シスター・先生から(宗教朝礼)
2014.11.26
2014年11月26日放送の宗教朝礼から
おはようございます。挨拶をして静かに着席して下さい。
今週から、クリスマスに向けて、校内ではプラクティスが始まりました。わたしたちはプラクティスの実践を通して、クリスマスまでの日々を、一人ひとりが自分の心についたほこりを落としていきながら、本来あるべき「わたし」の姿に立ち戻り、心の静けさを大事に過ごしていきます。心の中が、本当に素直で、正直で、きれいになったとき、イエス様の誕生の喜びや、その意味がわたしたちの心の深いところに落ちてくるのだと思います。
さて、今日は、クリスマスのお話が本題ではありません。
皆さんは「自由」と聞くと、何を思い浮かべますか?自分の思い通りに物事を進めてくとか、好きなものを自由に選ぶこととか、私たちはこの「自由」という言葉を、誰からの命令も強制も受けずに、自分の思い通りに何かをしていくことに使うことがほとんどではないでしょうか?
今日は、キリスト教的な視点に立って、この「自由」ついて考えてみたいと思います。
皆さんは、ヴィクトール・フランクルという名前を知っていますか?高校生は、授業の中で聞いたことがあるかもしれません。中学生はおそらく初めてでしょう。彼は、オーストリアの、ユダヤ系精神医学者で、第二次世界大戦中、ナチスに捉えられ強制収容所に送られ、そこで人間としての極限の苦しみを味わった末、1945年、アメリカ軍に解放され九死に一生を得て生還します。彼の父、母、妻はこの収容所で死にました。彼は、後にこの収容所での極限の体験をつづった「夜と霧」という本の中で、人間の自由の尊さについて書いています。絶望的な状況下で自暴自棄になったり、僅かな食料をめぐって奪い合いや、死んだ人から物を取っていくような人がいる中で、最後まで人間性を失わなかった人たちがいたというのです。生きる上で最小限のパン一切れしかない中、ある日、一人の病人がでました。その朝、その病人の枕もとに、これから過酷な重労働に向かおうとする何人かが、自分のパンをそっと置いていったというのです。監視の非常の厳しい収容所で、ナチスの兵士さえも奪うことのできなかった、人間同士の「自由の行為」があったというのです。フランクルは、収容所でのこのような経験を通して、「人間の自由とは、どのような状況下にあっても、その状況に対して、自分のあり方を決めていける自由である」といった名言を残しています。
さて、地球上で、理性に基づいて考え、判断し、決断し、行動できる力を持つのは、まぎれもなく、私たち人間だけです。わたしたち人間だけが神様から与えられた、特別な力です。理性とは、感情に左右されず、物事を道理に基づいて考えようとする力です。動物にはありません。わたしは、中学生の時、当時校長先生のあるシスターから、宗教の時間に、「人間の自由とは、自分の心のなかにある良心(「良い」「心」と書きます。)に導かれながら、神様の御心を自分のものとし、自分の責任において選び取っていける姿」と伺いました。その時、大変な衝撃を受けたことを今でも覚えています。それまで、自分が考えていた「自由」がなんと浅はかで、薄っぺらいものであったのか気付かされたからです。そもそも「良心」という言葉も初めてその時知りました。「良心」とは、正しい事、間違っていることを判断し、自分を正しい方に導いてくれる心の働きのことです。周囲に流されることとか、衝動で動くとか、「こんなことは、私の自由だから、勝手にさせてよ」などと、よく言ってしまいますが、この場合に使われる「自由」とは、ほとんど、物事のなり行きのまま・・という意味で、「自分の理性に従いながらよく考えて・・」とか「自分の良心に導かれた判断・・」という意味合いは薄れています。本当の「自由な選び」からは、かけ離れた自己中心的な考えになっていることがしばしばです。
旧約聖書の創世記に次のように書かれています。
「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。
(略)
神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」
( 日本聖書協会 新共同訳 創世記1章 26節、27節)
キリスト教では、人間は、神の似姿として、特別な存在として扱われます。中学生にとっては少し難しい概念ですが、簡単に言えば、人間は、神様から、特別な恵みを預かって生まれた存在、と捉えてもよいかもしれません。神様、そしてイエスの心が、まさに聖心のマークであるオープンハートであり、弱い人、貧しい人、飢えている人、悩み重荷を負う人など、すべての人を優しく受け止める存在であるならば、私たち人間も、神様の似姿として、神さまに似た部分をもち、神様の愛の一部を預かって生きているといえるでしょう。しかし、私たち人間は、もちろん神様ではありませんから、不完全で、足りない所だらけで、失敗や、過ちも沢山おかします。
とはいえ、ヴィクトール・フランクルが書いていたように、強制収容所で、一かけらのわずかなパンを、自分こそ食べたい・・・という思いを超えて、自分よりもっと弱い人に与える選択を選んだ人たちがいた・・・という事実は、人間の自由意思の最も尊い姿の表れです。私たちが日常生活の中で、フランクルの経験したような、「極限の状況」を体験することは、めったにないかもしれません。しかし、私たちも自分の置かれた場で、日々、自分の「自由」と向き合って生きているのではないでしょうか?自分の前にいくつかの選択肢があり、そこから自由に何かを選べるとなったとき、あなたは何を選びますか?
あなたが、自分の理性に従ってよく考え、そして良心に導かれて自分のあり方を決めたのであれば、きっとそこには神様の力が働き、その先にはよいものがあります。あなたがじっくり考えて下した決断を神様はそっと背中を押してくれるでしょう。その先には、自分を本当の意味でより良いものへと導いてくれものがあると信じてください。
これで宗教朝礼を終わります。
Y.S.(英語科・宗教科)