シスター・先生から(宗教朝礼)
2012.09.12
2012年9月12日放送の宗教朝礼より
イ ンドネシアのバリ島に行った時のことです、朝、寺院の前でヤシの葉で編んだ入れ物の中に花や果物を入れたものを、ささげる姿を見ました。なんでも神々への 捧げものだということです。私はヒンズー教の教えはわかりませんが。そうした人々の姿を見た時、ふと懐かしさを感じました。朝に今日一日の幸せを祈り、夕 に一日の幸せを感謝する、その姿は私達日本人が日の出に祈り、夕陽に感謝する姿と似かよってはいないでしょうか。
その祈りは自然な気持ちの表れであり、無私の心より生まれるもののように思います。
全 ての、生きとし、生けるものたとえば人間もその一部でしかない大自然、大宇宙の中でそれぞれ縁あって結びつき、お互いをより良い方向に生かしていこうとす る気持ちが、そうした祈りの姿になるのだと思います。また、本来的に「祈り」とはそういうものであるはずだと私は思います。しかし、よく考えてみると、 「幸せを祈る」ということは結局、自分のため、自分の欲を満たしたいということではないか、それがどうして、大宇宙をより良い方向へ持っていくことになる のかという、疑問がわいてくるという人がいるでしょう。確かに「今日の試験がうまくいくように」と願うことも祈りになるでしょう。そうした時、たとえば、 田畑を耕し種をまき水をやり汗水たらして働いている人たちが毎日どんな気持ちで祈るかを考えてみましょう。「早く大きくなりますように」「大きくなってた くさん収穫がありますように」そう祈る気持ちの中に自分のためにという気持ちも当然あるでしょうが、それ以上に大事に育てている物に対する愛情が強く感じ られます。彼らは自分が育てているものが自分を生かしてくれるということを無意識に感じているのです。そして、もう一つ忘れてはならないことは、彼らがた だ祈っているだけでなく、大変な努力を同時に行っているということです。裏返していえば汗水たらした努力があるからこそ、その祈りはより真剣に、そして、 心の奥底から自然にわき出てくるのです。皆さんが「今日の試験がうまくいくように」と祈るときどんな努力の裏付けがあるでしょうか。そしてそうした自分を 愛しいと思っているでしょうか。いつどこでも「誠実な努力と」「愛」に支えられた無心の祈りこそがこの世界をより良い方向に導いてくれると私は信じていま す。明日からの祈りの会で「この無心の祈り」を経験してください。
T.H.(数学科)