シスター・先生から(宗教朝礼)
2014.05.21
2014年5月21日放送の宗教朝礼より
これから宗教朝礼を始めます。不二聖心の中で、自分にとって大切な場所はどこですか?という質問をされたら、私は、お聖堂と答えます。今日は、お聖堂で過ごした思い出の中で、みなさんにお話ししたい出来事が二つあります。
私は、不二聖心に入学し、不二聖心で学生時代を過ごしました。中学一年生の頃は、エンジェルさんができ、中学校生活の新鮮さがあり、大変なことがあっても、とても楽しく過ごしていました。しかし、次第に全てのことが嫌になってしまう時期がありました。だんだん自分に自信が持てなくなり、自分の存在がただよっているような感覚になりました。
不二聖心はキリスト教の学校です。この学校に入学した時、神様やキリスト教をとても大切にしていることが分かりました。しかし、自信がもてず、いつも人と比べて自分の足りなさを見ていた私は、神様がいるのに、どうしてこんなに不公平なことが起こるのかと、神様の存在を信じることは出来ませんでした。キリスト教の愛やスピリットに納得できず、ロッカーに入っている聖書を取りに行く時は、よく大きなため息をついてしまっていました。聖書の重さはまるで自分の心の重さのようだとさえ感じていました。
中学生のある日、心が辛くなり、お昼休み、お昼ご飯を早く済ませ、一人になれる場所を探していたことがありました。その時、お聖堂に行けば一人になれると思いました。しかし、お聖堂に入った時、そこにはすでに祈っている人がいたのです。沈黙の中、真剣にお祈りをしていたのは一人の先生でした。その先生は今は退職なさってますが、理科の先生でとても厳しい印象でしたので、その先生が祈っていたことがとても驚きでした。私は、その時、先生が何を祈っていたか分かりません。祈りの内容は分かりませんが、その先生の祈る姿をみて、私は、悲しかった心が和らぐのを感じました。その先生は私のために祈っていたわけではないでしょう。けれど、先生の祈る姿から、私はその時、「この学校には誰かのために祈る先生がいるのだ。」と感じたのです。自分はキリスト教の精神が合わないかもしれない。けれど、祈ってくれる人がいる学校だから頑張れるかもしれないと感じました。
もう一つの出来事は高校生の時に起こりました。高校生になると、学校が、次第に自分にとって大好きな場所となっていきました。友達と過ごすことが好きで、勉強も面白くなっていきました。けれど、だからといって、キリスト教の精神を心から理解しているかと言われれば、決してそういう訳ではありませんでした。そして、高校生になると、自分の進路や自分の生き方について悩むようになりました。悩みやすい性格だった私はよく友達に相談していてました。ある日、友達に相談した時、友達が、「私は、あなたの悩みを解決させてあげたいけれど、いくら考えても何もできない。だから、今から、一緒に神様にお祈りしにいこう。」と言ってお聖堂に行って、一緒に祈ってくれました。そして、「私がたくさん祈ったから、大丈夫だよ。」と言ってくれました。私はこの時、人のために祈る彼女は、なんて優しい子なんだろうと思い、とても胸がいっぱいになりました。まさかお聖堂につれてきてくれるとは思いませんでした。この学校に入ってよかった、この子と出会えて良かったと思い、その後、涙が止まりませんでした。
私は、恥ずかしいことに、学生時代に悩んでいた具体的な内容を、今はすっかり忘れてしまっています。けれど、その先生と友達の祈る姿は、一生忘れられません。私は卒業する間近になった時、人の祈る心の中に、神さまっているのかもしれないと思うようになりました。神さまは目に見えない存在である代わりに、一人一人の心の中にいて、確かな愛で人と人がつながるようにしてくださったのだと感じます。
友達や先生のように誰かのために祈れる人に私もなりたい。目に見えないけれど確かにある神さまを信じていきたい。学校を卒業して道に迷うことがあった時、最後には必ず不二聖心で学んだ心に自分が帰ってこれるようにしたい。そう思った私は、高3の冬に、お聖堂で洗礼を受けました。あんなに神様の存在を信じられなかった自分が、まさか卒業間近になって、洗礼を受けるとは、今でも不思議に感じています。
みなさんは、お聖堂でどんなお祈りをしていますか。今振り返ると、私はあのお聖堂でいろんなことを感じ、祈りました。生徒のみなさん一人一人も、自分自身、友達、家族、進路、世界のことなど、あの聖堂でたくさんの祈りをしているでしょう。そして、聖堂では、自分だけでなく、みなさんの友達・先生・シスター・エンジェルさん・卒業生など多くの人が、時代を通して、あのお聖堂で祈っています。お聖堂には、たくさんの祈りで溢れていると思います。だからこそ、みなさんが、せっかくのお祈りの時間やミサの時間をなんとなくで過ごしてしまっていたらもったいないと感じています。お聖堂に入る前はおしゃべりをするよりも、沈黙になってみんなで心を落ち着かせ、穏やかな祈りの準備ができたら素敵だと思います。みなさんはいつか卒業を迎え、あの聖堂で最後の感謝の祈りをして巣立っていきます。その時に、心からの祈りが出来るよう、日々のお聖堂での祈りの時間を、仲間と共に大切な時間として過ごしてほしいと思います。これで宗教朝礼を終わります。
Y.S.(寄宿舎)