シスター・先生から(宗教朝礼)

2012.06.27

2012年6月27日放送の宗教朝礼より

 皆さんは聖堂の真ん中にある十字架像を何時もどんな思いで見ていますか?

明日はみこころの祝日です。明日のごミサで読まれる福音は

ヨハネによる福音書の19章31節から37節です。

その個所を読んでみます。

ヨハネによる福音書

  その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を負って取り降ろすように、 ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男ともう一人の男の足を折った。イエスの所に来てみると、既に死んで おられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。するとすぐに血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証しており、 その証は真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つ も砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。

また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」ともかいてある。(ヨハネ19:31~37)

正 しく聖堂の真ん中にある十字架のイエス様のお姿です。2000年近くの間、多くのカトリック教会の聖堂の真ん中に据えられているイエス様のお姿です。私た ちは3月の終わりに復活祭を祝いました。十字架の上で亡くなられて終わったのではない、復活されたという事を信じています。なのになぜ一番むごたらしいお 姿を聖堂の真ん中に置いているのでしょうか?・・・

3 月に私は岩手県山田町と大槌町へ行く機会がありました。雪がうすらと積ってはいましたが、どちらを向いてもただただ家の礎石ばかりが延々と続き、ところど ころに鉄筋コンクリートの建物だけが立っていました。だんだん目が慣れてくると赤い布の付いた棒があちこちに立てられており、多くの家の玄関のあたりにブ ロックが置いてあり、お花が供えてあるのだろうということにも気付きました。町の方から説明を聞き鉄筋コンクリートの建物の3階部分にまで津波が押し寄せ たこと。赤い布は確かにそこでご遺体が見つかったしるしだということが分かりました。テレビで何度も津波が押し寄せた光景をみた、その場にいるのだ、何百 人もの方がここで亡くなったのだとの実感と共に目がうるんでくるのを抑えることができなくなっている自分を感じていました。なぜ、多くの人々が急になくな ることになったのか?・・・阪神淡路大震災の時も、そして3.11のあと世界各地で地震、台風、竜巻、武力紛争と聞くたびに、いや子供のころから色々な不 可解な事件を聞くたびに、私の心に上がってくる言葉です。大学生の時に恥ずかしいと思いながら、どうしてこんなに不合理なことが起こるのでしょうと、尊敬 していた神父様に伺ったことがあります。その神父様は「旧約聖書の中にあるヨブ記を読んでみなさい」とだけ答えてくださいました。65ページほどのお話の 中に義人で富にも子供にも恵まれたヨブという人の人生が描かれていました。そのヨブが財産を全て失い、7人の子供に先立たれるという中にあって

「わたしは裸で母の胎をでた。

 裸でそこへ帰ろう。

 主は与え、主は奪う。

  主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とありました。私はこの話を読んで、神様は誰にも本当 に公平なのだと思いました。ヨブのように謙遜に忠実に生涯を生きたいと祈りました。今も時折ヨブ記を読み返しています。しかし、私の中の「なぜ?」という 思いは残っていました。3月岩手へいって以来「神様、私は頭では良く理解しています。しかし、心はなぜという思いが消えません。」と祈ってきました。神様 の沈黙は私に「自分の分際をわきまえよ!地面を這っている蟻や、ゴキブリと変わらないとでもおっしゃりたいのですか?」と時には神様に食いついていまし た。自然現象だから、自然災害だから、たまたまそこに居合わせたから、・・・しょうがないのでしょうか? そういうものなのだから!・・・と流すしかない のでしょうか?と、問うていました。

先 日、聖堂で祈っている時、34年前に修練長の講話の中に聞いた「兵士が十字架のイエス様の脇腹を槍で刺した。血と水とが流れ出た。その時教会が誕生したの です。」という不思議な言葉が上って来ました。その時教会が誕生したのです。光り輝く復活の信仰と共に最も惨たらしい十字架の姿を教会は2000年間その 中心に置いて来ました。その時、その意味がわたしの中で氷がとけるように腑に落ちた気がしました。十字架の姿は人類に対する神様の愛のあかしです。人類を 救うために御子があのような姿にまでなってくださった。・・・「友の為に命を与える程、大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とヨハネの福音書の中でイエ ス様はおっしゃています。又、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大司祭となって、民の罪を償うために、 すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお 出来になるのです。」(ヘブライ人への手紙2:17~18)と書いています。苦しんでいる時共にいて下さる神様なのです。明日、聖堂に座って今のあなたに 必要な恵みを願って下さい。人生で一番辛い時、共にいて下さいと、祈っておくのも良いと思います。そして明日の一日をイエス様のみこころの思いを心にとめ て過ごしてください。神様の思いがイエス様のみこころの思いが皆様の内で実現しますように祈っています。   M.A.(寄宿舎)