シスター・先生から(宗教朝礼)

2014.10.22

2015年10月22日放送の宗教朝礼から

おはようございます。
これから宗教朝礼をはじめます。

校庭の木々も少しずつ色を変えはじめ、秋を感じられるこの時期、学院では皆さんが秋のつどいへ向けて様々な形で努力を重ねている頃ではないでしょうか。
今年は不二農園100周年という記念すべき年です。例年にも増して今年の秋のつどいには、この地に学院が根付き現在にいたるまでを支えてくださった多くの方々が、久しぶりに訪れてくださる機会となることと思います。

みなさんは、ご自分が初めて不二聖心に来た時のことを覚えていますか?その時にどんな印象を受けたのか覚えていますか?

私は就職試験の面接で大学4年生の秋、初めて不二聖心を訪れました。門からは両側を背の高い木々に覆われた坂道が続き、とてもお天気に恵まれた日でしたので、木々の間からこぼれる太陽の光が眩しかったことを覚えています。高速やバイパス道路までも越え、どれだけ山の上にあるのか…と不安になりました。道をさらに登ると次は左手に一面のお茶畑。そんなお茶畑を越えたかと思うと、視界が開けて緑色の外国風の屋根をした高い塔の前に到着…どこに運ばれて行くのか不安になりながらも、次々にあらわれるまるで映画のワンシーンのような景色に、ただただ圧倒されて訪れたことを今でも鮮明に覚えています。

その後、ご縁をいただきこの不二聖心にお勤めすることとなり、驚くばかりだった坂道、目の前にパーっと広がった緑のお茶畑は私の通勤路となり、日常風景のひとつとなりました。

お茶畑と学校…なかなか共通点を見つけにくいと思いますが、なぜ共にこの広大な敷地の中にあるのか、そんなことを不思議に思ったことはありませんか?少し情景を想像しながら聞いてみてください。

かつては、今の校舎など、建物の建っている場所、運動場もすべてお茶畑でした。この山の中が一面のお茶畑となるまでにも歴史はあります。古くは明治初期、江戸幕府旗本7名が官有地の払い下げを受け、士族から依頼を受けた地元民が開墾にたずさわったのがはじまりです。この場所は当初、「佐野農場」と言われていました。その後に、鈴木藤三郎という人に引き継がれ「鈴木農場」となり、その後、岩下清周により大正3年、1914年に「不二農園」としての歴史がスタートします。

そして今年、不二農園は100周年を迎えますが、その遥か昔から、この地に不二農園の前身として土台があったわけです。不二農園は、お茶の栽培にとどまらず、果樹や野菜の試験的栽培や温室栽培、馬、牛、豚、鶏などの家畜の飼育、また岩下清周は森林に並々でない関心を示し農園の杉や檜の林を養ったそうです。お茶の忙しい時期になると、近隣の農家の女性が100人近く茶摘みの手伝いに訪れ、敷地内には、農園で働く従業員の方のお家が10戸ほどあり生活していらしたそうです。現在もお茶畑の真ん中に残る、大きな紅葉の木があります。この木は、暑い中一生懸命働く従業員のことを思い、休むための木陰として清周によって植えられたものだそうです。今もしっかりと根付いている一本の木を見て、その木にまつわるエピソードを知っているととても風情を感じませんか?

いくつかの郷土資料をみていくと、昭和初期頃、実際に近隣の方が農園で茶摘みをしている写真や、富士山を見渡せる一面茶畑のこの地の様子を見ることができます。
清周はこうして、この地でその頃あまり行われていなかった近代的な農業に取り組む一方、不二農園で働く人々の子どもたちのためと、遠くの小学校まで通っている地域の子どもたちのために、不二聖心の前身となる温情舎小学校を1920年(大正9年)にこの地に設立しました。休日には学校を開放し、地域の子どもたちのために日曜学校を開き、地域の青年のためには技術や知識を習得できるような機会を設けていたようです。また、安心して父母が働けるように農園内に託児所が設けられていたそうです。現在も敷地に残る多くの杉や檜は、当時50年100年先を見据えて植えられたものであること、農園の開業とともに女学校の開設を考えていたことなど、遠い昔に行われたと思えないような先進的な取り組みを、岩下清周はこの地で行っていました。清周は、女子に教育と信仰を与え、落ち着きのある、どんな場面においても精神的に安心と慰めを求められる立派な母親となるべき女子を育てたい。更には商業的知的能力を授けて、独立自尊して母としての役目を全うできるのなら、なお結構である、という考えを持っていたそうです。

この考え方は、国や文化が異なっても創立者マグダレナ・ソフィア・バラと偶然にも通じるところがあります。マグダレナ・ソフィアは教養のある母親の姿から、社会的人間的な成長に教育が関わってくること、とくに女性が家庭の中や子供達の教育、また身近な人々との関わり、ひいては社会にどれほど影響を与えるかをも意識していました。これはまさに清周の思想と同じ方向を見ていたわけです。

こうして2人を比べてみると、偶然ながら相通じるものがあり、偶然なのかそれとも必然ともいえるのか、清周の開いた温情舎小学校は後に聖心会へと託され、現在へと歴史をつなげてきました。こうして、お茶畑と学校は不思議にも、自然な形でこの地に根付き、現在にいたっています。日常の風景となっていたお茶畑から、不二農園100周年にあたり知ることができた農園の歴史ですが、時の流れと同時にあらためて時間の重みを感じました。

不二聖心という、この場所で毎日を過ごしていると、学校は当たり前にあり、この広大な自然や風景の中で一日過ごすことも当然のように思えてしまいます。ですが、それらは全て昔の人の知恵と努力、そして積み重ねられた生活を基盤として存在しています。皆さんも歴史や伝統を同じように作っていく、後に続く大きな役割を持ったメンバーです。

秋のつどいまで、残すところあとわずかとなりました。スローガンである「Circle Rainbow」を一人ひとりが思い描きながら、歴史や伝統として刻まれる素敵な一日を迎えられることをお祈りしています。

これで宗教朝礼を終わります。

A.T.(図書館)