シスター・先生から(宗教朝礼)

2013.09.11

2013年9月11日放送の宗教朝礼より

 今日はアメリカ同時多発テロから12年目、平和を祈りながら宗教朝礼をはじめます。

先日,フランシスコ教皇様は世界中に,「9月7日はシリアと全世界の平和のために『祈りと断食の日』を行うように」と呼びかけられました。 私はその呼びかけに応え,当日食事の一部を我慢し,SOFISワークショップでこれまで二つの被災地を訪ねたことと,今年90周年を迎えた関東大震災、そのとき虐殺さ れた朝鮮人のための慰霊行事に参加したことを思い出しながら平和について考えました。

関東大震災の当時、日本の植民地だった朝鮮半島から多くの人が日本に来て震災に遭いました。正午近くに起こった大きな地震であること,台風が近づいていて風が強かったことなどから,地震や津波以外に大きな火災が二次災害として起こりたくさんの死者が出ました。この火災は現代人の私たちとしては原因が分かりますが,当時は朝鮮人の放火のせいだというデマが起こり,人々は不安と疑いの気持ちを強くしました。朝鮮人というだけで捕らえられ,東京,横浜,埼玉県などのあちこちでたくさんの方が殺されてしまったそうです。

この虐殺事件について,カトリックのさいたま教区,東京教区,横浜教区が合同で毎年震災のあった時期に慰霊行事を行っています。私は昨年のさいたまで行われたときから参加していますが,今年は東京の両国にある復興記念館を訪れ,また虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する「ほうせんか」という団体の方のお話をうかがいました。復興記念館のある横網町公園は被服廠跡といって火災の被害の最も大きかった場所です。歴史の授業だけでは聴き得なかった震災の被害の大きさ,朝鮮人が火をつけたとか井戸に毒を入れたとかいうデマで民衆が不安に陥ったこと,罪がないとあきらかに分かっている多くの朝鮮人が連行され無惨な状態で殺されてしまい,それを多くの日本人、小さな子どもまでが見ていたことなどを知り、昨年以上のショックを感じました。ちょうど2年半前に起きた東日 本大震災では,日本人の助け合いの様子が海外から評価されているということがよく報道されていましたが,90年前に残虐なことをしたのは同じ日本人なのだ ろうかと目を背けたくなる歴史と向き合うことになりました。

私は2年前の夏にSOFISの活動で神戸を訪ねました。ベトナム人や韓国人をはじめ,さまざまな外国人が多く住んでいる地域にあるカトリックたかとり教会 です。1995年の阪神大震災のときに日本人・外国人を含めその地域に住む人々の生活を助ける救援基地となった場所です。たかとり教会ではいくつかの NPOやNGOの団体が集まり,震災から20年近く経つ今も,多文化共生の町づくりを目指して活動を続けています。その中にFMわいわいという外国籍の人々を含めた地域住民に多言語で情報を発信しているFM放送局があります。

阪神・淡路大震災が起きたとき,その地域に住む在日韓国・朝鮮人の人々は,1923年に起きた関東大震災で多くの朝鮮人が虐殺された話を思い出し,神戸で 起きたその地震で再びそのようなことが起こらなければと大きな不安がよぎったそうです。21世紀の今でこそ「多文化共生」や「市民による支援・ボランティ ア」が当たり前になっていますが,1995年にはまだその概念や活動は一般市民には浸透していませんでした。震災を機会にスタートしたようなものです。そ のような阪神・淡路大震災のとき,避難所にいる在日韓国朝鮮人の方々が感じている不安を解消するために,安否確認や適切な情報,正しく判断することの大切 さを優先し、在日韓国朝鮮人の方々だけでなく、同じ地域に住むあらゆる人々のために多言語の放送局がはじめられました。

適切な情報,正しい判断の大切さは,今年生徒と訪ねた東北の被災地で,福島県の南相馬市,つまり福島第一原発の近くで学習塾を経営されている先生からも  うかがったキーワードでした。原子力発電所事故で,放射能漏れの情報が正しく報道されず,いつどのように避難すべきか,福島の人々はみな正しい情報が欲し いと強く願ったそうです。原発事故のことさえ知らされず津波から逃げられればと思い,放射線量が高い地域に避難した人も多かったと聞きました。

私はそれらのことを思いだし,SOFISで訪ねた二つの被災地と,教会の人たちと訪ねた関東大震災の跡地,3つの震災のつながりを感じました。地震・津 波・火災などの災害も大きな悲しみですが、人災によって人の命が奪われたり、適切な情報が発せられないために安心した生活が脅かされたりする惨事が繰り返 されます。震災や戦争を経験し、日本人は学んだことも多かったと思いますが、本当に大切なことが忘れられているように思えてなりません。

シリアと世界の平和のために世界中が祈った9月7日、晩の祈りのつどいで教皇様はおっしゃいました。「悲しみと死のスパイラルから抜け出すことができるのでしょうか。再び平和の中を歩き、生きることができるのでしょうか。私は『できる。誰にでもそれができる』と答えます。一瞬でもいいから、十字架を見上げ て下さい。そこに神のこたえがあります。」

私たちにとって見上げるべき十字架とは何でしょうか。すべての人々の罪のために十字架にかかったイエス様の足元にも及びませんが,私たちの十字架は、神様 から与えられた使命を平和のために果たすことだと私は思います。人の悲しみや不安に寄り添い,命が優先される社会や人間関係を築くことができるように小さ なことでも行動する。私たち一人ひとりが意識し努力し、そして祈りの心で使命を果たしていくべきでしょう。 

  さて明日からの祈りの会,学年で与えられるテーマはさまざまだと思いますが,自分に与えられたことを一生懸命考え,祈ってください。私も皆さんのためにお祈りしております。

これで宗教朝礼を終わります。

K.S.(理科)