡単ではありません。だからこそ磨き甲斐があるのではないでしょうか?私たちの保護の聖人である聖フィリピーン・ドゥシェーが残してくださったお言葉のように、せっかく得た知識がそれを使う私たち自身によって無駄にならないように皆さんにはこの1年を突き進んでほしいと思います。もちろん私も皆さんと一緒に険しい道をたどり、行きついた山頂から眺める景色を楽しみにしています。これで宗教朝礼をおわります。
T.H.(保健体育科)おはようございます。宗教朝礼を始めます。
私は昨年12月に聖フィリピーン・ドゥシェーンの生涯についての講演会に参加する機会をいただきました。中学1年生の皆さんはまだフィリピーン・ドゥシェーンのことをご存知ないかもしれないので、彼女のことを簡単に説明します。彼女はアメリカ大陸に行きインディアンのために生きたいという大きなその夢を約40年間ひたすら追いかけ続けたとても辛抱強く、そして行動力のある方です。彼女の死後100年の1952年にここ不二で温情舎ができたので、彼女を不二の保護の聖人として祀っています。教室に飾られているその御影こそがフィリピーン・ドゥシェーンであり、我々のことを日々見守ってくださっています。
その講演会では彼女が夢を追いかけ続けるにあたって直面した困難や当時のエピソードなど、フィリピーン・ドゥシェーンの一生をこと細かに知ることができました。私はこの講演会に行くにあたって彼女のことを調べている時に、彼女が残した言葉を聖心会のホームページで見つけました。その言葉を日本語で要約すると、「素晴らしい自然科学の発見は、今まで夢にまでも見なかった新しい世界を広げてくれる。しかしそれを使っていく人々の心の教育をしなければ、ただ自らを傷つける道具を得ただけになる。」ということです。
知識や技術の使い方ではなく、それを使う人の心によって良くも悪くもなってしまうということだと私は解釈しました。彼女が生きた18世紀以降、人間の技術は目まぐるしく発達し、我々の生活が快適になっているのは確かです。しかし人間がこの地球を支配する範囲が広がりすぎて、動物や自然がのけ者にされています。さらには地球そのものも人間は私利私欲のために傷つけてしまっています。その結果、いまでは人間の生活をも危機にさらされてきてしまっています。また人間どうしが戦争や核兵器によって傷つけあっていることだって数を知れません。技術が発達し、やりたいことが何でも簡単にできてしまう今だからこそ、我々人間の心遣いがより一層求められているのではないかと考えさせられました。
このことは環境問題だけではありません。私たちが何気なく使うインターネットもその1つです。ネットワークの発達のおかげで世界とつながることは今では珍しいことではありません。SNSを活用してニュースでは取り上げられない詳しい現状を発信し世界に助けを求めたり、重い病気にかかる莫大な手術代の寄付を求めたりと、昔では考えられなかった方法で日々世界中の人々が助けあうことが出来ています。しかし、一方で相手のことを考えずに安易に誹謗中傷をしたり、気軽に発信したことが大きな反響を得てしまったり、ときには個人情報を発信しすぎて自分の命を危険にさらしてしまうことだってあります。ネットワークも使い方1つで良くも悪くも活用できます。良くも悪くもなる根底には使用者である私たちの心が問題なのではないかと思います。
今年の学校目標である、~知性を磨く~Climb Every Mountain この言葉にもフィリピーン・ドゥシェーンが残した言葉と同じような意味があると私は思います。皆さんは日々の学習の中で新しい知識をどんどんと吸収しています。ではなぜ「知識を磨く」ではなく「知性を磨く」なのでしょうか?「知識」とは、知ることや物事について知っている内容のことです。それに対して「知性」とは、物事を知り、考え、判断する能力のことです。つまり、知性とは知識を正しく使いこなすという意味が込められています。今の社会に求められているのは知識を使う人の心遣い。つまり、知識ではなく知性であるということがわかると思います。近年、ものすごい速度で発達してきた我々人間の知識や技術。それを使っている私たちに知性が養っているのでしょうか?考えさせられます。フィリピーン・ドゥシェーンが残した言葉の中の「心の教育」とはやさしさや思いやりはもちろん、「知性」も含まれているのではないかと思います。
最後に皆さんに伝えたいことは、知性を磨くことは簡単ではありません。だからこそ磨き甲斐があるのではないでしょうか?私たちの保護の聖人である聖フィリピーン・ドゥシェーが残してくださったお言葉のように、せっかく得た知識がそれを使う私たち自身によって無駄にならないように皆さんにはこの1年を突き進んでほしいと思います。もちろん私も皆さんと一緒に険しい道をたどり、行きついた山頂から眺める景色を楽しみにしています。これで宗教朝礼をおわります。
T.H.(保健体育科)