シスター・先生から(宗教朝礼)

2015.05.20

2015年5月20日放送の宗教朝礼から

おはようございます。これから、宗教朝礼を始めます。
5月もゴールデンウィークが過ぎ、気がつけば下旬となり、「初夏」の言葉が似合う時期となりました。先週は、季節はずれの台風が襲来しました。フィリピンで死者を含む大きな被害をもたらした台風6号は、5月12日の夕方から夜にかけて日本に接近、全国的に強い雨と風をもたらしました。静岡県においても1時間の最大雨量が50ミリ以上を記録したところも多く、県内10の地点で5月の観測史上最高の雨量を記録したそうです。12日の午後6時頃には、四国沖で温帯低気圧に変わっていたにも関わらず、これだけの雨風をもたらしたその凄まじさには驚かされます。台風の持つエネルギー、自然の持つエネルギーの大きさに改めて感じ入るものがありました。
今でこそ、気象衛星を利用して画像データを調べ、台風が発生しようとする段階から私たちは動きを追い、日本に襲来するのかしないのか、予測をし、やきもきすることができます。しかし、一昔前、気象衛星が台風観測の主力となる以前は、電波とその反射を利用した気象レーダーによる監視が台風予測の主役でありました。
1959年9月、とても巨大な台風が日本を襲いました。伊勢湾台風です。死者・行方不明者は5098人、負傷者3万8921人、家屋の全半壊15万3890棟、床上浸水15万7858棟にものぼったこの被害は、明治維新以来現在に至るまで、台風によるものとしては最大の被害となっています。伊勢湾台風の未曽有の被害を受けて、日本列島に被害をもたらす可能性のある台風の位置を少しでも早期に探知するため、日本の最高峰、富士山の山頂に、当時世界最大規模の気象レーダーを作るという途方もないプロジェクトが発案されます。
それまで世界で最も高所にあった気象レーダーは、アメリカ合衆国モンタナ州、標高2600mの山頂にあったものでした。富士山頂における気象レーダーの建設は、当時の世界記録を一気に1100m以上も塗り替えるものでした。
史上例のない高地での建設工事となったこのプロジェクトには数多くの困難が待ち受けていました。地上の3分の2しかない空気の薄さによる高山病により、作業員の方々は激しい頭痛や吐き気、精神的な不安定に苦しみました。地中に固く広がり土台の建築を阻む永久凍土は、ノミとハンマーでコツコツと削り取っていくしかありませんでした。500tを超える物資の運搬も容易ではありません。ヘリコプターで運ぶにせよ、山頂付近では風が複雑に吹き荒れ、乱気流が発生し、大きな危険を伴いました。このプロジェクトは、まさに「不可能」への挑戦と言えるものだったのです。
2年に渡る工期を経て、延べ9000人の人々を巻き込んで作られた富士山レーダーは、東海道の沿線からも確認できる直径9mの白いドームを載せ、1964年9月、ついに稼動をはじめました。当時、世界で最も高所に設置された高出力・高感度のレーダーは、その探知範囲を通常の気象レーダーの4倍に広げ、富士山を中心に紀伊半島から八丈島、福島までを円で結んだ領域内の地域・海域の台風や大雨の監視に大きな力を発揮しました。富士山頂という低圧、低温、強風という厳しい自然環境のなか、職員ほか関係者の尽力によりその運用は続けられました。1999年に「台風の砦」としての役目を気象衛星に譲って歴史を終えるまで、富士山レーダーは35年間にわたって日本の気象観測の文字通り最前線でありつづけたのです。
台風という自然災害から日本国民を守らなくてはいけない、という重い責任を抱えながら、これだけの巨大なプロジェクトを完遂させるためには、プロジェクトのリーダーは、いったいどれほどの実力と、自分への自信が必要なのでしょうか。いったいどれほどの重い覚悟で、その仕事を引き受けたのでしょうか。みなさんは、どう考えますか。
富士山レーダーのプロジェクトのリーダーとして尽力を注いだ人物の中に、気象庁観測部の藤原博人(ふじわらひろと)という人がいます。彼は、気象庁に勤めながら「新田次郎」のペンネームで作家活動も行い、第34回の直木賞を受賞したほどの異才の持ち主でした。彼は、富士山レーダーのプロジェクトを完遂した後、気象庁を退官します。その後、このプロジェクトに携わった経験を基に、「富士山頂」という小説を執筆します。
小説の中で、彼自身がモデルとなっているであろう葛木(かつらぎ)という人物が、富士山レーダーのプロジェクトのリーダーとしての任を受けることを決意したシーンが出てきます。少し、引用してみます。
葛木は結論らしいものを発見したような気がした。理由づけができたという感じだった。きわめて簡単なことだった。富士山という日本の象徴に結局は無条件降伏したまでのことであった。だが、彼には、そのときはそれで立派な理由に考えられた。彼は階段をおりていった。気が変わることがおそろしかった。決めてしまいたかった。これ以上この問題で苦しみたくなかった。彼は電話機の前に立った。もう1度考え直すことはないだろうか、――その気持ちをはねのけてかなり乱暴にダイヤルを廻した。(文春文庫、p33)
自身の上司に電話をした彼は、開口一番「富士山レーダーをやらせていただきます」と返事をしました。
なんだか、あっけない感じがしませんか。「絶対にやるんだ!」という強い意思でもって彼はプロジェクトを引き受けたのではなかったのです。もうしばらく連絡を遅らせたら、自分の決心が揺らいでしまうかもしれない、それほどにやるか、やらないかの微妙な揺れの中で、彼は選択をしたのです。
「富士山頂」という小説のこの場面は、私達に大切なことを伝えているように思います。
どれほど巨大なプロジェクトでも、その始まりは、誰かの小さな、本当に小さな決意からスタートするのだ、ということです。それは、ともすれば「やっぱりやめる」となってもおかしくないようなほど、小さな決意、ゆらゆらとした揺らぎの中で決めた決意です。何かに挑戦をする、ということは、実は、それほど難しいことではないのかもしれません。揺らぎの中で、自分を奮い立たせ、勇気をもって、もう後戻りのきかない一歩を踏み出す。その一歩こそが、とても大事なのだと私は思います。後戻りのきかない最初の一歩さえ歩み出してしまえば、あとはその状況が、周囲の人々との関わりが、周囲の人々の想いが、自分の背中を押してくれるのだと思います。自分の一歩や、自分の挑戦に対する意義や評価はあとからゆっくり考えてあげれば良いし、自然とつけられていくものだと思うのです。

35年間に及ぶ運用を終えた富士山のレーダードームは、2001年9月に富士山頂から本体が撤去され、富士吉田市に移設されて、現在は富士山レーダードーム館として公開されています。富士山における最高点である剣ヶ峰には、石碑や三角点に並んで、無人の測候所の建物が残るのみです。日本最高峰という特別な場所のすぐ横に、人口の建築物がある、ということ自体は不思議な感じがしますが、私は富士山頂に立った時、あまり違和感を覚えませんでした。それは、小さな決意から始まる、私利私欲のためではなく、日本国民を災害から守るのだ、という熱い使命感や覚悟が伝わってくるからなのだと思います。
これで、宗教朝礼を終わります。

S.N.(社会,地歴公民科)