シスター・先生から(宗教朝礼)
2012.11.28
2012年11月28日放送の宗教朝礼より
今から宗教朝礼を始めます。
11月は死者の月、そして、今日11月28日は、同居していた夫の父の命日でもあります。父は、男ばかり2人の息子しかいない長男の所に嫁いだ私に、とっても良くしてくれました。そして、孫である私たちの子供を、母もあきれるほど、宝物のように大切に面倒を見てくれていました。14年前、父は75歳で突然亡くなりました。父の亡くなる日の朝、東京出張の私を最寄り駅まで、孫を乗せた自家用車で送ってくれ、夜帰ったときには帰らぬ人となっていました。
父は、10代のとき、国策である満蒙開拓少年義勇隊として満州に渡り、獣医師になるための勉 強をしていたそうです。しかしその後、旧ソ連との戦いのため学徒動員されました。終戦後、シベリアに抑留され何人もの仲間が死んで行くのを見ていたであろ うと想像されます。生きて帰ってきた仲間に、愛知県の犬山動物病院を開業した人や、作曲家の吉田正ただしもいたようです。生前は、仲間との交流を大切にしていました。シベリア抑留の時の過酷な生活で心臓を悪くしていたのでは、ということです。以上、夫から聞きました。相当な体験をしてきたのであろう、父から戦争の話を聞くことも聞く雰囲気もなく、死に別れてしまったと夫は話してくれました。
しかし、孫娘にはいろいろな話をしていたようです。幼稚園に通うときも父が、「おれがおくっていく。」と、片道1㎞の道のりを手をつないでおしゃべりしながら通っていたようです。
亡くなる前日も幼稚園のもちつき大会で、きねを振って、孫娘のために幼稚園のために、協力していました。
結婚して間もないころ、父の左手の中指が第1関節からなくなっていることを夫に聞きました。「若いころバイト先の肉屋で怪我したんじゃないか?」
とのことでした。しかし、父の死後、そんな話が出たとき娘が「違うよ。おじいちゃんいってたもん。戦争のとき、けがしたんだって。」母も夫も初めて聞く話でした。鉄砲が暴発したのか、抑留中の厳しい寒さのための凍傷が原因なのか、今となっては真相は誰もわかりません。
また、こんなこともありました。心臓が弱くて煙草なんて絶対いけないはずなのに息子が、「おじいちゃんと幼稚園に行くとき、ときどき吸ってたよ。」それを聞いた母、あの世の父に怒っていました。
獣医師を目指していた父です。動物のお話を娘によくしていたようです。テレビを見ていても、
動物の話題によく反応していました。「そのこと知ってる。おじいちゃんに教わったもん。」「おじいちゃんに自転車の乗り方も教わったよ。お兄ちゃんはいつの間にか乗れたけど、私は、おじいちゃんのおかげで乗れるようになったよ。」
思い出話は尽きません。
よく父に私たち夫婦は言われました。「おまえらは、この子たちに親にしてもらってるんだぞ。一緒に成長していけ。」
私から見た父は、生きとし生けるすべての物に優しい人でした。そして、人を傷つけることや
間違ったことにはとっても厳しい人でした。
娘が大学に進学したとき「おじいちゃんが生きていたら、私の人生は違っていたかも」と言っていました。その時、それ以上聞くことも語ることも、何だかいけないような気がしました。
父の遺影は、亡くなる2週間前に娘の七つのお祝に一緒に撮った写真にしました。母が、「こんなに優しい顔をしている写真はない。」と言っていました。
あれから14年、成人式を迎える娘の晴れ姿を、きっと目を細めて父は見てくれると思います。
お父さん、私たちは、親に成長しましたか。
これで宗教朝礼を終わります。
K.O.(理科)