シスター・先生から(宗教朝礼)
2013.09.25
2013年9月25日放送の宗教朝礼より
おはようございます。宗教朝礼を始めます。
不二聖心の校内では至る所で御絵や御言葉に出会うことができます。ある日廊下を歩いていると、「明日のことは思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」という御言葉に出会いました。マタイによる福音 6章 34節です。ふと足を止めその御言葉を味わい、「よし、今日1日だけ頑張ろう」と不思議と力が湧いてきました。毎日、四六時中ではなく、今日1日だけ頑張ろうと思うととても気持ちが楽になりました。毎朝通る場所でもありますので、いつも今日だけ精一杯頑張ろうと自分を奮い立たせています。今、私の一番好きな掲示があるのは校長室前の掲示板です。素朴な聖家族の御像も大好きですが、9月の祈りの会にちなんだ御言葉が掲示されていて、ふとした瞬間に眺めたり、朝礼や終礼に向かうほんの一瞬も、その言葉に慰められたり励まされたりしています。
何と書いてあるか皆さんはすぐに思い出すことができるでしょうか。一つはコリントの信徒の手紙Ⅱ 12章9節です。「キリストの力がわたしのうち宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」という御言葉です。体調を崩した経験で、もっとも向き合ったのは自分の弱さでした。弱い自分はとても惨めでした。しかし、弱い自分だからこそ見えたものがありました。それは、周りの優しさでした。今まで当たり前だと思っていたことが、実はそうではなかったことが沢山ありました。お便りや励まし、沢山の助けを本当に嬉しく感じることが出来る様になりました。中1の祈りの会での神父様のお話の中に、ありがとうの反対の言葉は何でしょうという問いかけがありました。ありがとうの反対は当たり前です。その言葉を聞いた時、私は雷に打たれた様な衝撃を受けました。今までの自分の姿を言い当てられた様な気がしたからです。当たり前だった健康が当たり前でなくなった時、私は健康だったこと、回復したこと、病気を頂いたことにも「ありがとう」と初めて思えた気がします。
その隣にもう一つ「心にしみる聖書の言葉—大いなる父にいだかれて−」から、「無理につよがらなくていい 大切なのは弱い自分をありのままに受け入れること 力はキリストがだしてくださるから」という言葉が掲示されています。小さな子供が高いところから親の広げる腕の中に飛び込む様に、イエス様が共にいて下さることを信頼すれば、今日にも明日にも躊躇なく飛び込める気がします。宗教科の先生方がこちらに折々に相応しい掲示をして下さることにも心から「ありがとうございます」と申し上げたいと思います。
マタイによる福音 4章4節に「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」という御言葉があります。また、御言葉だけでなく、日常の会話やお便りの中での温かい一言が自分の支えになることがあります。ある方から頂いたお便りの中に「先生のお声の響かない音楽堂は寂しいです」と書いて下さったものがありました。私は自分に居場所を与えてくれたその言葉を時々思い出し、自分の活力にすると共に、その方の優しさにいつも新鮮な感動を覚えています。私の支えの一つとさせて頂いています。しかしたった一言が相手の心に大きな刺の様に、いつまでも人の心を痛めることだってあります。私にもかつて言われてとっても辛かった言葉があります。また私も相手をうっかり、また深く傷つけてしまったことがきっと多々あることと思います。一つの言葉には一つの心があり、大きな力をもっていることを常に心しておかなければなりません。そして許す気持ちも養っていきたいとも思います。誰しも失敗しながら成長する仲間同士です。許すから許されると祈る聖フランシスコにも倣いたいと思います。
私が大好きな御言葉がいくつかありますが、中でもとても力強いものを紹介します。「どの御言葉が好きですか」と尋ねられ、この箇所を挙げると、大抵「え〜」と驚かれてしまいますが、あえて紹介させて頂きます。どうぞ驚かないで聞いて下さい。ヘブライ人への手紙12章 6節です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても 力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
辛いとい字に主の十字架を付けると「幸い」という字になると昔あるシスターに教わりました。辛いという漢字の上に小さな十字架を書き足してみて下さい。「幸い」という漢字になりましたよね。
私達の頭の上にもいつも主の十字架を付けて、辛い時も幸いな者として生きていくことができますように。
これで宗教朝礼を終わります。
K.N.(音楽科)