シスター・先生から(宗教朝礼)

2012.06.20

2012年6月20日放送の宗教朝礼より

 私は助産婦学生の時に聖書を学ぶ機会を得、社会人2年目頃に洗礼を受けました。
今日は、ここに至るまでの経過や出来事を交えてお話を進めていきたいと思います。
はじめに、私の学生の頃は『助産師』のことをまだ『助産婦』と呼んでいた時代でした。そのとき助産婦学校を選ぶとき、教養課程の科目に宗教学・人間学を取 り入れている学校があることを知り、結果的にカトリック系の学校を選ぶことになりました。その教科になにか心が引かれたからです。
入学して、この授業には上智大学から講師が招かれていて、宗教学はイエズス会の司祭が、人間学は同大学でも生徒の講義を受け持ち、また他に結婚講座やカト リック入門講座などで神父様方と共に活動していらした女性の先生方がそれぞれ担当してくださっていました。この御縁で、私は暫くしてからクラスの友人に誘 われたこともあり、遊び半分の気持ちで大学の校内にあった『かつらぎ会』というところでカトリック入門講座に通うことになりました。当時クラスは4~5ク ラス程度あったと思います。私は人間学を教えていただいた先生のクラスに入りました。
ある日の講話で心に響いたお話があり、そのメモを残してあったのでご紹介してみます。

「クリスチャンは 素直・清い・暖かい というイメージがもたれる。

喜怒哀楽を 共に 自由に 素直に 表現してあたりまえ
人間豊かに生きる
無邪気に 素直に生きる。

自分をほったらかし何かをする。 これは偽善。

人は人 我は我(あなたはあなた 私は私)
だからどんな人とも仲良くしよう。

本当のクリスチャンはどこへ行っても好かれる。
品行方正でないから。
自分の弱さを認めているから。

ケンカもする。
しかし、本当に大切なところでは愛する。
家族のような暖かさがある。
隣人にも目がいく。
『神様ありがとう』と言うと、どんどん幸せが大きくなる。
それは
おとうさん、おかあさんに懐く子はやはり愛されることと似ている。

クリスチャンとは
自分を愛し、つまり自分を大事にし神に感謝をしている人。
無邪気な人
失敗もする人
時にはホームランも打つ楽しい人
親しみのある人。」

以上がメモをとった内容のものでした。
神の愛の中で生きるとは、
・人間味豊かに生きる人
・まずは自分の生活を整えることが基本的に大切なこと。これをほうり出して何かをするのは偽善であること。また家庭を持った人であれば、家庭生活をいいかんげんにし、あるいは子どもの養育を疎かにして奉仕活動に出歩くとか、興味に興じるのは本物の善行でも何でもないこと。
・一人ひとりには人格があり、人間尊重の基本部分であること。
・品行方正でないから好かれるとは、自由勝手、我がまま放題ということとは全く違い、神の目を意識した姿勢・行動をとれること
・自分の欠点・自分の弱さを恥じるのではなく認めていること
・欠点を直そうと躍起になるよりも、自分の良さをのびのびと伸ばすことの方が、より自分を成長させ、自分らしくなれること
・ホームランも打つし、失敗もする 心の余裕の持てる人
    ・・・
このように日常生活の心得のようなことを楽しく語ってくださいました。

ここで少しだけ、高校時代の時に触れてみますが、実のところ高校生の頃の自分は、欠点を大きく問題視し、悲観的でした。どちらかというと、修行を積んで悟りを開いていくという輪廻転生を説く仏教などに心が引かれていました。しかし、これは少し方向を間違えると、
「自分はこれだけの修行を積んだのだから こうなったのだ」とか
「こんなに頑張ってやったのに、なぜまだこうなのか」とか
何か駆け引きのような心、高慢心、打算的な心が芽生えがちであり、また逆にひどく落ち込んだり、視野が狭くなったりという危険性をはらんでいることを知 り、何かしっくりきていませんでした。なぜか、息苦しくて、毎日が重くて、逆に自信が持てず、悩める自分でした。ところが助産婦時代に移り、聖書の話、特 に今日、ご紹介した話と出会ったときは、
「アラッ?弱さを認めていいの?喜怒哀楽を自由に表現していいの?」
「エッ?失敗していいの?これでいいの?」と本当に今思えば笑ってしまう驚きですが、このときはまじめに驚くことが続いたのです。これまでの自分の思いとは正反対的なものに出会ったときでもありました。
そして、遂に「これだ!」とピンときた時、私を覆っていた何か固いものが、バラバラッと崩れ去った気がして、その後は呼吸がなぜか楽に感じ、心がホッと安 心したのです。狭さや息苦しさから解放されることに繋がった出会いをしたのでした。このあと私はいつしか洗礼の準備に入っていて、最初に話したように、社 会人2年目の頃のクリスマスに洗礼を受けていました。
洗礼の代母様は、人間学の講義をきっかけに出会い、その後ずっと関わってくださった先生でした。ちなみに代母様の洗礼名は、聖心会創立者の『マグダレナ・ソフィア・バラ』でした。周囲からはバラ子先生と呼ばれ、親しまれていらっしゃいましたが、5年前に他界されました。
今も生活の中では、種々な問題と遭遇します。このメモをした話を時折読み返すことは、神の子として、あるいは人としての心のありようの原点に立ち返ることができる、心の栄養源になっています。
最後に、日々過ごすなかで、失敗したり、時にはカーンといい当たりのホームランを打ってみたり、泣いたり、笑ったりと互いに人間味豊かに生活を送り、今日 ご紹介したお話がヒントとなって、一人ひとりの心の平安を得る鍵は、自分の心の中のごく近いところにある、ということに気づくことができれば幸いと思いま す。

これで宗教朝礼を終わります。    S.K.(寄宿舎)