シスター・先生から(宗教朝礼)

2013.09.18

2013年9月18日放送の宗教朝礼より

 おはようございます。これから宗教朝礼をはじめます。

 先週の祈りの会はいかがでしたか。各学年、それぞれの場所で静かに、心穏やかに祈り、自分自身や周りのことと向き合い、考えを深めることができたと思います。

みなさんにとって、祈りの会は自分自身が成長できる場所だと思いますが、教員である私にとっても成長の場所です。祈りの会を終えるごとに、今回はこんなことを考えることができた、学ぶことができた、としみじみと思うことができるのです。なので、私は祈りの会を毎年心待ちにしています。

 私が不二聖心に来た最初の年の、最初の祈りの会は、ただただ「祈りの会って何だろう」でした。中学一年生の皆さんはもしかしたら今年こんな気持ちだったかもしれませんね。事前には、二日間授業を行わないで神父様やシスターのお話をうかがい、祈り考える会だ、と聞きましたが、今までそのような経験がなかった私にとっては、二日間もの長い間、お話を聞いて考えて…というのはどのようなものになるのか想像もつきませんでした。

その年は、ちょうど9.11、アメリカで起こった同時多発テロの次の日からが祈りの会でした。情報もあまり入らない丹沢学舎で、中3の方々も不安そうではありました。しかし、私が驚いたのは、グループごとの発表でした。神父様のお話をふまえ考えた内容であるのはもちろん、その中にどのグループもテロの内容を入れていたのです。興味本位ではなく、偏った考えでもなく、このような悲劇が起こってしまった悲しみと、世界の融和を模造紙いっぱいに表していました。

 毎回、どの学年でもこのグループごとの発表というものはあると思いますが、毎年、私は感心・感動してそれを見ています。「お話をうかがって、考えたこと、学んだことを表しましょう」……たったこれだけで、模造紙や劇や歌に自分たちの考えを適切に、効果的に表現することができるのです。私がみなさんと同じ歳だったときに、果たしてそんなことができたかと考えると……できなかったと思います。そもそも、そうやって表すにはまず一人一人それぞれが自分の考えをきちんともっていなければなりません。それを持ち寄って、お互いにその考えを尊重しながらひとつのものに表していくのです。これはとても高い能力だと思います。その力を持っている不二の生徒はすばらしいと感じますし、ぜひ、将来の自信にしていってほしいと思います。

 祈りの会初心者の私がふたつめに学んだことは「ひとりになる」ということです。祈りの会では必ず、お話をうかがった後に「ふりかえり」の時間がありますね。私は実は昔、「ひとりになる」ということができない子供でした。勉強や読書の時間、編み物をしたり趣味に夢中になる時間…そういう、何か「物」が与えられている時間はそれに没頭できますが、手にする「物」がなく「ひとりでじっくり考えなさい」などという時間は苦手だったように思います。そういう機会が与えられることもほとんどなかったですし、たまにあっても居心地が悪く、全く関係のないことを空想して楽しんだり、周囲に友人がいれば何か話したくておどけてみたり、そんな子供でした。だから、中学・高校生くらいのみなさんが、自然にひとりになり、お話の内容を真剣にノートにまとめたり、みんなから離れたところで心静かに物思いにふけっていたりする姿を本当に素晴らしいと感じます。「ひとりになる」時間は、ついおしゃべりしてしまったり遊んでしまったりする自分に克ち、自分自身としっかり向き合う時間です。高校生になると、自分に克つなどと思わなくてもすっとこの時間に入ることができるようになってくるでしょう。そして、そうすることが、お互いに、お互いの時間を尊重することにつながります。自分自身と向き合いながら、そこにいない他者のことに思いをはせることができるのです。何年もの祈りの会を越えて、「ひとりになる」というのはどういうことなのか、毎年毎年祈りの会の度に私の考えは上書きされていきます。みなさんはこの「ひとりになる」時間をどのように考えていますか。みなさんの思いも機会があれば聞いてみたいです。

 毎年毎年祈りの会の度に上書きされていく、と言いましたが、本当に、祈りの会の度に、今まで思っていたことが深まったり、全く新しい考えに行き着いたり、ひとつのことに対しても別の見方に気が付いたり、心からこの時間を過ごせてよかったと思えます。今年私は高校1年生の担任として、鈴木真神父様のお話をうかがいました。祈りの会で真神父様のお話をうかがうのは3度目です。もちろんお話の内容は全く同じというわけではないのですが、重なっている部分もあります。しかし、毎回新しい気持ちで、新しいお話をうかがっているように感じるのはなぜでしょう。真神父様にそれをお話したところ、「それはそのときの自分の心の状態でしょう」とおっしゃいました。同じ話を聞いても、そのときの自分の心の様子によって、感じ方も違うし、心をひかれる場所も違うと神父様はおっしゃいました。そのときの自分にいちばん必要なこと、欲していることに心がヒットするのです。真神父様のお話の中に、「神さまに祈ったことがいつのまにか叶っていることがある」という言葉がありました。たとえ願ったままの形でなくても、必ず自分にとってなんらかの助けになっていることがある、と。聖書の言葉や神父様の言葉はまさにそれを伝えてくれていると思います。「そのときの自分に、そしてそれを欲していた過去の自分に、神さまは答えをきちんとくださるのだ。」そんな風に私は思いました。「祈り」とは行為そのものではなく、「神さまに心が向いている状態のこと」だと神父様は教えてくださいました。形ではなく、いつもいつも自然に神さまに心が向いている状態で、神さまがくださる助けを素直に受け入れられるようにいたいと心から思い、ノートの今年のページに書き留めました。

 皆さんも祈りの会ノートを持っていますが、私も実は持っています。今までお話をうかがう中で心に残ったことを書き留めているのですが、見返してみると、あのときはこんなことを考えていたんだなぁとしみじみ振り返ることができます。祈りの会ノート、そしてみなさんが今から書く宗教朝礼ノート、さまざまな振り返りの用紙も、すべてみなさんの財産です。どうかずっと大切にして、自分の成長の足跡にしてください。

これで宗教朝礼を終わります。

M.S.(国語科)