シスター・先生から(宗教朝礼)

2015.05.28

2015年5月27日放送の宗教朝礼から

おはようございます。これから宗教朝礼をはじめます。
「来た、見た、勝った」これは紀元前のローマ時代の政治家であり、軍人であったシーザーがゼラの戦いで勝利した時に報告書に記載した文言です。この表現は原文がVeni、Vidi、 Vici(古典ラテン語でウェニ―、ウイーディー、ウイーキー)、その韻は解りやすく響きが明確なので印象に残り易いのか非常によく引用されています。

同じような表現をこのたび闘病生活を終えられた瀬戸内寂聴さんがNHKのクローズアップ現代で語っていらしたので今日は紹介したいと思います。瀬戸内寂聴さんは現在93歳、作家として、また近年は仏教の尼さんとして、講話や対談、エッセーなどに精力的にお仕事をこなしてきました。そのような瀬戸内さんですが昨年度は、骨折、その後がんを患い一年近く闘病生活を送っていらしたようです。今月約1年ぶりに法話を再開、約300名の方々が寂聴さんのお話を聞きに集まったそうです。まず、「死にそこなって今日を迎えることができました。」と御挨拶。その後のお話の中で、「生きているのが当たり前と思っていたが、皆さんにお会いできるのが不思議なことと分かった。先祖や仏様に感謝しましょう。」「元気になったのは皆さまが私の為に祈ってくださった力だと思います。」とお話なさいました。瀬戸内さんは闘病のさなか、一時は死を覚悟し、お墓に刻む文言を考えたそうですが、それがまさにシーザーのように韻を踏んだ3語となりました。

その寂聴さんの「見た、来た、勝った」の一つ目は「愛した」です。
寂聴さんは結婚するも自由奔放な方で家庭を捨て生きていくことを決意します。現在は尼僧ですが、その過程には多くの出会いがあったと言われています。その後、若い頃の生活を改め出家し尼さんになってからは相手を思いやりいつくしむ境地になっていったそうです。瀬戸内さんはこう言っています。「私は多く傷つき多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人はその分、愛の深い人になります。」「私達は誰かを幸せにするために生きているのです。」瀬戸内さんの言葉には失敗挫折を経験しながらも人と出会い、関わることの素晴らしさがあります。私達はだれも1人で生きることはできません。誰かに支えられ、その方達の思いが私たちを強くします。家族を大切に思う心があるなら、周囲の人を愛することも自然に学べるのではないでしょうか。今は支えられている自分でも誰かを愛し、支えていく人に成長したいものです。

瀬戸内さんの二つ目は「書いた」だそうです。作家として小説、エッセーを書き、多くの方々を文章で励ましました。この「書いた」という言葉から瀬戸内さんのご自分の人生、そして仕事への満足感、達成感が伝わります。 この言葉も私達自身に置き換えることはできませんか?自分が生涯をかけて取り組みたいもの、あるいは、今向き合う課題に真摯に向き合うなら、その目標に近づいた時、後悔せずに「練習した。」、「勉強した。」と言い切れるではないでしょうか。時には与えられた課題、宿題でおしつぶされそうになることもあるかもしれません。愚痴を言いたくなることもあるでしょう。愚痴は言わないほうがいいものの、私は愚痴を言ってもいいと思います。愚痴をいい、自分の気持ちをコントロールしゴールにたどり着くのならその時は「やり遂げた。」と自分をほめてはいかがでしょう。

瀬戸内さんの最後は「祈った」です。仏教の尼さんですから当然なのかもしれませんが、「祈る」ことからいただいた人生のお恵みをこの言葉から感じずにはいられません。彼女は言います。「心を無にして人の為に祈った時にだけ霊験(れいげん、キリスト教における神の力、と考えられますが)の多くは現れる。それは人が何かを信じきり任せきった時に現れるもの」「誰のなかにも仏さまがいるのだと思って、相手に手を合わすような気持ちで接してください。」私達も毎日をお祈りで始めています。お祈りの係にあたった時、何を思い浮かべてお祈りを考えますか?大変な状況にいる人々?テストのこと?お友達関係?お祈りは言葉にすることであなたの心が伝わります。また、沈黙のお祈りは私達の心を整えます。時にはそっとお隣に座っている友人の為にお祈りすることもあなたの一日を安らかにするかもしれません。
死にそこなった、と自らの闘病生活を明るく表現した瀬戸内さん
「愛した、書いた、祈った」の3語からは精一杯生きた方の潔さが伝わります。皆さんの毎日はいかがでしょう。先週の体育大会では「走った、泣いた、笑った。」の皆さんの表情が印象的でした。一日一日を大切に生き、あなたならではの達成感を味わっていただきたいものです。


Y.S. (英語科)