シスター・先生から(宗教朝礼)

2013.05.22

2013年5月22日放送の宗教朝礼より

 これから宗教朝礼をはじめます。

私は、7年前に不二聖心を卒業し、そして、不二聖心で働くご縁を頂きました。自分なりに感じる不二聖心の変わらない良さがあり ます。みなさんにとっても、それぞれに感じる良さがあると思います。私が不二聖心で働き始めた時、「全く変わっていないな!」と、驚いたことがありまし た。それは、寄宿でキッチンの方が作って下さるお食事の味でした。懐かしいメニューとその変わらない美味しい味に、安心感を覚えました。

私にとって、不二聖心の食事の中で心に残っていることがあります。

私は、食事のメ ニューの中でも、ししゃもの竜田揚げが大好きです。ししゃもの頭と足のカリカリした部分も好きですが、特にししゃものお腹の部分の柔らかさが好きで、白い ご飯との相性は抜群に良いと感じます。高1の時、お昼のメニューのししゃもを食べている時に、ししゃもの中からたくさんの卵を見つけました。それまで好き な気持ちで食べていたものに対し、たくさんの命を食べているという実感が起こった瞬間でした。そして、ある光景を見たとき、その実感が罪悪感へと変化して いきました。30匹近いししゃもが残り物となってカウンターのお椀の中にあったのです。シシャモの卵の数は、一匹あたり、6千から一万2千個もあるそうで す。一匹あたり6千個の卵と考えても、そこには約18万の卵が無駄にされていることになります。私はたくさん横たわるししゃもの顔が悲しそうに見えまし た。しかし、魚の形をしたししゃもを見たから、私は、命を犠牲にしていることに気付いたのです。それまで、毎日お昼の残り物がカウンターに並べられていた のに、罪悪感を抱いたことがありませんでした。サラダや肉料理も、はっきりとした命の形がないだけで、多くの野菜の命、動物の命を犠牲にしているのです。 それまで寄宿の食事をしてきて、食事が残されていることに慣れてしまい、たくさんの命を犠牲にしている状況を意識できてなかったのでした。

宮沢賢治の本に出会った時、罪悪感を越えた新しい見方を教えてもらいました。賢治の作品の「銀河鉄道の夜」の中で、サソリの火という話があります。この話を少しご紹介したいと思います。

昔、野原に一匹の サソリがいました。ある日、サソリは、イタチに食べられそうになりました。サソリは一生懸命逃げましたが、とうとうイタチにつかまりそうになり、目の前に あった井戸にサソリは落ちてしまいました。その時、サソリは祈りました。ああ、わたしは今までたくさんの命をとってきた。そして、自分の命がイタチにとら れようとした時は、逃げてしまった。どうして私は私の身体をだまってイタチにあげてやらなかったのだろう。そしたらイタチも一日生き延びただろうに。どう か神様。この次は、まことのみんなの幸せのために、私のからだをおつかい下さい。とサソリは祈り、死にました。この後、サソリの身体が赤く燃え上がり、 真っ赤な火となり、夜空の闇を照らすさそり座になったそうです。

こ の話を読んだ時、サソリのように、生き物の命に対する心こそが大事なのだと教えられました。私たちは生きていく限り、多くの命を奪わずに食事をすることは 出来ません。しかし、多くの命を頂いていることへの感謝を持つこと、生かされている命を、誰か人のために生きようとすることはできます。そして、命だけで なく、多くの人々の手によって私たちは食べることが出来るということも、常に忘れてはならないことでしょう。植物・動物を育てる人、お店まで運ぶ人、お店 で売ってくれる人、料理を作ってくれる人などなど、私たちの口に食べ物が運ばれるまで、多くの人によって支えられているのです。罪悪感を持つこと以上に、 私たちは感謝の気持ちを持って食事に向き合い、自分の命を人のために生かしていくことが大切なのではないでしょうか。食べ物を粗末にしたり、残したりする のではなく、頂く命に感謝したいです。そして、食事をする前の「いただきます。」「ごちそうさまでした。」「食前・食後の祈り」、ここに感謝の気持ちをた くさん込めていきたいと、私は感じています。

これで宗教朝礼を終わります。

 Y.S.(寄宿舎)