シスター・先生から(宗教朝礼)
2013.10.17
2013年10月16日放送の宗教朝礼より
おはようございます。これから宗教朝礼を始めます。
今、アンジェラスの鐘を聞きながら、皆さんは何をお祈りしましたか。不二聖心の学校生活には、お祈りの時間がたくさんあります。お祈りに始まりお祈りに終わるという体験はとても貴重だと思います。中でも私は、寄宿生の皆さんと過ごす夕の祈りの時間が好きです。一日の終わりに心を落ち着けてその日を振り返りながら、誰かのために祈る…それは友人や家族など身近な人のためであったり、戦争や貧困に苦しむ顔も名前も知らない人々のためであったりします。「祈る」とはどういうことなのか、私の祈りの体験を踏まえてお話ししたいと思います。
私のこれまでの人生の中で最も心に残っている「祈り」の体験は、大学の卒業を目前に控えた2年前の3月11日の出来事です。震災が起きたのは、私たちが翌日の卒業式の練習をしている最中でした。東京も震度5の強い地震が発生し、練習を行っていた大学のホール内は一時騒然となりました。初めは何が起こったのか理解できず、一歩も動くことができないという状況でした。幸い建物の損壊や怪我をした人もいませんでしたが、ほとんどの交通機関がストップしてしまい、静岡の実家から通学していた私は、友人たちとそのまま大学に留まることになりました。テレビのニュースで徐々に東北の様子が明らかになり、とても現実に起こっていることとは思えず、大きなショックを受けました。東京都内の交通機関も復旧のめどが立たず、大学で一晩過ごすことになりました。家族と連絡を取ろうにも電話が全く通じず、家族は無事なのか、いつ帰れるようになるのかという不安でいっぱいでした。そんな状況の中、友人や大学の教職員の方々の存在はとても心強かったです。教室が待機場所となり、職員の方々は私たち学生が一晩過ごすのに必要な生活用品や食事を用意してくださいました。大学の近くに住む友人は「何かあったら電話して。家に泊まっても構わないから」と声を掛けてくれました。しばらくして携帯電話に海外からの着信があり、留守番電話に「大丈夫ですか。ニュースを見て心配しています」と台湾の友人からのメッセージが残っていました。また、後で家族から聞いて知ったことですが、私が大学にいる間に留学でお世話になった台湾のホストファミリーからも私の安否を心配する電話があったそうです。翌朝には、修道院のシスター方が「学生の皆さんはお腹が空いているだろうから」と作りたてのおにぎりを持ってきてくださいました。そのときに味わったあたたかな味は、今でも忘れることができません。私はこのとき初めて誰かが自分のために祈ってくれているということを実感したように思います。当初の不安だった気持ちは、いつしか私たちの無事を祈り、支えてくださった方々への感謝の気持ち、さらには被害に遭われた方のための祈りへと変わっていました。
震災の後、世界中に祈りの心が広がったことは間違いないでしょう。被害に遭われた方々の救助にあたった自衛隊や消防隊の方々、被災地を訪れ復興支援にあたったボランティアの方々など、国内外を問わず、一刻も早い復興を願い、アクションを起こした方々がたくさんいました。その行動の源には「祈り」があったに違いありません。そして、震災から二年以上経った今でもその祈りは続いています。
キリスト教では、他者のために祈ることを自分のための祈りと区別して「とりなしの祈り」と言うそうです。「とりなし」を意味する英単語intercessionを英和辞書で調べると、「仲裁、仲介」という意味のほか、確かに「他人のための祈り」という説明が書かれています。また、神学者の尾山令仁牧師は、著書「ほんとうの祈り」の中で「隣人を愛することの具体的な業の一つがとりなしの祈りである」と述べています。不二聖心で学ぶ皆さんには、日々の生活の中で、自分だけではなく他人のために祈ること、同時にいつも誰かが自分のために祈ってくれているということを心に留め、過ごしてほしいと思います。
これで宗教朝礼を終わります。
A.T.(寄宿舎)