シスター・先生から(宗教朝礼)
2014.11.19
2014年11月19日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから、宗教朝礼を始めます。
「あなたが落としたのは、金の斧ですか?銀の斧ですか?それともふつうの斧ですか?」ときこりが尋ねられたイソップ物語のお話はみなさんもご存じだと思いますが、少し話の趣旨は違うものの、もし、あなたが次のように尋ねられたどうしますか? 「毛がふわふわの茶色のネコ、白い毛の上から墨汁を適当に流したような模様のネコ、耳がただれてしまって息も絶え絶えのネコ、このうち2匹を飼うとしたら、どのネコを連れて帰りますか?」
これは、ある日、我が家に突然おとずれたお話です。用事があって妹が長野県へ行ったとき、段ボールに入った、飼い主待ちの赤ちゃんネコたちを3匹見つけました。以前、我が家には、やはり拾ってきたネコがいて、家族で大切にかわいがっていたのですが、その半年ほど前に死んでしまい、私たちはその後、悲しい気持ちで過ごしていました。ネコが死んでしまったとき、ある人が「きっとそのネコちゃんは、こう思ってるはずだよ。もし私のようなかわいそうなネコがいたら、また助けて私にしてくれたようにかわいがってあげてね、って。嫉妬をするどころか、同じように困っているネコを助けてくれたら、ありがとうって、自分のことのように嬉しいって、思うはずだよ。」と話してくれました。箱に入った3匹のネコを見たとき、妹は「このネコたちのことだ!」と直感的に思い、うちに電話をかけたのだということでした。電話を受けて、私たちほかの家族みんなが同じ思いを心で感じたことがお互いに分かりました。ところが、もし飼うとしたら、きちんとお世話をしなければなりません。「3匹は難しいかもしれないけれど、2匹ならみんなで頑張ってお世話していけそうね」それが母の意見でした。1匹飼った経験はあるものの、突然3匹飼うことには不安がありました。妹は、現地で他に協力してくれる飼い主を探すために、一旦電話を切りました。次の連絡が来るまで、私は、なんとか3匹全部ひきとれないものかと考えていました。しばらくして、再び電話が鳴りました。妹はこのように言いました。「協力してくれる人がみつかったよ。もうこの子はもしかしたらダメかもしれないけれど、耳を怪我している死にそうな子をまずひきとって、あとの2匹から好きな方を選んでもらうことにした。」私は、妹がまず、いちばん弱っているネコを迷わずに引き取る決断をしたことにびっくりし、そして胸を打たれました。このようにして、我が家には、余命幾ばくもないかもしれないネコと、上から墨汁を流したような模様のネコ、2匹やってきました。
さて、もうひとつ私が中学生だったころの友達の話をしたいと思います。中学1年生のとき、いちばん仲良くしていた友達とは、何をするときも一緒で、私は本当に楽しい毎日を送っていました。ある日、学校で遠足の班を決めるとき、自分たちで上手に作るようにと担任の先生が言いました。当然のように私たちは同じ班になり、他にも仲良しの友達が加わって、6人のグループが無事完成したかのように見えました。ところが、その親友は言いました。「私は他の班に行くことにする。同じグループのRちゃんはみんなを楽しませることのできるいいお友達だけど、いつも何もしていないOちゃんをいじめたり、悪口を言うことには、どうしても許せないの」そう言って、彼女はひとり、Oちゃんのグループに加わっていきました。私はとても驚きました。いつも自分の楽しい学校生活だけに夢中になっていた自分。彼女の言葉に心を動かされたにも関わらず、「私も行く!」と言えなかった自分。人の心の痛みを自分の心の痛みとして感じ、人の心に寄り添った彼女はなんて温かくて、なんて優しくて、そしてなんて強いのだろう… 私を誘うこともせず、ひとりで考えて決断し、行動を起こしたということに、彼女の強さを感じずにいられませんでした。いちばんの親友だったはずの私と遠足で楽しい時間を過ごすことより、理由もなく心ない言葉を受け、辛い思いをしていただろう友達のもとへ行った彼女の姿に、“本当の優しさ”とはどのようなものなのかを教えられた、忘れられないこの出来事は、今も私の大切な軸となって心を支えてくれています。
ここで、私のクラスだったある卒業生が言っていた言葉をみなさんと分かち合いたいと思います。
「私が聖心の学校で学んだことは、自分のことがあとまわしになっても、弱い立場の人のために手をさしのべることができるようになったことです。そして、今の私は、たとえ自分が弱い立場の人間だとしても、自分よりもっと弱い立場の人のことを考えて行動することができます。」
自分の周りを見回してみてください。弱い立場となって過ごしている人はいませんか? ここで言う弱い立場とは、もちろん人間としての上下ではなくて、自分の手を必要としてくれている人、その人のために自分を役立たせることができるかもしれない、と思える人です。自分の限られた数の手を、弱い立場となって過ごしている人みんなに差し伸べることは難しくても、いちばん弱い立場の人に1本の手を差し伸べることは、もしかしたらとてもシンプルなことなのかもしれません。
物を落としたら拾ってあげる、隣に元気のない友達がいたら「大丈夫?」と声をかける、それも十分素晴らしい優しさです。でも、少し視点を変えてみたら、もっと注意深く周りを見ながら生活をしてみたら、そこに自分の優しさを注げる人がもっといるかもしれません。自分の近くにも、そして遠い国にも。自分が忙しくても、自分が不満や辛い思いを抱えていても、たとえ目の前に自分の楽しみや幸せがあって、そこに心が向かいがちであっても、少し視線をあげて、人の心に自分の心を向けてみると、自分の心を注ぐべき場所が見えるかもしれません。まだまだ自分が見えていない誰かが見えるように、そして自分を役立たせることができるように、私もみなさんとこれからも心に留めながら過ごしていけたらと思います。
さて、我が家のネコですが、細い息で、最期を看取るだけかもしれないと心配していたネコは、家族で看病した甲斐あって、日増しに元気になり、人間の行動をよく観察し、今はドアの取っ手にぶら下がって開け方もマスター。物事をよく考える賢いネコとなりました。墨汁を流したようなネコは、12年間、トイレットアクシデントばかり、何をやってもうまくいかないネコですが、愛敬たっぷり、みんなに幸せをもたらしてくれるやんちゃなネコで、今日もきっと実家で元気に過ごしています。
これで、宗教朝礼を終わります。 Y.Y.(英語科)