シスター・先生から(宗教朝礼)
2015.11.18
2015年11月18日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから宗教朝礼をはじめます。
みなさんは「無言館」という美術館をご存知でしょうか。中学三年生以上の方は、国語の教科書に「無言館の青春」という文章が載っているので、国語の授業で読んだことがあるでしょう。「無言館」とは長野県にある美術館で、戦没画学生、つまり、戦争で亡くなった美術大学や美術専門学校の学生が遺した絵を展示しているところです。先の太平洋戦争では、多くの人が戦争に駆り出されました。戦況が悪化してくると、学生もどんどん繰り上げ卒業させられ、戦地にむかいました。それは絵を学んでいた美大生も例外ではありませんでした。今、「無言館」を訪れる人たちは彼らが遺した絵の前で涙ぐみ、「もし戦争がなかったらこの人たちももっと好きな絵を描いていられたのに」と言います。もちろん、それはまちがっていないのですが、この文章の筆者であり「無言館」の館長である窪島誠一郎さんは、絵が私たちに語りかけているものはそれだけではないと言います。戦争に行くことが決まってからも最後まで絵に向き合い続けた画学生の姿や絵から感じることは、単に「戦争に行って死んでしまった、かわいそう」だけではないのです。
私は無言館に昔行ったことがあります。大学生の頃でしょうか。母から、私の祖父がどうしても無言館に行きたいと言っているので運転手代わりに一緒に旅行に行ってもらえないか、と言われて行ったのです。そのとき私は無言館のことを全く知りませんでした。祖父は趣味で絵を描いていたので、それで行きたいのかなと気軽な気持ちでついていって、美術館に入ったとたん、衝撃を受けました。そこには戦争で亡くなった方々、しかも当時の自分とおなじくらいの画学生が書いた絵が静かにしかし強い存在感を放って展示されていたからです。「学徒動員」という言葉は知っていましたが、その意味をちゃんと知っていなかった自分の無知を思い知らされました。祖父は、と思って見ていると、祖父は絵の前にたたずみ、とても長い時間をかけて一枚一枚とまるで向き合うようにして見ていました。その姿を今、とてもよく思い出します。
祖父は戦争に行って帰ってきた人です。南方の島へ行っていたと聞きました。本人からではなく、母や祖母から聞きました。私が小学生のとき、戦争を経験した人に話を聞いて作文にしてきなさいという宿題がでたので、私は祖父に頼みました。しかし、いつもはいろいろなことをよく話す祖父が、そのときはほとんど何も話してくれませんでした。その内容も今は覚えていないくらい作文の題材になるほどのものではなく、結局話は祖母に聞きました。私の住んでいる御殿場は空襲がなく有りがたかったこと、祖父はやっと帰ってきたと思ったら脚を怪我していて生死の境をさまよったこと。脚はぱんぱんに腫れて、片足を切らなければならないか、というところまでいったそうです。私はそういう経験をした祖父が、なんで何も話してくれないのだろうとずっと不思議に思っていました。
私は大人になって、教員になり、国語の授業で戦争を題材にした物語を授業で学習するようになりました。その今になってやっとわかったことがあります。私は戦争は絶対にしてはいけないと思っています。授業でも、私は戦争を経験していませんが、それでも物語などを通して戦争のつらさや悲しみをみなさんに伝えられたらいいと思っています。しかし、そういうとき、私は自分が被害者のような立場で話しているのではないか、と最近はっと気づきました。もし先の戦争の時代に生きていたら、もしこの先戦争が起こったら…自分はその被害を受ける側だと疑っていなかった自分がいます。自分が相手に被害を与える側になることは考えていませんでした。しかし、戦争とはそういうものなのだ、と考えたら愕然としました。私の祖父は戦争の時南方の島へ行きました。それは何を意味しているのでしょう。南方の島々の戦況や、そこで行われていた作戦からすると、単に「脚をやられて帰ってきた」とだけ言っていられない真実があったのだと思います。祖父が敵と言われる相手国の兵士を殺したことだって、何も罪のない人を銃撃に巻き込んだことだってあったと思うのです。
そう考えると、自分の中での祖父への見る目も少し変わったように思います。祖父は無言館の絵を見ながら何を考えていたのでしょうか。祖父は七年前に亡くなりましたが、明るい人でしたし、とても優しい人でした。小さいながらも会社を興し、子供や孫にも恵まれて幸せに過ごしていたように見えました。今、私の六歳の息子の面差しが祖父に似ていて、私は息子が祖父のような人になったらいいなと思っています。しかし、そうした幸せの中にいても、祖父の中からは常に戦争の記憶は消えなかったのではないかと思います。特に、人を死に追いやってしまったという後悔と自責の念はどんなに笑っていても忘れることはなかったのではないかと。
集団的自衛権・安保法案など、最近また戦争に近づいているのではないかと不安になることがあります。私は戦争には反対です。それを考えるとき、もし戦争が始まったら、自分が被害者になるだけではなく、加害者にもなるのだということを心に強く留めておきたいと思います。私はみなさんや自分の子供が、人の命を奪ったことを一生後悔して生きるような世の中にはしたくありません。
これで、宗教朝礼を終わります。
M.S.(国語科)