シスター・先生から(宗教朝礼)
2014.05.30
2014年5月28日放送の宗教朝礼から
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
皆さんにとって、「出会い」とはなんですか?
例えば、歩いている時にふと見上げた夕方の空の色だったり、あるいは、小説の中の心から共感できる一節だったり…偶然か必然か、私たちの生活は、多くの出会いに溢れています。
その中でも、私が一番大切にしているものは、友達との出会いです。特に高校生くらいまでに出会った友達の存在は、今の私の大きな支えとなってくれています。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子さまはキツネと出会い、次のようなやりとりをします。
王子さまは言った。
「友達をさがしてる。『なつく』って、どういうこと?」
「ずいぶん忘れられてしまってることだ」キツネは言った。「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ…」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。「きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる…」
これは、私が高校三年生の宗教の授業で取り上げられた箇所です。なぜ、卒業間近に読むことになったのか、今となってようやくわかったような気がします。
それまで重ねてきた日々が、結んだ絆が、尊いものであること。それは目には見えないけれど、「帰ることのできる場所なのだ」ということ。高校三年生では実感しきれなかたことを、最近になって気付かされました。
私は、周りばかりが大人になっていくような気がして、自分だけが子供のまま時が止まってしまったような、やり場のない不安を感じていました。そしてそれらを見て見ぬ振りをして、胸の奥に小さな棘が刺さって深く深く埋まってしまっているような痛みと違和感と抱えながら笑顔でいることは、とても辛いことでした。十分に恵まれた人間関係の中にありながら、誰にも理解してもらえないような、寂しさに似た感覚から抜け出せずにいました。そんな私に気がついて、そっと支えてくれたのは、二年ぶりに会った中学校時代の友達でした。「大丈夫だよ。私がいる。無理に話さなくってもいいけど、長い付き合いの友達になら、話せることってあるよね」という言葉に、どれほど救われたか知れません。
大人になればなるほど、お互いに住んでいる場所や環境の違いなどから、連絡を取ることも、顔を見ることも、だんだんと減っていきます。そのような中でも、わかりあえる、頼れる、弱さをみせられる、そんな安心できる関係が、友達なのだと改めて感じた経験でした。
人と関わりを持つことは、必ずしも嬉しいことばかりではありません。しかし、まるで取り返しのつかないことのように、人との関わりを恐れたり、避けたりすることは、勿体無いと感じます。人の感覚というものは、どう頑張ってもひどく相対的なものではありますが、それに無理に縛られずにいたいし、そうあってほしいと思うのです。
私は「人は球体のような生き物だ」と考えています。一視点から見ただけではその全ては計り知れないし、その中身がどうなっているかなんて割ってみなければわからない。一面的な見方ではもちろん、多面的な見方でも足りない。しかし、全てを知ることはできなくても、出会えた人と丁寧に関わって絆を結ぶことは本当に素敵なことです。そうやって良い関係を続かせていけることがどれほど幸せなことであるか、私自身も、これまでの、そしてこれからの出会いや関わりの中で感じていきたいです。
新しい学年が始まって二ヶ月近く経ちますが、新しい出会いや関係には慣れたでしょうか?まだ戸惑い、悩んでいる人も皆さんの中にはいることと思います。友達とは、楽しいことを共有するばかりではなく、沢山喧嘩してもいいし、時にはすれ違ってもいいと私は思います。ただ、いつも本気で相手と向き合って、そして、最後はお互いに理解しあう努力をしてほしい。今、この時期の出会いの一つ一つを大切にしてほしい。そう願っています。
A.S(寄宿舎)