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<title>シスター・先生から(宗教朝礼)</title>
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<description>シスター・先生から(宗教朝礼)</description>
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<title>2026年2月18日</title>
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<description>&#160;今日は灰の水曜日、四旬節が始まります。 高校1年生が宗教の授業の中で四旬節のエコカレンダーを作成しました。（画像をクリックしていただけますとカレンダーのファイルが開きます。） このカレンダーの言葉とともに復活祭までの歩みをご一緒にしていただければ幸いです。 </description>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177134291423913700" class="cms-content-parts-sin177134291423923800"><p>&#160;今日は灰の水曜日、四旬節が始まります。<br /> 高校1年生が宗教の授業の中で四旬節のエコカレンダーを作成しました。<br />（画像をクリックしていただけますとカレンダーのファイルが開きます。）<br /> このカレンダーの言葉とともに復活祭までの歩みをご一緒にしていただければ幸いです。<br /> <a href="/files/PDFpublic/2025/files2026021800411823.pdf" target="_blank" rel="otherurl"><img src="https://fujiseishin-jh.ed.jp/images/teachersmessage/images2026021800474036.jpg" width="347" height="240" alt="" /></a></p></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96101/">
<title>2026年2月11日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96101/</link>
<description>&#160;私はこの冬休み、娘と一緒に映画「ズートピア２」を観ました。２の鑑賞前に前作の「ズートピア」も初めて観たのですが、これほどの名作を10年も放置していたなんて、自分でも勿体無いことをしたと、今さらながら後悔しました。

ズートピアとは物語の舞台となる都市の名前です。動物園「ズー」と理想郷「ユートピア」を組み合わせた名前の通り、かつては敵対していた肉食動物と草食動物が、種族の違いを超えて共に暮らす巨大都市です。ズートピアでは「誰でも何にでもなれる」という輝かしい理想が掲げられ、様々な動物たちが共に暮らし、自由で平等な多文化共生社会　が実現している、ように見えます。けれど、実際には様々な問題を抱えており、そしてそれらは、私たち人間社会が抱える課題と鏡合わせのように対応しています。

例えば主人公のウサギのジュディは、警察官になりたい、と小さい頃に宣言しますが、友達からは馬鹿にされ、両親からもこれまで警察官になったウサギはいない、とたしなめられます。警察学校に入った後も苦労は続きます。様々なトレーニングのあり方、トイレや会議場など警察学校の設備や制度そのものが、大型動物向けに設計され、小動物にとって適切ではないものでした。私たちの社会でも、職業選択の自由、ジェンダー平等などが謳われつつも、現実には政治や経営、社会生活の場が、特定の属性を持つ人々にとって有利な設計となり、その設計に合わない人たちを排除していることがあります。

ズートピアで肉食動物が皆優遇されているわけでもありません。もう一人の主人公、キツネのニックも、周囲からはキツネだというだけで「ずる賢い」「嘘つき」「詐欺師」というレッテルを貼られ、幼い頃には自身の夢を諦めた経験がありました。ズートピアの理想の裏側には根深い偏見、そしてそこから生まれる差別がありました。偏見を嫌い、正義感あふれるジュディですら、キツネのニックに初めて話しかける際、無意識に「キツネよけスプレー」に手を伸ばしてしまう場面が描かれていました。

「多文化共生」という言葉は耳に心地よいものですが、そう簡単に実現できるものではないようです。自分と異なる価値観、文化、習慣を持つ「他者」と隣り合わせで生きることは、時に摩擦を生み、苛立ちや疲れを引き起こします。私たちが無意識にもつ偏見から逃れるためには、どうしたら良いのでしょうか。

北九州市で30年以上にわたりホームレス支援や困窮者保護に力を尽くし続けている、NPO法人「抱樸（ほうぼく）」の理事長で牧師である奥田知志（おくだともし）さん、という方がいらっしゃいます。この方がある対談で、次のように語っていました。

時々、私が（ホームレスの方に）「いや苦労されましたね。わかりますよ。本当にしんどかったね」って言った瞬間に、「おまえに俺の何がわかるんだ」ってぼろくそに怒られることがあるんですよ。やっぱり人間って簡単にわかってもらっちゃ困るんです。人間の尊厳というのは、厳しいものですよね。尊く厳しいのが尊厳です。他者である限りは乗り越えられない壁がある。絶対的な他者性みたいなものの前で、しかし、「おまえのことなんかわかるか」で終わらせるんじゃなくて、それでもそのおじさんの話を聞こうとする。共感も大事だけど、共感が不可能だっていうことにまず共感しないと始まらない。「共感不可能性の共感」なんて言い方をしてきましたが、ここを無視して一足跳びに共感を目指しちゃうと、一足跳びに答えを探している世界と変わらない。それは当事者に対して失礼な話になる。

皆さんの不二聖心での生活も、一つの小さな「ズートピア」かもしれません。皆さんは授業や奉仕活動、友人との関わりを通して、自分とは異なる「他者」と出会ってきましたし、これからも出会っていきます。その際、相手を自分の物差しでカテゴライズし、分かったつもりになる誘惑に駆られることもあるでしょう。ここで大切なのは、相手との違いを安易に埋めることではなく、自分の中にある偏見を自覚し、葛藤を抱えながらも、粘り強く目の前にいる一人の『あなた』という存在に深く向き合い、じっくりと対話を続けていくことではないでしょうか。先日行われた中学校国語弁論大会でも、この偏見と差別について語ってくださった方がいて、とても嬉しく思いました。

映画「ズートピア」の中で、ある行為によってニックを深く傷つけてしまったジュディは、一度ニックと離れます。しかしその後、橋のたもとでニックに謝り、事件解決に向けて二人は再び手を取り合うのでした。橋、という舞台はとても象徴的です。歴代の教皇様も、しばしば分断の象徴として「壁」、相手とのつながりの象徴として「橋」、の言葉を使われてきました。

最後に、レオ十四世教皇様の言葉を紹介します。昨年、教皇選挙によって選出されたあとの、最初の挨拶です。
「わたしたちはキリストの弟子です。キリストはわたしたちに先立って歩んでくださいます。世界はこの方の光を必要としています。人類は、神とその愛に達するための橋として、この方を必要としています。皆さんもわたしたちを助けてください。対話と出会いによって互いに橋をかけるために。わたしたちが皆、一つに結ばれて、常に平和のうちにある唯一の民となることができるために」

高校３年生にとっては、不二聖心で過ごす日々も、いよいよ残りわずかとなりました。皆さんはこれまで、この学び舎の中で、多くの「橋」を多くの人との間に架けてきました。不二聖心で学んだことを大切にして、それぞれの次のステップでも「壁」を壊し、「橋」を架ける人として、活躍していってほしいと願っています。
これで宗教朝礼を終わります。

参考文献・映画
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ「ズートピア」（2016年、バイロン・ハワード監督）
奥田知志・永井玲衣「『希望のまちプロジェクト』レポート　人と人との『間』から」（集英社「すばる」2026年1月号p61）
教皇レオ十四世の最初の祝福　サンピエトロ大聖堂バルコニーにて　
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/05/09/32332/

S.N.(社会科・地歴公民科）

</description>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin177095173883952300" class="cms-content-parts-sin177095173883960500"><p>&#160;私はこの冬休み、娘と一緒に映画「ズートピア２」を観ました。２の鑑賞前に前作の「ズートピア」も初めて観たのですが、これほどの名作を10年も放置していたなんて、自分でも勿体無いことをしたと、今さらながら後悔しました。</p>
<div></div>
<div>ズートピアとは物語の舞台となる都市の名前です。動物園「ズー」と理想郷「ユートピア」を組み合わせた名前の通り、かつては敵対していた肉食動物と草食動物が、種族の違いを超えて共に暮らす巨大都市です。ズートピアでは「誰でも何にでもなれる」という輝かしい理想が掲げられ、様々な動物たちが共に暮らし、自由で平等な多文化共生社会　が実現している、ように見えます。けれど、実際には様々な問題を抱えており、そしてそれらは、私たち人間社会が抱える課題と鏡合わせのように対応しています。</div>
<div></div>
<div>例えば主人公のウサギのジュディは、警察官になりたい、と小さい頃に宣言しますが、友達からは馬鹿にされ、両親からもこれまで警察官になったウサギはいない、とたしなめられます。警察学校に入った後も苦労は続きます。様々なトレーニングのあり方、トイレや会議場など警察学校の設備や制度そのものが、大型動物向けに設計され、小動物にとって適切ではないものでした。私たちの社会でも、職業選択の自由、ジェンダー平等などが謳われつつも、現実には政治や経営、社会生活の場が、特定の属性を持つ人々にとって有利な設計となり、その設計に合わない人たちを排除していることがあります。</div>
<div></div>
<div>ズートピアで肉食動物が皆優遇されているわけでもありません。もう一人の主人公、キツネのニックも、周囲からはキツネだというだけで「ずる賢い」「嘘つき」「詐欺師」というレッテルを貼られ、幼い頃には自身の夢を諦めた経験がありました。ズートピアの理想の裏側には根深い偏見、そしてそこから生まれる差別がありました。偏見を嫌い、正義感あふれるジュディですら、キツネのニックに初めて話しかける際、無意識に「キツネよけスプレー」に手を伸ばしてしまう場面が描かれていました。</div>
<div></div>
<div>「多文化共生」という言葉は耳に心地よいものですが、そう簡単に実現できるものではないようです。自分と異なる価値観、文化、習慣を持つ「他者」と隣り合わせで生きることは、時に摩擦を生み、苛立ちや疲れを引き起こします。私たちが無意識にもつ偏見から逃れるためには、どうしたら良いのでしょうか。</div>
<div></div>
<div>北九州市で30年以上にわたりホームレス支援や困窮者保護に力を尽くし続けている、NPO法人「抱樸（ほうぼく）」の理事長で牧師である奥田知志（おくだともし）さん、という方がいらっしゃいます。この方がある対談で、次のように語っていました。</div>
<div></div>
<div>時々、私が（ホームレスの方に）「いや苦労されましたね。わかりますよ。本当にしんどかったね」って言った瞬間に、「おまえに俺の何がわかるんだ」ってぼろくそに怒られることがあるんですよ。やっぱり人間って簡単にわかってもらっちゃ困るんです。人間の尊厳というのは、厳しいものですよね。尊く厳しいのが尊厳です。他者である限りは乗り越えられない壁がある。絶対的な他者性みたいなものの前で、しかし、「おまえのことなんかわかるか」で終わらせるんじゃなくて、それでもそのおじさんの話を聞こうとする。共感も大事だけど、共感が不可能だっていうことにまず共感しないと始まらない。「共感不可能性の共感」なんて言い方をしてきましたが、ここを無視して一足跳びに共感を目指しちゃうと、一足跳びに答えを探している世界と変わらない。それは当事者に対して失礼な話になる。</div>
<div></div>
<div>皆さんの不二聖心での生活も、一つの小さな「ズートピア」かもしれません。皆さんは授業や奉仕活動、友人との関わりを通して、自分とは異なる「他者」と出会ってきましたし、これからも出会っていきます。その際、相手を自分の物差しでカテゴライズし、分かったつもりになる誘惑に駆られることもあるでしょう。ここで大切なのは、相手との違いを安易に埋めることではなく、自分の中にある偏見を自覚し、葛藤を抱えながらも、粘り強く目の前にいる一人の『あなた』という存在に深く向き合い、じっくりと対話を続けていくことではないでしょうか。先日行われた中学校国語弁論大会でも、この偏見と差別について語ってくださった方がいて、とても嬉しく思いました。</div>
<div></div>
<div>映画「ズートピア」の中で、ある行為によってニックを深く傷つけてしまったジュディは、一度ニックと離れます。しかしその後、橋のたもとでニックに謝り、事件解決に向けて二人は再び手を取り合うのでした。橋、という舞台はとても象徴的です。歴代の教皇様も、しばしば分断の象徴として「壁」、相手とのつながりの象徴として「橋」、の言葉を使われてきました。</div>
<div></div>
<div>最後に、レオ十四世教皇様の言葉を紹介します。昨年、教皇選挙によって選出されたあとの、最初の挨拶です。</div>
<div>「わたしたちはキリストの弟子です。キリストはわたしたちに先立って歩んでくださいます。世界はこの方の光を必要としています。人類は、神とその愛に達するための橋として、この方を必要としています。皆さんもわたしたちを助けてください。対話と出会いによって互いに橋をかけるために。わたしたちが皆、一つに結ばれて、常に平和のうちにある唯一の民となることができるために」</div>
<div></div>
<div>高校３年生にとっては、不二聖心で過ごす日々も、いよいよ残りわずかとなりました。皆さんはこれまで、この学び舎の中で、多くの「橋」を多くの人との間に架けてきました。不二聖心で学んだことを大切にして、それぞれの次のステップでも「壁」を壊し、「橋」を架ける人として、活躍していってほしいと願っています。</div>
<div>これで宗教朝礼を終わります。</div>
<div></div>
<div>参考文献・映画</div>
<div>ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ「ズートピア」（2016年、バイロン・ハワード監督）</div>
<div>奥田知志・永井玲衣「『希望のまちプロジェクト』レポート　人と人との『間』から」（集英社「すばる」2026年1月号p61）</div>
<div>教皇レオ十四世の最初の祝福　サンピエトロ大聖堂バルコニーにて　</div>
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<div style="text-align: right;">S.N.(社会科・地歴公民科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96091/">
<title>2026年1月21日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2026/96091/</link>
<description>
　宗教朝礼で何を話そうかすぐにアイデアが浮かばなかったので、AIに相談したところ、とても素晴らしい宗教的な内容を提案されたのですが、たぶん自分では絶対に思いつかないような言葉や内容が含まれていてそれを使うのは違和感を感じ、今回は宗教から少しはずれますが、自分が今感じていることを伝えたいと思います。
先日、テレビを見ていたらある地域で中学生対象に人権に関する標語を募集したところ、優秀な作品が７作選ばれ、作成した中学生５名を集めてどのようにその標語を考えたかを調査するという企画の番組がありました。５名中３名がAIで作成したと答えていました。AIを使わなかった生徒は自分で考えないと心がこもっていないと言い、AIを使った生徒は素晴らしい内容ならどう作成しようと問題ないと答えていました。
　現在、大学では課題作成をAIに丸投げして提出し、自分では考えない学生が増えている一方で、時間をかけて考え一生懸命課題を作成する学生もいます。そしてAIで作成した学生の方が高い評価がつき、自分で作成したまじめな学生には低い評価がつき自己肯定感が下がり自分のやり方に悩んでいる人が多くいるという報道を見ました。
私にも大学２年と４年の息子がいますが、日頃、教科書やノートを使っている様子がなく、パソコンばかりいじっていて勉強している気配がないのでちゃんと授業を受けているのか心配になって聞いたことがあります。テキストはクラウド上に載っており、板書の内容はタブレットで撮影しているので教科書もノートも必要ないとそっけなく返答されました。分厚い数学の専門書を持ち歩いていた時代との世代間ギャプにショックを受けました。
　それに関連して気になるニュースが先週ネットの記事にありました。その記事を読みます。
&#160;タブレット学習が定着した今も、新春の書き初めは小学校の定番行事だ。ところがキーボードやスマホ入力が当たり前になった昨今は、漢字の書き順などを正しく書けない子どもが増えているという。かたや大人も手書きする機会は激減しており、いざペンで書こうとして、漢字が出てこない、脳が衰えているのでは、と焦った経験がある人は少なくないはずだ。手書きをしなくなったことで、人間はどう変わったのか。順天堂大学医学部の矢野裕一朗教授に話を聞いた。
スマホやPCの入力と手書き、脳に及ぼす影響は何が違うのか？
　手書きではすべて書き写すのは不可能なので、脳が瞬時に情報を要約して優先順をつけ、自分の言葉で概念を再構築する必要に迫られます。結果、手書きした学生の方が記憶の定着率も理解度も圧倒的に高い。
　デジタルは情報の保存に長けているが、知識として定着させるにはアナログの方が効果が高いことが実証されている。
　昨今は板書を写真に撮る学生も増えていますが、記憶の定着という観点からはマイナスに働く可能性があります。これは単なる精神論ではなく、心理学で、写真撮影による記憶喪失効果として知られる現象です。データに保存したことで安心感を得てしまい、復習をしなくなってしまうわけです。大切なことは後から必ずノートに書き写すなど、アナログとデジタルの使い分けを提案したいところです。
　スマホが常に手元にある現代、写真を撮って覚えた気になってしまうという勘違い現象にドキッとした大人も多いのではないでしょうか。デジタルツールやAIは、仕事や生活のあらゆる場面で切っても切り離せなくなっています。
　定型的な業務処理やミスのない遂行において、デジタルツールは最強のパフォーマンスを発揮します。とはいえ、デジタルの示す正解は、誰もが到達できるコモディティ化された正解に陥りがちであるという側面も否定できません。
　対して、アナログな個人的記憶や経験といった独自の文脈から引き出された言葉やアイデアには、他者には模倣できないオリジナリティ溢れる価値があります。処理速度を求めるならデジタル、独自の価値を創出するならアナログ。この使い分けこそが、ビジネスパーソンのパフォーマンスを最大化する鍵となるでしょう。
　子どもから大人まで、日々デジタルの恩恵にあずかる現代人。今は気にならなくとも、その影響が深刻化するのは近い将来かもしれません。
脳科学には、使わなければ失われるという鉄則があり、神経回路のシナプス結合も使わなければどんどん弱まってしまいます。文章の作成をAIに任せきりになったり、特に手書きという高度なマルチタスク（指先の操作+記憶の検索+言語構成）をやめてしまうことは、脳への血流と刺激を遮断することに等しく、脳の老化を加速させるリスク要因になります。
AIの弊害が表面化するのは5～10年後、老害が低年齢化すると予想される。
　さらに興味深いのが、スマホで文字入力している時と手書きで文字を書いている時の脳血流を比較測定した研究です。スマホ入力ではあまり働いていない脳の前頭前野が、手書きをしている時は活発に働き、血流量が増加していることが確認されました。思考やコミュニケーションを司る前頭前野は加齢とともに最も早く機能低下が始まりやすい部位であり、ここが衰えるとイライラしたり、怒りっぽくなったりと感情の抑制が効かなくなります。昨今ではいわゆる&#8220;老害&#8221;的な行動の原因が、加齢に伴う前頭前野の衰えと関連していることが知られています。この現状に対し、矢野教授は、ＡＩ等の進歩により数年後には自分で考えることをしなくなり脳の老化の低年齢化がクローズアップされるだろうと警鐘を鳴らしています。　※１　　
&#160;
この記事を読んで、社会全体がデジタルやAIに依存しすぎると全世代で感情の抑制が効かない人が増えるのでは不安になりました。
　最後に私ごとで恐縮ですが、今年１月２日に１４年間飼っていたポメラニアンが息を引き取りました。昨年の１２月中旬から元気がなくなり自力で食事が出来なくなったので冬休みには毎日動物病院に朝預けて、強制給餌をしてもらい夕方に迎えにいく日々が続きました。何とか年は越せたもののどんどん瘦せ細っていきました。１月２日朝預けて、夕方、思いついていつもより１時間位早く病院に迎えに行くと看護師さんが今日は比較的元気で何とか食事を食べられたので今連れてきますと言ってくれました。安心した直後、獣医さんが来て急に心臓が止まりかけていますと慌てています。
　急いで心臓マッサージをしてもらいましたが、乾電池が切れたように動きが止まり命が途絶えました。
　迎えに来るまで死ぬのを待っていてくれたのかも知れませんが、その日に限って１時間早く迎えにいったために最期を看取ることが出来ました。それが偶然ではなく神様が導いてくれた気がしてなりません。そして無事天国に着けるよう神様にお祈りをしました。
　AIに相談することは出来ますが、本当の意味で寂しさや悲しさを癒したり、祈りを捧げることが出来るとは思えません。それは神様にしか出来ないような気がします。私自身AIに依存しすぎないように関わっていきたいと思います。皆さんもスマホやＡＩとの関わり方について一度考えてみて下さい。
J.K.（数学科・情報科）

&#160;※１　山陽新聞web記事（2026年01月16日）https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4
&#160;
&#160;
&#160;

&#160;
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2026-01-21T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p class="MsoNormal">　宗教朝礼で何を話そうかすぐにアイデアが浮かばなかったので、<span lang="EN-US">AI</span>に相談したところ、とても素晴らしい宗教的な内容を提案されたのですが、たぶん自分では絶対に思いつかないような言葉や内容が含まれていてそれを使うのは違和感を感じ、今回は宗教から少しはずれますが、自分が今感じていることを伝えたいと思います。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent:10.5pt;mso-char-indent-count:1.0">先日、テレビを見ていたらある地域で中学生対象に人権に関する標語を募集したところ、優秀な作品が７作選ばれ、作成した中学生５名を集めてどのようにその標語を考えたかを調査するという企画の番組がありました。５名中３名が<span lang="EN-US">AI</span>で作成したと答えていました。<span lang="EN-US">AI</span>を使わなかった生徒は自分で考えないと心がこもっていないと言い、<span lang="EN-US">AI</span>を使った生徒は素晴らしい内容ならどう作成しようと問題ないと答えていました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　現在、大学では課題作成を<span lang="EN-US">AI</span>に丸投げして提出し、自分では考えない学生が増えている一方で、時間をかけて考え一生懸命課題を作成する学生もいます。そして<span lang="EN-US">AI</span>で作成した学生の方が高い評価がつき、自分で作成したまじめな学生には低い評価がつき自己肯定感が下がり自分のやり方に悩んでいる人が多くいるという報道を見ました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span><br />
私にも大学２年と４年の息子がいますが、日頃、教科書やノートを使っている様子がなく、パソコンばかりいじっていて勉強している気配がないのでちゃんと授業を受けているのか心配になって聞いたことがあります。テキストはクラウド上に載っており、板書の内容はタブレットで撮影しているので教科書もノートも必要ないとそっけなく返答されました。分厚い数学の専門書を持ち歩いていた時代との世代間ギャプにショックを受けました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　それに関連して気になるニュースが先週ネットの記事にありました。その記事を読みます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">&#160;</span>タブレット学習が定着した今も、新春の書き初めは小学校の定番行事だ。ところがキーボードやスマホ入力が当たり前になった昨今は、漢字の書き順などを正しく書けない子どもが増えているという。かたや大人も手書きする機会は激減しており、いざペンで書こうとして、漢字が出てこない、脳が衰えているのでは、と焦った経験がある人は少なくないはずだ。手書きをしなくなったことで、人間はどう変わったのか。順天堂大学医学部の矢野裕一朗教授に話を聞いた。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;">スマホや<span lang="EN-US">PC</span>の入力と手書き、脳に及ぼす影響は何が違うのか？<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　手書きではすべて書き写すのは不可能なので、脳が瞬時に情報を要約して優先順をつけ、自分の言葉で概念を再構築する必要に迫られます。結果、手書きした学生の方が記憶の定着率も理解度も圧倒的に高い。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　デジタルは情報の保存に長けているが、知識として定着させるにはアナログの方が効果が高いことが実証されている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　昨今は板書を写真に撮る学生も増えていますが、記憶の定着という観点からはマイナスに働く可能性があります。これは単なる精神論ではなく、心理学で、写真撮影による記憶喪失効果として知られる現象です。データに保存したことで安心感を得てしまい、復習をしなくなってしまうわけです。大切なことは後から必ずノートに書き写すなど、アナログとデジタルの使い分けを提案したいところです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　スマホが常に手元にある現代、写真を撮って覚えた気になってしまうという勘違い現象にドキッとした大人も多いのではないでしょうか。デジタルツールや<span lang="EN-US">AI</span>は、仕事や生活のあらゆる場面で切っても切り離せなくなっています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　定型的な業務処理やミスのない遂行において、デジタルツールは最強のパフォーマンスを発揮します。とはいえ、デジタルの示す正解は、誰もが到達できるコモディティ化された正解に陥りがちであるという側面も否定できません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　対して、アナログな個人的記憶や経験といった独自の文脈から引き出された言葉やアイデアには、他者には模倣できないオリジナリティ溢れる価値があります。処理速度を求めるならデジタル、独自の価値を創出するならアナログ。この使い分けこそが、ビジネスパーソンのパフォーマンスを最大化する鍵となるでしょう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　子どもから大人まで、日々デジタルの恩恵にあずかる現代人。今は気にならなくとも、その影響が深刻化するのは近い将来かもしれません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;">脳科学には、使わなければ失われるという鉄則があり、神経回路のシナプス結合も使わなければどんどん弱まってしまいます。文章の作成を<span lang="EN-US">AI</span>に任せきりになったり、特に手書きという高度なマルチタスク（指先の操作<span lang="EN-US">+</span>記憶の検索<span lang="EN-US">+</span>言語構成）をやめてしまうことは、脳への血流と刺激を遮断することに等しく、脳の老化を加速させるリスク要因になります。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">AI</span>の弊害が表面化するのは<span lang="EN-US">5</span>～<span lang="EN-US">10</span>年後、老害が低年齢化すると予想される。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;">　さらに興味深いのが、スマホで文字入力している時と手書きで文字を書いている時の脳血流を比較測定した研究です。スマホ入力ではあまり働いていない脳の前頭前野が、手書きをしている時は活発に働き、血流量が増加していることが確認されました。思考やコミュニケーションを司る前頭前野は加齢とともに最も早く機能低下が始まりやすい部位であり、ここが衰えるとイライラしたり、怒りっぽくなったりと感情の抑制が効かなくなります。昨今ではいわゆる<span lang="EN-US">&#8220;</span>老害<span lang="EN-US">&#8221;</span>的な行動の原因が、加齢に伴う前頭前野の衰えと関連していることが知られています。この現状に対し、矢野教授は、ＡＩ等の進歩により数年後には自分で考えることをしなくなり脳の老化の低年齢化がクローズアップされるだろうと警鐘を鳴らしています。　※１　　</p>
<p class="MsoNormal" style="margin-left: 40px;"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent:10.5pt;mso-char-indent-count:1.0">この記事を読んで、社会全体がデジタルや<span lang="EN-US">AI</span>に依存しすぎると全世代で感情の抑制が効かない人が増えるのでは不安になりました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　最後に私ごとで恐縮ですが、今年１月２日に１４年間飼っていたポメラニアンが息を引き取りました。昨年の１２月中旬から元気がなくなり自力で食事が出来なくなったので冬休みには毎日動物病院に朝預けて、強制給餌をしてもらい夕方に迎えにいく日々が続きました。何とか年は越せたもののどんどん瘦せ細っていきました。１月２日朝預けて、夕方、思いついていつもより１時間位早く病院に迎えに行くと看護師さんが今日は比較的元気で何とか食事を食べられたので今連れてきますと言ってくれました。安心した直後、獣医さんが来て急に心臓が止まりかけていますと慌てています。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　急いで心臓マッサージをしてもらいましたが、乾電池が切れたように動きが止まり命が途絶えました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal">　迎えに来るまで死ぬのを待っていてくれたのかも知れませんが、その日に限って１時間早く迎えにいったために最期を看取ることが出来ました。それが偶然ではなく神様が導いてくれた気がしてなりません。そして無事<span style="letter-spacing: 0.1em;">天国に着けるよう神様にお祈りをしました。</span></p>
<p class="MsoNormal">　<span lang="EN-US">AI</span>に相談することは出来ますが、本当の意味で寂しさや悲しさを癒したり、祈りを捧げることが出来るとは思えません。それは神様にしか出来ないような気がします。私自身<span lang="EN-US">AI</span>に依存しすぎないように関わっていきたいと思います。皆さんもスマホやＡＩとの関わり方について一度考えてみて下さい。</p>
<p class="MsoNormal" style="text-align: right;">J.K.（数学科・情報科）</p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span>※１　山陽新聞<span lang="EN-US">web</span>記事（<span lang="EN-US">2026</span>年<span lang="EN-US">01</span>月<span lang="EN-US">16</span>日）<a href="https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4" style="background-color: rgb(255, 255, 255); letter-spacing: 0.1em;">https://www.sanyonews.jp/article/1858414?kw=4</a></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
<p></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;</span></p>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96077/">
<title>2025年12月10日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96077/</link>
<description>&#160;いよいよ、クリスマス・キャロルが来週となりました。今年は以前のキャロルのように、一般のお客様をお迎えして、イエスのご降誕という恵みの時を多くの皆さまとともにお迎えできますね。

クリスマス・キャロル週間を過ごす今週は、学校内でどこからともなく聞こえてくる皆さんの歌声に、イエス様ご降誕の喜びの日が近づいてきていることを感じずにはいられません。街はイルミネーションが光り、クリスマスソングやクリスマスツリーの飾りに溢れ、一層賑わいが増す時期になりましたが、静けさの中でクリスマス本来の意味を考え、本当に大切なものへと心を向ける待降節の期間を過ごすのが、聖心における伝統的なクリスマスまでの過ごし方です。

これまでの期間に、さまざまな形で聖心の生徒としてのプラクティスの過ごし方、心構えについて皆さんはお話を伺ってきましたね。プラクティスは、クリスマスへの大切な心の準備期間でもあります。待降節にあたり、聖心の創立者である聖マグダレナ・ソフィア・バラの教えをもう一度辿り、心静かにこの時を過ごせる　ように考えてみましょう。
聖マグダレナ・ソフィア・バラは、静けさを大切になさっていました。「神の望みにまかせること、それこそ平和をみつける唯一の道です」というマザー・バラの言葉に象徴されるように、祈りながら忍耐強く神のなさることを待ち、彼女は優しさと思いやりを持って神のなさることに自分を捧げました。日々の生活の中に、沈黙や静けさをつくることで、心に空間ができる、つまり神様を迎えるスペースをつくることができるということを彼女の生き方は教えてくださいます。私たちは、時に慌ただしく、目の前のことに翻弄されて過ごしていると、自分の中にある大切なものにさえ気づくことが出来なくなる時があります。各クラスで決めたプラクティスの意味や、あなた自身のプラクティスの過ごし方を今一度、自分の心の深い部分で見直してみることも必要かもしれません。そうすることで、より心を落ち着けて、クリスマスを迎えることができるようになると思います。

さて、今年のクリスマス・キャロルのテーマ「Luminous (ルミナス)」は、柔らかく明るい光、輝くという意味を持つ言葉です。カトリック教会において、「希望」をテーマとした聖年の年に当たる今年２０２５年に、この希望を象徴する「光」Luminous（ルミナス）には、イエス様のご降誕をお祝いする喜びを一層輝かせたい、そんな願いが込められています。
イエス様の誕生を表すベツレヘムの星が夜空に美しく輝き、羊飼いや３人の賢者が導かれたように、クリスマス・キャロルの一つの象徴として、この光はとても大切で深い意味を持ちます。
２０００年前に、政治的に不安定で経済的な格差も激しかったユダヤ社会の貧しい人々にとって、イエス様は希望の光でした。それから長い時を経た今の時代において、私たちは未だ様々な問題を抱えています。
パレスチナやウクライナなどでは紛争が続き、また世界中で格差や貧富の問題があります。ナイジェリアのパピリでは学校が襲撃され、今も多くの子どもや大人たちがさらわれ行方不明の状態にあり、ご家族は深い恐怖と不安の中で過ごされています。日本に住む私たちは、本当に恵まれた毎日を過ごせているのです。

聖マグダレナ・ソフィア・バラが礎を築いた聖心は、世界中に広がっています。この時期、皆さんだけでなく、世界中の聖心の生徒たちは、心を一つにして祈り、歌い、イエス様のご降誕を待ち望んでいます。イエス様の存在が、世の暗闇を照らす消えない光であることを伝え、そのご降誕の喜びを分かち合う、世界中の人々が光を信じ、希望を持ち生きることの大切さを知る、今年のテーマであるLuminous（ルミナス）という言葉を心の深いところで皆が考えることが大きな意味を持ちます。
私たちが、今の自分の平和な生活に感謝し、この光を信じ、祈りの気持ちを伝えられるクリスマス・キャロルにしていきましょう。そのために、皆で平和を願いながら、共に歌い、誰かの希望となることが出来ますように。クリスマス・キャロルまでの日々を大切に過ごして行きましょう。

A.T.（図書館）</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2025-12-10T13:45:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div id="cms-editor-minieditor-sin176655164106334800" class="cms-content-parts-sin176655164106342500"><p>&#160;いよいよ、クリスマス・キャロルが来週となりました。今年は以前のキャロルのように、一般のお客様をお迎えして、イエスのご降誕という恵みの時を多くの皆さまとともにお迎えできますね。</p>
<div></div>
<div>クリスマス・キャロル週間を過ごす今週は、学校内でどこからともなく聞こえてくる皆さんの歌声に、イエス様ご降誕の喜びの日が近づいてきていることを感じずにはいられません。街はイルミネーションが光り、クリスマスソングやクリスマスツリーの飾りに溢れ、一層賑わいが増す時期になりましたが、静けさの中でクリスマス本来の意味を考え、本当に大切なものへと心を向ける待降節の期間を過ごすのが、聖心における伝統的なクリスマスまでの過ごし方です。</div>
<div></div>
<div>これまでの期間に、さまざまな形で聖心の生徒としてのプラクティスの過ごし方、心構えについて皆さんはお話を伺ってきましたね。プラクティスは、クリスマスへの大切な心の準備期間でもあります。待降節にあたり、聖心の創立者である聖マグダレナ・ソフィア・バラの教えをもう一度辿り、心静かにこの時を過ごせる　ように考えてみましょう。</div>
<div>聖マグダレナ・ソフィア・バラは、静けさを大切になさっていました。「神の望みにまかせること、それこそ平和をみつける唯一の道です」というマザー・バラの言葉に象徴されるように、祈りながら忍耐強く神のなさることを待ち、彼女は優しさと思いやりを持って神のなさることに自分を捧げました。日々の生活の中に、沈黙や静けさをつくることで、心に空間ができる、つまり神様を迎えるスペースをつくることができるということを彼女の生き方は教えてくださいます。私たちは、時に慌ただしく、目の前のことに翻弄されて過ごしていると、自分の中にある大切なものにさえ気づくことが出来なくなる時があります。各クラスで決めたプラクティスの意味や、あなた自身のプラクティスの過ごし方を今一度、自分の心の深い部分で見直してみることも必要かもしれません。そうすることで、より心を落ち着けて、クリスマスを迎えることができるようになると思います。</div>
<div></div>
<div>さて、今年のクリスマス・キャロルのテーマ「Luminous (ルミナス)」は、柔らかく明るい光、輝くという意味を持つ言葉です。カトリック教会において、「希望」をテーマとした聖年の年に当たる今年２０２５年に、この希望を象徴する「光」Luminous（ルミナス）には、イエス様のご降誕をお祝いする喜びを一層輝かせたい、そんな願いが込められています。</div>
<div>イエス様の誕生を表すベツレヘムの星が夜空に美しく輝き、羊飼いや３人の賢者が導かれたように、クリスマス・キャロルの一つの象徴として、この光はとても大切で深い意味を持ちます。</div>
<div>２０００年前に、政治的に不安定で経済的な格差も激しかったユダヤ社会の貧しい人々にとって、イエス様は希望の光でした。それから長い時を経た今の時代において、私たちは未だ様々な問題を抱えています。</div>
<div>パレスチナやウクライナなどでは紛争が続き、また世界中で格差や貧富の問題があります。ナイジェリアのパピリでは学校が襲撃され、今も多くの子どもや大人たちがさらわれ行方不明の状態にあり、ご家族は深い恐怖と不安の中で過ごされています。日本に住む私たちは、本当に恵まれた毎日を過ごせているのです。</div>
<div></div>
<div>聖マグダレナ・ソフィア・バラが礎を築いた聖心は、世界中に広がっています。この時期、皆さんだけでなく、世界中の聖心の生徒たちは、心を一つにして祈り、歌い、イエス様のご降誕を待ち望んでいます。イエス様の存在が、世の暗闇を照らす消えない光であることを伝え、そのご降誕の喜びを分かち合う、世界中の人々が光を信じ、希望を持ち生きることの大切さを知る、今年のテーマであるLuminous（ルミナス）という言葉を心の深いところで皆が考えることが大きな意味を持ちます。</div>
<div>私たちが、今の自分の平和な生活に感謝し、この光を信じ、祈りの気持ちを伝えられるクリスマス・キャロルにしていきましょう。そのために、皆で平和を願いながら、共に歌い、誰かの希望となることが出来ますように。クリスマス・キャロルまでの日々を大切に過ごして行きましょう。</div>
<div></div>
<div style="text-align: right;">A.T.（図書館）</div></div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96066/">
<title>2025年11月26日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96066/</link>
<description>&#160;最近、「失敗した」と感じた経験をした人はいるでしょうか。
なぜ私がこんな質問をしたかというと、あと1ヶ月で終わる2025年を振り返ったとき、私にとってこの1年は失敗が多かったように感じたからです。慌ただしい日々の中で、大事なことをうっかり忘れてしまったり、前もって気付けるはずのことを見落としてしまったり&#8230;。
「もっと早く気づけたら&#8230;。」「どうしてあの時、ちゃんとやっておかなかったんだろう。」
思わず笑ってしまうような小さな失敗から、誰かを傷つけてしまうような大きな失敗まで、その種類や大きさ・度合いはさまざまですが、きっと誰にでも「やってしまった&#8230;。」という瞬間があるのではないでしょうか。
例えば、ルールを破ってしまったこと。マナーを守れず、周囲に迷惑をかけてしまったこと。「今日こそ、テスト勉強しよう！」と思っていたのに、つい他のことに気を取られて、計画通りに進められなかったこと。慣れ親しんだ友人との会話で、「これくらい大丈夫だろう。」と思って言った一言が、相手を深く傷つけてしまったこと。
こうした日常の出来事も、1つの「失敗」だと言えるかもしれません。
できれば失敗は避けたいものです。失敗しないに越したことはありませんし、もちろん、そうならないように十分注意を払い、最善を尽くすことは大切です。しかし、どんなに気をつけていても、ふとした瞬間に失敗は起こります。中には、悪いと分かっていても、その場の勢いや流れで行動してしまうこともあるかもしれません。また、自分では正しいと思ってやったことが、結果的に失敗を招いてしまうこともあるかもしれません。
失敗の形や理由は、本当にさまざまです。
そのせいなのか、私たちは失敗に直面したとき、つい何かのせいにしたくなってしまうことがあるように思います。
「あの人がこう言ったから。」「あの時、こうしてくれなかったから。」「環境が悪かったから。」他の誰かや、状況のせいにすると、一時的に自分の心が軽くなるような気がするかもしれません。でもそれでは、失敗はただの「出来事」で終わってしまいます。残念ながら、起きてしまった過去や事実は変えられません。大切なのは、その経験と向き合うことです。そして、そこから何か大切なことに気づき、これからの考え方や行動を少しずつ変えていくことです。
「なぜ、そうなってしまったのか。」「同じことを繰り返さないためには、どうしたらいいか。」ちょっと視点を変えて考えてみると、失敗は自分を成長させる材料になります。
不二聖心で、とても大切にしている「振り返り」。みなさんもさまざまな場面で取り組んでいると思います。良いことも、悪いことも、成長の糧。みなさん、一人ひとりの強みにしてほしいと願っています。

ここで、私が大切にしている、マザー・テレサの言葉を紹介します。
「小さなことに忠実でいなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから。」
高校１年生の方の中には、この言葉を覚えてくれている方もいるかもしれません。
派手なことをする必要はありません。むしろ、毎日の中で誰にも気づかれないような小さな誠実さこそが重要です。大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか。マザー・テレサはそう語っています。
では、「小さなことに忠実でいること」とは、具体的にどんなことでしょうか。
私たち人間は、1日におよそ3万5千回もの決断をしていると言われています。その一つひとつの小さな行動や態度が積み重なって、自分自身や周りに、少しずつ影響を与えます。時には、選択の多さに疲れてしまうこともあるかもしれません。でも、日々の小さな誠実さを意識し、実践していくことが、私たちを内側から強くしてくれるのです。

　さて、明日からはプラクティスが始まります。プラクティスは、イエスさまを静かにお迎えする心の準備をする期間です。クリスマスというと、街ではイルミネーションが光り、にぎやかな雰囲気に包まれますが、本来の待降節は、静かに心を落ち着かせ、日々を丁寧に過ごす時間です。
みなさんはこの1年を振り返って、どんな小さな誠実さを積み重ねてきたでしょうか。どんな失敗をして、その中から何を学んだでしょうか。少し立ち止まって、自分自身を振り返ってみましょう。
そして、昨日より今日を、少しだけ優しく過ごす。昨日よりちょっとだけ、誠実に過ごす。その小さな積み重ねが、クリスマスを迎える心を整えてくれます。
今年のプラクティスがみなさんにとって、自分を見つめ、優しさと誠実さを積み重ねる時間になりますように。それが、みなさんを静かに、確かに強くしてくれるはずです。

今日も1日、良い日になりますように。

H.S.（芸術科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2025-11-26T22:35:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176416527557677400" class="cms-content-parts-sin176416527557684500"><p>&#160;最近、「失敗した」と感じた経験をした人はいるでしょうか。</p>
<div>なぜ私がこんな質問をしたかというと、あと1ヶ月で終わる2025年を振り返ったとき、私にとってこの1年は失敗が多かったように感じたからです。慌ただしい日々の中で、大事なことをうっかり忘れてしまったり、前もって気付けるはずのことを見落としてしまったり&#8230;。</div>
<div>「もっと早く気づけたら&#8230;。」「どうしてあの時、ちゃんとやっておかなかったんだろう。」</div>
<div>思わず笑ってしまうような小さな失敗から、誰かを傷つけてしまうような大きな失敗まで、その種類や大きさ・度合いはさまざまですが、きっと誰にでも「やってしまった&#8230;。」という瞬間があるのではないでしょうか。</div>
<div>例えば、ルールを破ってしまったこと。マナーを守れず、周囲に迷惑をかけてしまったこと。「今日こそ、テスト勉強しよう！」と思っていたのに、つい他のことに気を取られて、計画通りに進められなかったこと。慣れ親しんだ友人との会話で、「これくらい大丈夫だろう。」と思って言った一言が、相手を深く傷つけてしまったこと。</div>
<div>こうした日常の出来事も、1つの「失敗」だと言えるかもしれません。</div>
<div>できれば失敗は避けたいものです。失敗しないに越したことはありませんし、もちろん、そうならないように十分注意を払い、最善を尽くすことは大切です。しかし、どんなに気をつけていても、ふとした瞬間に失敗は起こります。中には、悪いと分かっていても、その場の勢いや流れで行動してしまうこともあるかもしれません。また、自分では正しいと思ってやったことが、結果的に失敗を招いてしまうこともあるかもしれません。</div>
<div>失敗の形や理由は、本当にさまざまです。</div>
<div>そのせいなのか、私たちは失敗に直面したとき、つい何かのせいにしたくなってしまうことがあるように思います。</div>
<div>「あの人がこう言ったから。」「あの時、こうしてくれなかったから。」「環境が悪かったから。」他の誰かや、状況のせいにすると、一時的に自分の心が軽くなるような気がするかもしれません。でもそれでは、失敗はただの「出来事」で終わってしまいます。残念ながら、起きてしまった過去や事実は変えられません。大切なのは、その経験と向き合うことです。そして、そこから何か大切なことに気づき、これからの考え方や行動を少しずつ変えていくことです。</div>
<div>「なぜ、そうなってしまったのか。」「同じことを繰り返さないためには、どうしたらいいか。」ちょっと視点を変えて考えてみると、失敗は自分を成長させる材料になります。</div>
<div>不二聖心で、とても大切にしている「振り返り」。みなさんもさまざまな場面で取り組んでいると思います。良いことも、悪いことも、成長の糧。みなさん、一人ひとりの強みにしてほしいと願っています。</div>
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<div>ここで、私が大切にしている、マザー・テレサの言葉を紹介します。</div>
<div>「小さなことに忠実でいなさい。そこにあなたの強さが宿るのですから。」</div>
<div>高校１年生の方の中には、この言葉を覚えてくれている方もいるかもしれません。</div>
<div>派手なことをする必要はありません。むしろ、毎日の中で誰にも気づかれないような小さな誠実さこそが重要です。大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたか。マザー・テレサはそう語っています。</div>
<div>では、「小さなことに忠実でいること」とは、具体的にどんなことでしょうか。</div>
<div>私たち人間は、1日におよそ3万5千回もの決断をしていると言われています。その一つひとつの小さな行動や態度が積み重なって、自分自身や周りに、少しずつ影響を与えます。時には、選択の多さに疲れてしまうこともあるかもしれません。でも、日々の小さな誠実さを意識し、実践していくことが、私たちを内側から強くしてくれるのです。</div>
<div></div>
<div>　さて、明日からはプラクティスが始まります。プラクティスは、イエスさまを静かにお迎えする心の準備をする期間です。クリスマスというと、街ではイルミネーションが光り、にぎやかな雰囲気に包まれますが、本来の待降節は、静かに心を落ち着かせ、日々を丁寧に過ごす時間です。</div>
<div>みなさんはこの1年を振り返って、どんな小さな誠実さを積み重ねてきたでしょうか。どんな失敗をして、その中から何を学んだでしょうか。少し立ち止まって、自分自身を振り返ってみましょう。</div>
<div>そして、昨日より今日を、少しだけ優しく過ごす。昨日よりちょっとだけ、誠実に過ごす。その小さな積み重ねが、クリスマスを迎える心を整えてくれます。</div>
<div>今年のプラクティスがみなさんにとって、自分を見つめ、優しさと誠実さを積み重ねる時間になりますように。それが、みなさんを静かに、確かに強くしてくれるはずです。</div>
<div></div>
<div>今日も1日、良い日になりますように。</div>
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<div style="text-align: right;">H.S.（芸術科）</div>
<div></div></div>
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</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96065/">
<title>2025年11月12日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96065/</link>
<description>
　昨日の追悼ミサでは、静かで温かな雰囲気の中、全校で亡くなった方のためにお祈りを捧げ、大切な時間を過ごすことができました。
　この時期を迎えると思い出すことがあります。6年ほど前、私はある生徒の進路指導を担当していました。その生徒は看護師を目指していて、私たちは志望理由書の作成や面接試験に向けて対話を重ねていました。ある日、その生徒から「先生は身近な人を亡くしたことがありますか」と聞かれました。「ある」と答えると、その時どんな気持ちだったか、どうやって身近な人の死を乗り越えたのかを聞きたいと言われました。彼女は今まで身近な人の死を経験したことがなく、看護師という人の生死に関わる道を志すなか、人の死とどう向き合うのかということについて不安に感じていたそうです。彼女が勇気を出してその問いを考えようとしていること、真剣に向き合おうとしていることが伝わってきたので、私はうまく答えられなくても、本当に心で感じたことを伝えて一緒に考えたいと思いました。そこで4歳から17歳まで一緒に暮らしていた私の祖母のことを話しました。
子どもの頃の私はおばあちゃん子で、家に帰ってくると祖母の部屋に行き、一緒にお茶を飲みながらお話して過ごしました。生活の基本的なことの多くは祖母から教わりました。私が中学・高校に上がる頃には、祖母は体調を崩して入退院を繰返すようになり、私も部活や塾などで一緒に過ごす時間は少なくなっていきました。高２の終わりごろに祖母を亡くしたとき、私はもっと祖母のお見舞いに行っていればよかった、介護ももっと手伝えば良かった、あんなにかわいがってもらったのに、おばあちゃん孝行できなかったと後悔しました。母にそのことを話したら「おばあちゃんの人生は苦労が多かったけれど、孫と過ごした時間が人生で一番幸せだった。生まれてきてくれたことがおばあちゃん孝行だった。だから何も心配しなくていい。」と言葉をかけてもらい、少しずつ祖母の死から立ち直ることができました。
その生徒との対話を通じて、祖母の死について改めて向き合うことができた後、ちょうど昨日のように追悼ミサに与る機会がありました。そのごミサの中で、神父様が「私たちは亡くなった人のためにお祈りをするけれど、亡くなった人もまた私たちのために祈ってくれている」とお話し下さり、それを聞いてはっとさせられました。わたしは今まで、自分の進路や人間関係、仕事のことなどで思い悩んだときに、祖母の部屋で過ごした時を思い出すことがありました。以前それは、自分の心が弱っていて、幼い時のことを思い出して安心したいからだと思っていました。でもその時から、「今、祖母が私のためにお祈りしてくれている」と感じるようになりました。「亡くなった人はいつでも見守っていてくれる、お祈りしてくれている」という言葉は以前にも聞いたことがあり、信じていたつもりではありましたが、まだ実感を伴っていませんでした。そのときから「単なる聞いたことある話」ではなく私にとって「真実」になりました。そして大切なことに気づく機会をくれたあの生徒にも、また一つ発見があったと早く伝えなければと思いました。
私と話したことで彼女が何を感じたのか、何か得るものがあったのかは分かりません。問いの答えは彼女が自分の人生の中で見つけていくものだと思います。これからも日々の生活の中で頭を悩ませる難問に出会い、今信じているものが明日は信じられなくなることもあるかもしれません。それでも一つひとつのことに真摯に向きあうことで、素晴らしい気づきや出会いもまたあるのだと信じて歩んで行きたいと思います。以上で宗教朝礼を終わります。
M.O.（社会科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2025-11-12T21:55:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176416199629618000" class="cms-content-parts-sin176416199629626100">
<p>　昨日の追悼ミサでは、静かで温かな雰囲気の中、全校で亡くなった方のためにお祈りを捧げ、大切な時間を過ごすことができました。</p>
<p>　この時期を迎えると思い出すことがあります。6年ほど前、私はある生徒の進路指導を担当していました。その生徒は看護師を目指していて、私たちは志望理由書の作成や面接試験に向けて対話を重ねていました。ある日、その生徒から「先生は身近な人を亡くしたことがありますか」と聞かれました。「ある」と答えると、その時どんな気持ちだったか、どうやって身近な人の死を乗り越えたのかを聞きたいと言われました。彼女は今まで身近な人の死を経験したことがなく、看護師という人の生死に関わる道を志すなか、人の死とどう向き合うのかということについて不安に感じていたそうです。彼女が勇気を出してその問いを考えようとしていること、真剣に向き合おうとしていることが伝わってきたので、私はうまく答えられなくても、本当に心で感じたことを伝えて一緒に考えたいと思いました。そこで4歳から17歳まで一緒に暮らしていた私の祖母のことを話しました。</p>
<p>子どもの頃の私はおばあちゃん子で、家に帰ってくると祖母の部屋に行き、一緒にお茶を飲みながらお話して過ごしました。生活の基本的なことの多くは祖母から教わりました。私が中学・高校に上がる頃には、祖母は体調を崩して入退院を繰返すようになり、私も部活や塾などで一緒に過ごす時間は少なくなっていきました。高２の終わりごろに祖母を亡くしたとき、私はもっと祖母のお見舞いに行っていればよかった、介護ももっと手伝えば良かった、あんなにかわいがってもらったのに、おばあちゃん孝行できなかったと後悔しました。母にそのことを話したら「おばあちゃんの人生は苦労が多かったけれど、孫と過ごした時間が人生で一番幸せだった。生まれてきてくれたことがおばあちゃん孝行だった。だから何も心配しなくていい。」と言葉をかけてもらい、少しずつ祖母の死から立ち直ることができました。</p>
<p>その生徒との対話を通じて、祖母の死について改めて向き合うことができた後、ちょうど昨日のように追悼ミサに与る機会がありました。そのごミサの中で、神父様が「私たちは亡くなった人のためにお祈りをするけれど、亡くなった人もまた私たちのために祈ってくれている」とお話し下さり、それを聞いてはっとさせられました。わたしは今まで、自分の進路や人間関係、仕事のことなどで思い悩んだときに、祖母の部屋で過ごした時を思い出すことがありました。以前それは、自分の心が弱っていて、幼い時のことを思い出して安心したいからだと思っていました。でもその時から、「今、祖母が私のためにお祈りしてくれている」と感じるようになりました。「亡くなった人はいつでも見守っていてくれる、お祈りしてくれている」という言葉は以前にも聞いたことがあり、信じていたつもりではありましたが、まだ実感を伴っていませんでした。そのときから「単なる聞いたことある話」ではなく私にとって「真実」になりました。そして大切なことに気づく機会をくれたあの生徒にも、また一つ発見があったと早く伝えなければと思いました。</p>
<p>私と話したことで彼女が何を感じたのか、何か得るものがあったのかは分かりません。問いの答えは彼女が自分の人生の中で見つけていくものだと思います。これからも日々の生活の中で頭を悩ませる難問に出会い、今信じているものが明日は信じられなくなることもあるかもしれません。それでも一つひとつのことに真摯に向きあうことで、素晴らしい気づきや出会いもまたあるのだと信じて歩んで行きたいと思います。以上で宗教朝礼を終わります。</p>
<div style="text-align: right;">M.O.（社会科）</div>
</div>
]]></content:encoded>
</item>

<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96058/">
<title>2025年11月5日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96058/</link>
<description>&#160;先日の秋のつどいでは、多くの人に充実したひとときを与えてくださり、ありがとうございます。発表系クラブの仲間と目を合わせる姿や、呼吸がそろった時の一体感。運動系クラブの出し物で、丁寧に対応しながらたくさんの笑顔を生み出していた姿。そして、これまでの準備の過程が伝わってくる、工夫を凝らした展示など、それらすべてにおいて、ただ見せるだけでなく、何かを伝えようとする皆さんの思いが感じられ、深く感動しました。皆さんの姿から、気づかされ、学ばされることが多くあるのだと、改めて実感した一日でした。今回のように皆さんの内面性が、見事に発揮されたこの夏の出来事を今日は分かち合いたいと思います。 　日本の最高峰である富士山に見守られ、私たちは生活しています。富士山を見て嬉しくなったり、心がほっとしたり・・、知らず知らずのうちに富士山の存在が私たちの心の拠り所になっています。この環境で過ごせることは、本当に贅沢で、恵まれていることだと感じます。不二聖心では3年に1度、高校生対象に富士登山が行われています。コロナの影響で中断していましたが、この夏、2018年度以来、7年ぶりに富士登山を実施することができ、私も引率として登ってきました。普段は優しく私たちを見守り、美しい姿の富士山ですが、登山となるとその印象は一変し、自分との戦いが始まります。ひたすら続く登り坂、だんだん空気も薄くなり、人によっては高山病で頭痛や吐き気も出てきます。さらに、山の上ではすべてのものが貴重で、水さえ自由には使えません。手を洗うことも、水道から水を飲むこともできません。トイレも少なく、有料で、水洗式ではありません。数少ない山小屋の売店では500mLの水が５００円前後するほど何もかも高いのです。山頂でご来光を見るために、私たちは８合目の山小屋で夕食と仮眠をとりました。夕食のカレーは、量は多くなく、お茶もコップ半分ほど。当然おかわりはありません。一口一口を心からありがたくいただき、今まで食べたカレーの中で一番おいしいね！と皆で話しながらいただきました。もちろんシャワーはありません。登山で汚れた服装のまま、硬い木の棚のような場所で生徒も教員も一緒に横になります。気温は、７℃程でとても寒かったです。でも、暖房はなく、あるのは寝袋1枚。疲れているのにぐっすり寝ることはできないし、電気もほんの小さな豆電球のみ。まるで、何十年も前の生活のようでした。でも、不二聖心の生徒から不満やわがままを言う声はまったく聞こえてきませんでした。 　この苦しく不自由な環境こそが、私たちに大切な気付きを与えてくれました。まず、「当たり前」がいかにありがたいか、ということです。水、トイレ、布団、屋根など、日本に住む私たちにとって当たり前にあるものは、生きていくために必要で、大切に使わせてもらわなければいけないということに改めて気づかされました。また、過酷な環境のなか、「大丈夫？」という友達の声掛けや、すれ違う人の「あと少しだよ、頑張れ」という挨拶。その何気ない一言が、本当に支えになりました。皆で歯を食いしばり、励ましあいながら、登る先には、刻々と変わる景色が待っていました。澄み切った空気、手が届きそうなほどの星の美しさ、太陽の光の温かさ、そして空の青さ。普段は当たり前すぎて、何も感じないことが、苦しさを乗り越えた先だからこそ味わえる、最高の景色と達成感になりました。 　不二聖心の生徒たちは、苦しい中でも誰一人として弱音を吐きませんでした。それどころか、学年を超えて互いに声を掛け合い、体調を気遣う配慮がありました。寒そうにしている子に自分の上着を差し出す生徒。苦しそうにする子に携帯酸素を差し出す生徒。足取りが重い子の荷物を持ってあげる生徒。あちらこちらで「ありがとう」という言葉も聞こえました。 マルコによる福音書やルカによる福音書に「やもめの献金」のお話が記されています。イエスは、金持ちたちが献金をするのに対し、貧しいやもめが、なけなしのお金であるレプトン銅貨二枚を捧げた姿を見て、こう言われました。 　　「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は、有り余る中から入れたが、 　　　この人は、乏しい中から、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 　　　　　　　　　　　　　　　　　　（マルコによる福音書12章41～44節、ルカによる福音書21章1～4節） &#160; 自分が豊かなときや余裕があるときに人に「どうぞ」と気遣うこと。それは素晴らしいことです。しかし、自分自身も同じように苦しく、乏しいなかで相手を思いやり、「どうぞ」と差し出せること。これこそが本当に尊い行いだと思います。不二聖心の生徒は、日頃からありがたさを感じられる心を持っています。だからこそ、極限の状況でも、自然と他者を思いやる気遣いができたのだと感じます。生徒たちが見せてくれた姿は、イエスが最も尊いと称賛したやもめの姿と重なるものでした。 &#160; 便利なもので溢れている現代に、私たちは生きています。この富士山の環境も、今の時代、もっと便利にしようと思えばできるのかもしれません。でも、私は富士山はこのままがいいと強く思います。昔からこの形が守られ続けてきたことには意味があり、この環境こそが、私たちを大きく成長させてくれるのです。苦しさがあるからこそ、本当の成長があり、自分の欲を抑え、我慢することの大切さを、富士山は改めて教えてくれました。これは、私たちが日頃大切にしているWorld Smiles Lunchや、12月から始まるプラクティス、クリスマスチャリティセールの精神にも通じます。単に寄付をするだけでなく、少し我慢し、その思いを他者と共にする。そして、相手を笑顔にする。これこそが聖心の生徒のあるべき姿です。 　引率として、富士登山の危険性も十分に感じていましたし、久しぶりの実施ということもあり、不安な気持ちも大きかったのも事実です。だからこそ、生徒の姿、行いに本当に力をもらいましたし、心から感動しました。今回のメンバーが特別ではなく、「不二聖心の生徒たちなら、誰を連れて行っても、このように行動できる」と自信をもって言えます。雄大な富士山に見守られながら、皆さんがこれほど豊かに育ってくれていること、そのような教育に携わることができていることを、心から嬉しく、そして誇りに思っています。 Y.O.（保健体育科） </description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-11-05T14:00:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176231942305517100" class="cms-content-parts-sin176231942305525100"><p>&#160;先日の秋のつどいでは、多くの人に充実したひとときを与えてくださり、ありがとうございます。発表系クラブの仲間と目を合わせる姿や、呼吸がそろった時の一体感。運動系クラブの出し物で、丁寧に対応しながらたくさんの笑顔を生み出していた姿。そして、これまでの準備の過程が伝わってくる、工夫を凝らした展示など、それらすべてにおいて、ただ見せるだけでなく、何かを伝えようとする皆さんの思いが感じられ、深く感動しました。皆さんの姿から、気づかされ、学ばされることが多くあるのだと、改めて実感した一日でした。今回のように皆さんの内面性が、見事に発揮されたこの夏の出来事を今日は分かち合いたいと思います。</p> <div>　日本の最高峰である富士山に見守られ、私たちは生活しています。富士山を見て嬉しくなったり、心がほっとしたり・・、知らず知らずのうちに富士山の存在が私たちの心の拠り所になっています。この環境で過ごせることは、本当に贅沢で、恵まれていることだと感じます。不二聖心では3年に1度、高校生対象に富士登山が行われています。コロナの影響で中断していましたが、この夏、2018年度以来、7年ぶりに富士登山を実施することができ、私も引率として登ってきました。普段は優しく私たちを見守り、美しい姿の富士山ですが、登山となるとその印象は一変し、自分との戦いが始まります。ひたすら続く登り坂、だんだん空気も薄くなり、人によっては高山病で頭痛や吐き気も出てきます。さらに、山の上ではすべてのものが貴重で、水さえ自由には使えません。手を洗うことも、水道から水を飲むこともできません。トイレも少なく、有料で、水洗式ではありません。数少ない山小屋の売店では500mLの水が５００円前後するほど何もかも高いのです。山頂でご来光を見るために、私たちは８合目の山小屋で夕食と仮眠をとりました。夕食のカレーは、量は多くなく、お茶もコップ半分ほど。当然おかわりはありません。一口一口を心からありがたくいただき、今まで食べたカレーの中で一番おいしいね！と皆で話しながらいただきました。もちろんシャワーはありません。登山で汚れた服装のまま、硬い木の棚のような場所で生徒も教員も一緒に横になります。気温は、７℃程でとても寒かったです。でも、暖房はなく、あるのは寝袋1枚。疲れているのにぐっすり寝ることはできないし、電気もほんの小さな豆電球のみ。まるで、何十年も前の生活のようでした。でも、不二聖心の生徒から不満やわがままを言う声はまったく聞こえてきませんでした。</div> <div>　この苦しく不自由な環境こそが、私たちに大切な気付きを与えてくれました。まず、「当たり前」がいかにありがたいか、ということです。水、トイレ、布団、屋根など、日本に住む私たちにとって当たり前にあるものは、生きていくために必要で、大切に使わせてもらわなければいけないということに改めて気づかされました。また、過酷な環境のなか、「大丈夫？」という友達の声掛けや、すれ違う人の「あと少しだよ、頑張れ」という挨拶。その何気ない一言が、本当に支えになりました。皆で歯を食いしばり、励ましあいながら、登る先には、刻々と変わる景色が待っていました。澄み切った空気、手が届きそうなほどの星の美しさ、太陽の光の温かさ、そして空の青さ。普段は当たり前すぎて、何も感じないことが、苦しさを乗り越えた先だからこそ味わえる、最高の景色と達成感になりました。</div> <div>　不二聖心の生徒たちは、苦しい中でも誰一人として弱音を吐きませんでした。それどころか、学年を超えて互いに声を掛け合い、体調を気遣う配慮がありました。寒そうにしている子に自分の上着を差し出す生徒。苦しそうにする子に携帯酸素を差し出す生徒。足取りが重い子の荷物を持ってあげる生徒。あちらこちらで「ありがとう」という言葉も聞こえました。</div> <div>マルコによる福音書やルカによる福音書に「やもめの献金」のお話が記されています。イエスは、金持ちたちが献金をするのに対し、貧しいやもめが、なけなしのお金であるレプトン銅貨二枚を捧げた姿を見て、こう言われました。</div><div></div> <div>　　「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は、有り余る中から入れたが、</div> <div>　　　この人は、乏しい中から、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」</div> <div>　　　　　　　　　　　　　　　　　　（マルコによる福音書12章41～44節、ルカによる福音書21章1～4節）</div> <div>&#160; 自分が豊かなときや余裕があるときに人に「どうぞ」と気遣うこと。それは素晴らしいことです。しかし、自分自身も同じように苦しく、乏しいなかで相手を思いやり、「どうぞ」と差し出せること。これこそが本当に尊い行いだと思います。不二聖心の生徒は、日頃からありがたさを感じられる心を持っています。だからこそ、極限の状況でも、自然と他者を思いやる気遣いができたのだと感じます。生徒たちが見せてくれた姿は、イエスが最も尊いと称賛したやもめの姿と重なるものでした。</div> <div>&#160; 便利なもので溢れている現代に、私たちは生きています。この富士山の環境も、今の時代、もっと便利にしようと思えばできるのかもしれません。でも、私は富士山はこのままがいいと強く思います。昔からこの形が守られ続けてきたことには意味があり、この環境こそが、私たちを大きく成長させてくれるのです。苦しさがあるからこそ、本当の成長があり、自分の欲を抑え、我慢することの大切さを、富士山は改めて教えてくれました。これは、私たちが日頃大切にしているWorld Smiles Lunchや、12月から始まるプラクティス、クリスマスチャリティセールの精神にも通じます。単に寄付をするだけでなく、少し我慢し、その思いを他者と共にする。そして、相手を笑顔にする。これこそが聖心の生徒のあるべき姿です。</div> <div>　引率として、富士登山の危険性も十分に感じていましたし、久しぶりの実施ということもあり、不安な気持ちも大きかったのも事実です。だからこそ、生徒の姿、行いに本当に力をもらいましたし、心から感動しました。今回のメンバーが特別ではなく、「不二聖心の生徒たちなら、誰を連れて行っても、このように行動できる」と自信をもって言えます。雄大な富士山に見守られながら、皆さんがこれほど豊かに育ってくれていること、そのような教育に携わることができていることを、心から嬉しく、そして誇りに思っています。</div> <div></div> <div style="text-align: right;">Y.O.（保健体育科）</div> <div style="text-align: right;"></div></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96057/">
<title>2025年10月29日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96057/</link>
<description>&#160;これから宗教朝礼を始めます
　今週はいよいよ秋のつどいがありますね。発表系クラブの皆さんは夏休みくらいから、もしかするともっと前から準備を始め、その練習の成果をたくさんの人にお見せする日になります。秋のつどい委員の方々もテーマやプログラムの作成など、かなり前から動き、毎日のように遅くまで頑張っています。先週の準備日には、生活向上委員の方から、お客様をおもてなしする心や姿勢などについてもお話があり、スムーズにそして来校されるお客様に対して気持ちよく過ごしていただけるようにと、考えてくださっているのを感じました。本当にたくさんの人たちがどうしたら、よりいいものにすることができるかを想像し、努力した成果が現れる日になります。
　ところで皆さんは何か新しいことを始めるときに、どうしたらいいのか、何から始めたらいいのかと分からなくて悩んだ経験はないでしょうか。きっと、考えても分からなくて疲れてしまい、チャレンジすることをあきらめてしまったという人もいるのではないかと思います。私自身も、そんなことはたくさんあります。でももし、皆さんの周りに、聞ける人がいたらどうでしょう。秋のつどいも、４月に全く分からずに秋のつどい委員になったという方がいたかもしれません。しかし、担当の先生方や上級生がいらっしゃるので、安心してすぐに一員として仕事ができ、今に至っているのではないでしょうか。これは、秋のつどいだけではありません。何をするにしても経験してきた人が周りにいた場合、不安な気持ちがあったとしても、安心して参加し、たくさんのことにチャレンジできる機会を失うということがなくなります。
　このことは、見方を変えると経験を積んできた人たちには、次の世代に伝えるという責任が出てきます。中学３年生、高校３年生はそれぞれ最上級生として下級生にたくさんのことを教えていかなければなりません。教えるということは、教える側の姿勢も問われます。適当な姿勢や何となくの指示では上手に伝えることはできません。準備などで、締め切り日を守ってもらわないとその先に進められないことがあったとします。その場合、きっと、伝える側は、「絶対」という気持ちを込めて伝えると思います。そのとき伝える側の人が日常生活のなかで期日を守らず、提出物が適当だったとしたら、強く伝えることはできるでしょうか。きっと説得力が不足してしまうと思います。身だしなみに関しても同じです。注意をする側が、きちんとした身だしなみをしていなかったら、きっと注意をされた側は、聞き流してしまうと思います。上に立つ、自分の経験を後世に伝えていくということは伝える側の姿勢や態度、人格が問われてくるのです。上級生にとっては耳の痛い話だったかもしれませんが、これは決して上級生がしっかりしなくてはならないということを伝えたいのではありません。
　どんなに自分に厳しく、完璧にできているという人でも、声には出さなくても不安や心配を抱えていると思います。もしかするとそんな人ほど、その思いは強いかもしれません。こんなに頑張っているのに思い通りにならない、こんなに一生懸命やっているのに、ちょっとした食い違いで仲間と意見の対立になってしまう、と感情があふれて来てしまうことは絶対にあります。そして失敗した、こうしなければよかった、と反省の気持ちになってしまうと思います。でもそれは長い目で見ると、全然失敗や間違いなんかではありません。逆に成長している証拠なのです。上級生は以前は、下級生と呼ばれる存在で、その時にたくさんのことを上級生から学び、そして挑戦していくというハードルを乗り越えていける力、つまり自信を身につけているのです。その心の強さがあるからこそ、今こうして自信をもって大きな行事に立ち向かっていけている証拠なのだと思います。自分では、私のせいで・・・と感じたり、自分がもっとこうしていればこうはならなかったんじゃないか、と自分を責めたくなってしまうこともあると思います。挑戦していくとは、苦しいと感じることはあって当然です。上級生として、悔しい思いをすることはあります。けれど、それは決して無駄なことではないのです。むしろ、自分の限界に挑戦し、成長している証なのです。だから、上級生の皆さんは、失敗を恐れずに一歩を踏み出すこと、このことこそが、次の自分をつくる力になっているのです。
　秋のつどいは、この話を聞いてくれているみなさんにとって、そんな挑戦の積み重ねの場でもあると思います。不二聖心の在校生、皆さん一人ひとりの努力が、誰かの勇気になり、次の挑戦への背中を押すことになるのです。だからこそ、どうか自分を信じて、最後までやり抜いてください。良い発表、良い展示、良いおもてなしをできるように細かい気配りをしてほしいと思います。秋のつどいだけでなく、これからもいろいろなことに挑戦することを恐れずに、自分の力を信じて、全力で頑張って行きましょう。皆さんの姿は、きっと誰かの希望になっていきます。これで宗教朝礼を終わります。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
Y.M（数学科）
</description>
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<dc:date>2025-10-29T14:00:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176231891620028300" class="cms-content-parts-sin176231891620042200"><p>&#160;これから宗教朝礼を始めます</p>
<div>　今週はいよいよ秋のつどいがありますね。発表系クラブの皆さんは夏休みくらいから、もしかするともっと前から準備を始め、その練習の成果をたくさんの人にお見せする日になります。秋のつどい委員の方々もテーマやプログラムの作成など、かなり前から動き、毎日のように遅くまで頑張っています。先週の準備日には、生活向上委員の方から、お客様をおもてなしする心や姿勢などについてもお話があり、スムーズにそして来校されるお客様に対して気持ちよく過ごしていただけるようにと、考えてくださっているのを感じました。本当にたくさんの人たちがどうしたら、よりいいものにすることができるかを想像し、努力した成果が現れる日になります。</div>
<div>　ところで皆さんは何か新しいことを始めるときに、どうしたらいいのか、何から始めたらいいのかと分からなくて悩んだ経験はないでしょうか。きっと、考えても分からなくて疲れてしまい、チャレンジすることをあきらめてしまったという人もいるのではないかと思います。私自身も、そんなことはたくさんあります。でももし、皆さんの周りに、聞ける人がいたらどうでしょう。秋のつどいも、４月に全く分からずに秋のつどい委員になったという方がいたかもしれません。しかし、担当の先生方や上級生がいらっしゃるので、安心してすぐに一員として仕事ができ、今に至っているのではないでしょうか。これは、秋のつどいだけではありません。何をするにしても経験してきた人が周りにいた場合、不安な気持ちがあったとしても、安心して参加し、たくさんのことにチャレンジできる機会を失うということがなくなります。</div>
<div>　このことは、見方を変えると経験を積んできた人たちには、次の世代に伝えるという責任が出てきます。中学３年生、高校３年生はそれぞれ最上級生として下級生にたくさんのことを教えていかなければなりません。教えるということは、教える側の姿勢も問われます。適当な姿勢や何となくの指示では上手に伝えることはできません。準備などで、締め切り日を守ってもらわないとその先に進められないことがあったとします。その場合、きっと、伝える側は、「絶対」という気持ちを込めて伝えると思います。そのとき伝える側の人が日常生活のなかで期日を守らず、提出物が適当だったとしたら、強く伝えることはできるでしょうか。きっと説得力が不足してしまうと思います。身だしなみに関しても同じです。注意をする側が、きちんとした身だしなみをしていなかったら、きっと注意をされた側は、聞き流してしまうと思います。上に立つ、自分の経験を後世に伝えていくということは伝える側の姿勢や態度、人格が問われてくるのです。上級生にとっては耳の痛い話だったかもしれませんが、これは決して上級生がしっかりしなくてはならないということを伝えたいのではありません。</div>
<div>　どんなに自分に厳しく、完璧にできているという人でも、声には出さなくても不安や心配を抱えていると思います。もしかするとそんな人ほど、その思いは強いかもしれません。こんなに頑張っているのに思い通りにならない、こんなに一生懸命やっているのに、ちょっとした食い違いで仲間と意見の対立になってしまう、と感情があふれて来てしまうことは絶対にあります。そして失敗した、こうしなければよかった、と反省の気持ちになってしまうと思います。でもそれは長い目で見ると、全然失敗や間違いなんかではありません。逆に成長している証拠なのです。上級生は以前は、下級生と呼ばれる存在で、その時にたくさんのことを上級生から学び、そして挑戦していくというハードルを乗り越えていける力、つまり自信を身につけているのです。その心の強さがあるからこそ、今こうして自信をもって大きな行事に立ち向かっていけている証拠なのだと思います。自分では、私のせいで・・・と感じたり、自分がもっとこうしていればこうはならなかったんじゃないか、と自分を責めたくなってしまうこともあると思います。挑戦していくとは、苦しいと感じることはあって当然です。上級生として、悔しい思いをすることはあります。けれど、それは決して無駄なことではないのです。むしろ、自分の限界に挑戦し、成長している証なのです。だから、上級生の皆さんは、失敗を恐れずに一歩を踏み出すこと、このことこそが、次の自分をつくる力になっているのです。</div>
<div>　秋のつどいは、この話を聞いてくれているみなさんにとって、そんな挑戦の積み重ねの場でもあると思います。不二聖心の在校生、皆さん一人ひとりの努力が、誰かの勇気になり、次の挑戦への背中を押すことになるのです。だからこそ、どうか自分を信じて、最後までやり抜いてください。良い発表、良い展示、良いおもてなしをできるように細かい気配りをしてほしいと思います。秋のつどいだけでなく、これからもいろいろなことに挑戦することを恐れずに、自分の力を信じて、全力で頑張って行きましょう。皆さんの姿は、きっと誰かの希望になっていきます。これで宗教朝礼を終わります。</div>
<div style="text-align: right;">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
Y.M（数学科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96055/">
<title>2025年10月22日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96055/</link>
<description>
&#160;皆さんは、おこづかいやお年玉をどんなことに使っていますか？休み時間にお友達とジュースを買ったり、休日にアクセサリーや洋服を買ったり、テーマパークで楽しむために使うこともあるかもしれませんね。好きな本を買うことや、参考書を買ったり、自分の将来のために使っている人もいるかもしれません。
　私も社会人になってから、好きな洋服やアクセサリーを買ったり、その日の気分で食べたいものを自由に選べるようになりました。そして、私も皆さんと同じように好きな勉強をするために参考書を買ったりもします。最近では韓国語の参考書を買ったりと、世界を広げるために使ったりもしています。お金は自分の視野を広げてくれる大切なものであると日々感じ、大切に使っています。
　でも、「お金って本当はどう使うのが大切なんだろう？」と考えるきっかけになった出来事が、小学生のときにありました。私は小学校3年生のときに、父の仕事の都合で転校することになりました。新しい学校になじめず、さみしい思いをしていたとき、綾乃ちゃんというクラスメートが声をかけてくれました。私たちは放課後に公園で一緒に遊ぶようになり、お菓子を持ち寄ったり、携帯ゲームをしたりして楽しい時間を過ごしました。
　ある夏の日、母が私と綾乃ちゃんの分として、つぶつぶミカンジュースを2本持たせてくれました。公園に行くと、綾乃ちゃんは大きなポテトチップスを持ってきてくれていて、私たちはお菓子とジュースを交換して食べていました。
　しばらくすると、クラスの男の子2人がやってきて、「そのジュース飲みたい！」と言いました。私のおうちは公園のすぐ近くにあったので、私はうれしくなり、母に「友達が増えたから、ジュースをもう2本欲しい」とお願いし、母は家の中から持ってきてくれました。
　でも汗をかいていた男の子たちはすぐに飲み干し、「おかわりちょうだい！」と何度も何度も言ってきました。そのたびに私は母にジュースが欲しいと頼みに行きましたが、最後には母が「もうあげられないよ」と言いました。
　その夜、母は私にこう話してくれました。「このジュースは私やお父さんが苦しい思いや辛い思いをして、手に入れたお金で買っているものなんだよ。今は１円はとても小さなものに感じるかもしれないけれども、一円は汗一滴の苦労でやっと得られるものなんだよ。」
私はその言葉を聞いて、家族の努力に甘えて、無意識にお金を湯水のように使っていたことを恥ずかしく感じました。それ以来、お金はただ使うものではなく、大切に使うべきものだと学ぶことができました。
　そして今、私は温情の会委員会の顧問として、寄付やボランティアと関わる機会も増えました。寄付とは、誰かのために自分の何かを差し出すことです。たとえば、World Smiles Lunch ではその日のおかずの100円分で、自分の楽しみをちょっと我慢して、誰かを助けることができます。その100円が、誰かの心をあたためたり、命を守るきっかけになったりすることもあります。
最近では、寄付の方法もいろいろあります。電子マネーでタッチするだけでできる寄付や、特定の商品を買うことで一部が寄付になる仕組みもあります。しかし、World Smiles Lunchで行っている封筒に100円を入れることや、募金箱に入れるという昔ながらの方法も、そこに誰かがつながっているという実感を持つことができる大切な手段です。
　また、寄付とはお金だけではありません。毛布を編んで寒さに苦しむ人に届けることも、誰かを助ける立派な寄付のひとつです。自分にできる形で寄付をする。それがとても大切だと私は思います。
　そして、お金や物を寄付するだけではなく、どこに寄付するのか、それがどう役立っているのかということも、これからのみなさんにぜひ考えてほしいと思います。寄付の先には、困っている誰かが必ずいます。寄付とは、思いやりややさしさを届ける方法です。自分にとって無理のない形で、でも心を込めて差し出すことが、誰かの希望や安心につながっていきます。ぜひこれから、自分にできる寄付って何だろう、誰の役に立てるだろうと、考えながら寄付やボランティアをしてみてください。

K.M.(理科)
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<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-10-23T06:50:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176117003338574200" class="cms-content-parts-sin176117003338584800">
<p>&#160;皆さんは、おこづかいやお年玉をどんなことに使っていますか？休み時間にお友達とジュースを買ったり、休日にアクセサリーや洋服を買ったり、テーマパークで楽しむために使うこともあるかもしれませんね。好きな本を買うことや、参考書を買ったり、自分の将来のために使っている人もいるかもしれません。</p>
<div>　私も社会人になってから、好きな洋服やアクセサリーを買ったり、その日の気分で食べたいものを自由に選べるようになりました。そして、私も皆さんと同じように好きな勉強をするために参考書を買ったりもします。最近では韓国語の参考書を買ったりと、世界を広げるために使ったりもしています。お金は自分の視野を広げてくれる大切なものであると日々感じ、大切に使っています。</div>
<div>　でも、「お金って本当はどう使うのが大切なんだろう？」と考えるきっかけになった出来事が、小学生のときにありました。私は小学校3年生のときに、父の仕事の都合で転校することになりました。新しい学校になじめず、さみしい思いをしていたとき、綾乃ちゃんというクラスメートが声をかけてくれました。私たちは放課後に公園で一緒に遊ぶようになり、お菓子を持ち寄ったり、携帯ゲームをしたりして楽しい時間を過ごしました。</div>
<div>　ある夏の日、母が私と綾乃ちゃんの分として、つぶつぶミカンジュースを2本持たせてくれました。公園に行くと、綾乃ちゃんは大きなポテトチップスを持ってきてくれていて、私たちはお菓子とジュースを交換して食べていました。</div>
<div>　しばらくすると、クラスの男の子2人がやってきて、「そのジュース飲みたい！」と言いました。私のおうちは公園のすぐ近くにあったので、私はうれしくなり、母に「友達が増えたから、ジュースをもう2本欲しい」とお願いし、母は家の中から持ってきてくれました。</div>
<div>　でも汗をかいていた男の子たちはすぐに飲み干し、「おかわりちょうだい！」と何度も何度も言ってきました。そのたびに私は母にジュースが欲しいと頼みに行きましたが、最後には母が「もうあげられないよ」と言いました。</div>
<div>　その夜、母は私にこう話してくれました。「このジュースは私やお父さんが苦しい思いや辛い思いをして、手に入れたお金で買っているものなんだよ。今は１円はとても小さなものに感じるかもしれないけれども、一円は汗一滴の苦労でやっと得られるものなんだよ。」</div>
<div>私はその言葉を聞いて、家族の努力に甘えて、無意識にお金を湯水のように使っていたことを恥ずかしく感じました。それ以来、お金はただ使うものではなく、大切に使うべきものだと学ぶことができました。</div>
<div>　そして今、私は温情の会委員会の顧問として、寄付やボランティアと関わる機会も増えました。寄付とは、誰かのために自分の何かを差し出すことです。たとえば、World Smiles Lunch ではその日のおかずの100円分で、自分の楽しみをちょっと我慢して、誰かを助けることができます。その100円が、誰かの心をあたためたり、命を守るきっかけになったりすることもあります。</div>
<div>最近では、寄付の方法もいろいろあります。電子マネーでタッチするだけでできる寄付や、特定の商品を買うことで一部が寄付になる仕組みもあります。しかし、World Smiles Lunchで行っている封筒に100円を入れることや、募金箱に入れるという昔ながらの方法も、そこに誰かがつながっているという実感を持つことができる大切な手段です。</div>
<div>　また、寄付とはお金だけではありません。毛布を編んで寒さに苦しむ人に届けることも、誰かを助ける立派な寄付のひとつです。自分にできる形で寄付をする。それがとても大切だと私は思います。</div>
<div>　そして、お金や物を寄付するだけではなく、どこに寄付するのか、それがどう役立っているのかということも、これからのみなさんにぜひ考えてほしいと思います。寄付の先には、困っている誰かが必ずいます。寄付とは、思いやりややさしさを届ける方法です。自分にとって無理のない形で、でも心を込めて差し出すことが、誰かの希望や安心につながっていきます。ぜひこれから、自分にできる寄付って何だろう、誰の役に立てるだろうと、考えながら寄付やボランティアをしてみてください。</div>
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<div style="text-align: right;">K.M.(理科)</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96050/">
<title>2025年10月8日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96050/</link>
<description>&#160;　今年は戦後何年ですか？　そう、80年です。私の母は1941年生まれ、今年84歳になります。太平洋戦争が始まった年の生まれです。戦争中の記憶はほとんどなく、母の昔話は終戦後のことがほとんどです。母が生まれたころ、一家は東京に暮らしていたそうです。父親は小学校の教員でした。
　戦争が始まり、戦火を逃れて実家のある沼津に疎開し、そのまま沼津で過ごしました。母の兄弟は姉が2人、弟が一人の4人兄弟でした。娘3人は現在、92歳、88歳と二人とも元気に暮らしています。弟は、終戦の4年後、1949年に疫痢という病気で亡くなりました。4歳でした。
　疫痢というのは、赤痢菌が腸に感染することが原因で起こる感染症です。赤痢菌が混入した食べ物や飲み物を食べたり飲んだりして感染するそうで、疫痢は小児にみられる細菌性赤痢の重症型で、循環不全（血圧の低下、意識障害など）などを起こし、短期間に死亡するそうなのです。
　当時、赤痢や疫痢で亡くなる人が多かったと言います。衛生状況が現在とは違いますから、感染も広がりやすかったのでしょう。感染経路は一番上の姉からでした。その時、別の病気のため入院していた姉（私にとっての伯母）が知らないうちに病院内で、赤痢に感染してしまっていました。現在なら、院内感染と言われて大きな問題になる事案でしょう。伯母の感染はお見舞いの後に分かりました。帰宅して数日で母と弟も発症し、幼かった弟はあっという間に容態が悪化したと言います。父親の友人の医師に診ていただき、天井からリンゲルという当時高かった薬を点滴していたことを母は覚えていると言います。残念ながら、治療は間に合いませんでした。自宅では母も赤痢になってしまい、入院・隔離が必要な状態でした。
　みなさんもご家族を亡くした経験をもつ人もいるでしょう。葬儀を行うために、さまざまな準備が必要です。このとき、祖父母は初めての男の子として大切に育てていた息子の葬儀を行わなければなりませんでした。その上、１番上の娘は入院中、３番目の娘（母）を入院させる必要がありました。祖父は沼津市今沢というJR片浜駅近くから、清水町長沢にある国立病院（現在の静岡医療センター）まで母を連れて行くことになりました。距離は８キロです。母も具合が悪くなっているので歩いてはいけません。どうやって、祖父は母を病院へ連れて行ったのでしょう？　タクシー？救急車？　まだそのようなインフラは整備されていませんでした。自家用車も普及していません。（祖父は生涯運転免許をもたず、移動は専ら自転車でした）　荷車に布団を敷いて、母を乗せて８キロの道を進んだのです。荷車って何？と思う人もいるでしょう。リヤカーは分かりますか？荷物を運ぶために金属製のパイプと空気入りタイヤで構成された２輪の荷車で、人もしくは自転車、オートバイによって牽引して使われます。リヤカーと違うのはタイヤ部分です。リヤカーは車輪がタイヤでできています。自転車のホイールと同じような構造。荷車はもっと古い形で、木の車輪を保護するために鉄の輪がついているものだそうです。道路の舗装はありません。でこぼこの道をクッションもない荷車に母を乗せて、亡くなった息子を自宅に置いて祖父は出かけました。帰りも空になった荷車を引いて、自宅に戻りました。３～４時間かかったのではないかと想像します。
　お葬式を行うためにはお金が必要です。荼毘に付したりするためですが、祖父母にはそのお金がなかったと言います。祖父は自宅に戻ると、沼津駅へ向かい、闇市で自分の革靴を売りに行ったのだそうです。５キロの距離を歩いて往復。当時、駅の前、今のバスターミナル、西武百貨店のあたりに闇市があったのだそうです。沼津駅を知っているみなさん、70～80年前は空襲によって駅付近も多くの建物が焼失し、闇市もあったことを想像してみてください。子どものお葬式を行うために、お金になりそうなものとして革靴を売るということから、当時の生活が決して楽ではなかったことがうかがわれます。
　一方、祖母は裁縫も得意でした。母の弟は上3人が女の子であったので、普段は女の子の服をお下がりで着ていたそうです。外出するときのために1着だけ男の子の服が用意され、出かけるたびにそれに着替えていたそうです。亡くなった息子のために着せる着物も、もちろんありませんでした。祖母はせめて男物の着物を着せてやりたいと、夫の着物をほどき、子どもの着物になるよう布を裁ち、一晩かけて着物を縫ったのだそうです。祖母の気持ちはどんなであったか？想像するだにつらく悲しいものです。
　弟の葬儀には、母は参列することはできませんでした。約20日間の入院の後、退院して自宅に戻ったとき、母親から「大切な息子ではなく、娘が残った」という意味の、心ない言葉をかけられたそうです。小学2年生の女の子に、子どもを失った親の悲しみを受けとめる力はありません。この言葉は母の心に深い傷となりました。年齢も兄弟の中で最も近く、一緒に遊ぶことの多かった弟を失った母自身の悲しみもあったはずです。弟の死は、その後家族の中でタブーとなっていったと言います。

　これは市井のある家庭の物語です。でも、みなさんのおじいさま、おばあさま、ひいおじいさま、ひいおばあさまにも大なり小なり戦中・戦後を生きてきた物語があるはずです。語らない方もいらっしゃるでしょう。でも、お話を聞ける人は是非、お聞きしてみてください。あなたの身近な人のお話は、きっと訴えるものを持っているはずです。

　各地で紛争はあるけれど第二次世界大戦のような大きなものは過去のものであり、その記憶を忘れてはならないーー10年くらい前までなら、私はそう思っていました。でも今は違います。過去の記憶が、現在に重なります。世界の状況を考えると戦争は新しい形となって、深刻さも比較にならないほどになっています。無人機やドローンによる攻撃、ミサイルの正確な爆撃、ガザの飢餓で痩せ細った人々、ジェノサイトと認定されても改善されることない現実、ーーそれらを私たちはほぼリアルタイムで知ることができます。音・映像によって。一方でイスラエル・ガザ、ウクライナ・ロシア、それぞれの立場の人々の声も知ることができ、憎しみの連鎖、立場の違いから来る考えや思いの乖離があって、現実の複雑性を如実に語っています。

　平和への道は険しいけれど、私たちは知ること・思いを寄せることを忘れてはならないと思います。今年は希望の聖年。｢希望｣を心に、昨日始業式で蒔苗先生がお話しくださった映画『長崎―閃光の影で―』に出てくる看護学生の言葉｢まっすぐ生きたい」という道を探していきましょう。


M.H.（国語科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-10-08T12:05:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin176067056143473000" class="cms-content-parts-sin176067056143483900"><p>&#160;　今年は戦後何年ですか？　そう、80年です。私の母は1941年生まれ、今年84歳になります。太平洋戦争が始まった年の生まれです。戦争中の記憶はほとんどなく、母の昔話は終戦後のことがほとんどです。母が生まれたころ、一家は東京に暮らしていたそうです。父親は小学校の教員でした。</p>
<div>　戦争が始まり、戦火を逃れて実家のある沼津に疎開し、そのまま沼津で過ごしました。母の兄弟は姉が2人、弟が一人の4人兄弟でした。娘3人は現在、92歳、88歳と二人とも元気に暮らしています。弟は、終戦の4年後、1949年に疫痢という病気で亡くなりました。4歳でした。</div>
<div>　疫痢というのは、赤痢菌が腸に感染することが原因で起こる感染症です。赤痢菌が混入した食べ物や飲み物を食べたり飲んだりして感染するそうで、疫痢は小児にみられる細菌性赤痢の重症型で、循環不全（血圧の低下、意識障害など）などを起こし、短期間に死亡するそうなのです。</div>
<div>　当時、赤痢や疫痢で亡くなる人が多かったと言います。衛生状況が現在とは違いますから、感染も広がりやすかったのでしょう。感染経路は一番上の姉からでした。その時、別の病気のため入院していた姉（私にとっての伯母）が知らないうちに病院内で、赤痢に感染してしまっていました。現在なら、院内感染と言われて大きな問題になる事案でしょう。伯母の感染はお見舞いの後に分かりました。帰宅して数日で母と弟も発症し、幼かった弟はあっという間に容態が悪化したと言います。父親の友人の医師に診ていただき、天井からリンゲルという当時高かった薬を点滴していたことを母は覚えていると言います。残念ながら、治療は間に合いませんでした。自宅では母も赤痢になってしまい、入院・隔離が必要な状態でした。</div>
<div>　みなさんもご家族を亡くした経験をもつ人もいるでしょう。葬儀を行うために、さまざまな準備が必要です。このとき、祖父母は初めての男の子として大切に育てていた息子の葬儀を行わなければなりませんでした。その上、１番上の娘は入院中、３番目の娘（母）を入院させる必要がありました。祖父は沼津市今沢というJR片浜駅近くから、清水町長沢にある国立病院（現在の静岡医療センター）まで母を連れて行くことになりました。距離は８キロです。母も具合が悪くなっているので歩いてはいけません。どうやって、祖父は母を病院へ連れて行ったのでしょう？　タクシー？救急車？　まだそのようなインフラは整備されていませんでした。自家用車も普及していません。（祖父は生涯運転免許をもたず、移動は専ら自転車でした）　荷車に布団を敷いて、母を乗せて８キロの道を進んだのです。荷車って何？と思う人もいるでしょう。リヤカーは分かりますか？荷物を運ぶために金属製のパイプと空気入りタイヤで構成された２輪の荷車で、人もしくは自転車、オートバイによって牽引して使われます。リヤカーと違うのはタイヤ部分です。リヤカーは車輪がタイヤでできています。自転車のホイールと同じような構造。荷車はもっと古い形で、木の車輪を保護するために鉄の輪がついているものだそうです。道路の舗装はありません。でこぼこの道をクッションもない荷車に母を乗せて、亡くなった息子を自宅に置いて祖父は出かけました。帰りも空になった荷車を引いて、自宅に戻りました。３～４時間かかったのではないかと想像します。</div>
<div>　お葬式を行うためにはお金が必要です。荼毘に付したりするためですが、祖父母にはそのお金がなかったと言います。祖父は自宅に戻ると、沼津駅へ向かい、闇市で自分の革靴を売りに行ったのだそうです。５キロの距離を歩いて往復。当時、駅の前、今のバスターミナル、西武百貨店のあたりに闇市があったのだそうです。沼津駅を知っているみなさん、70～80年前は空襲によって駅付近も多くの建物が焼失し、闇市もあったことを想像してみてください。子どものお葬式を行うために、お金になりそうなものとして革靴を売るということから、当時の生活が決して楽ではなかったことがうかがわれます。</div>
<div>　一方、祖母は裁縫も得意でした。母の弟は上3人が女の子であったので、普段は女の子の服をお下がりで着ていたそうです。外出するときのために1着だけ男の子の服が用意され、出かけるたびにそれに着替えていたそうです。亡くなった息子のために着せる着物も、もちろんありませんでした。祖母はせめて男物の着物を着せてやりたいと、夫の着物をほどき、子どもの着物になるよう布を裁ち、一晩かけて着物を縫ったのだそうです。祖母の気持ちはどんなであったか？想像するだにつらく悲しいものです。</div>
<div>　弟の葬儀には、母は参列することはできませんでした。約20日間の入院の後、退院して自宅に戻ったとき、母親から「大切な息子ではなく、娘が残った」という意味の、心ない言葉をかけられたそうです。小学2年生の女の子に、子どもを失った親の悲しみを受けとめる力はありません。この言葉は母の心に深い傷となりました。年齢も兄弟の中で最も近く、一緒に遊ぶことの多かった弟を失った母自身の悲しみもあったはずです。弟の死は、その後家族の中でタブーとなっていったと言います。</div>
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<div>　これは市井のある家庭の物語です。でも、みなさんのおじいさま、おばあさま、ひいおじいさま、ひいおばあさまにも大なり小なり戦中・戦後を生きてきた物語があるはずです。語らない方もいらっしゃるでしょう。でも、お話を聞ける人は是非、お聞きしてみてください。あなたの身近な人のお話は、きっと訴えるものを持っているはずです。</div>
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<div>　各地で紛争はあるけれど第二次世界大戦のような大きなものは過去のものであり、その記憶を忘れてはならないーー10年くらい前までなら、私はそう思っていました。でも今は違います。過去の記憶が、現在に重なります。世界の状況を考えると戦争は新しい形となって、深刻さも比較にならないほどになっています。無人機やドローンによる攻撃、ミサイルの正確な爆撃、ガザの飢餓で痩せ細った人々、ジェノサイトと認定されても改善されることない現実、ーーそれらを私たちはほぼリアルタイムで知ることができます。音・映像によって。一方でイスラエル・ガザ、ウクライナ・ロシア、それぞれの立場の人々の声も知ることができ、憎しみの連鎖、立場の違いから来る考えや思いの乖離があって、現実の複雑性を如実に語っています。</div>
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<div>　平和への道は険しいけれど、私たちは知ること・思いを寄せることを忘れてはならないと思います。今年は希望の聖年。｢希望｣を心に、昨日始業式で蒔苗先生がお話しくださった映画『長崎―閃光の影で―』に出てくる看護学生の言葉｢まっすぐ生きたい」という道を探していきましょう。</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96045/">
<title>2025年9月24日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96045/</link>
<description>&#160;これから宗教朝礼を始めます。
　最近の楽しみの一つにオートバイの修理があります。今年、これまで乗っていたバイクを売って、新しくホンダの小型バイクをネットオークションで買いました。そのオートバイは40年以上前に製造されたモデルで、商品の説明欄によると、この20年ほどは倉庫で放置されていて、今では動かないということでした。動くバイクを売って、壊れたバイクを買うというとちょっと意味が分からないかもしれませんが、もともと壊れたものを修理するのが好きで、いつかバイクも直してみたいと思っていたので、今年挑戦することにしました。ただ、実際に届いたものを見ると、思っていた以上に劣化していて、ちょっと無理かもしれないと気後れしたのを覚えています。それでも、Youtubeなどで勉強しながら、ブレーキをばらして磨いたり、タイヤを外してベアリングを交換したりなど、１つ１つ直していくと、少しずつ形になっていきました。そして、肝心のエンジンですが、キャブレターというガソリンと空気を混ぜるパーツを綺麗にし、スイッチを押すと、トコトコと小気味良い音を立てながら動き出しました。40年前に作られて、20年も放置されたエンジンが、今でもちゃんと動くということに感動し、こうしたものづくりにどのような思いが込められているのか興味がわき、ホンダの創業者である本田宗一郎氏について調べてみることにしました。宗一郎氏は1906年に現在の浜松市天竜区の村で、鍛冶屋の長男として生まれました。小さいころから機械に興味を持ち、初めて見た自動車に魅せられて、その後16歳で単身上京し、自動車修理工場で働き始めます。自動車の修理工として順調に働いていましたが、関東大震災によって工場が全焼してしまいます。それでも、宗一郎氏は苦難の中で工場再建に貢献し、その技術を認められて22歳で独立、浜松に自動車修理工場を開業します。修理工場は評判も良く順調でした。しかし、宗一郎氏はただ人の作ったものを修理するのではなく、自らの手でものを生み出したいと、周囲の大反対にあいながらも、ピストンリングというエンジンの重要な部品をつくる会社を立ち上げます。しかし、ピストンリングの開発は失敗続きで、会社はたちまち倒産の危機に陥ってしまいます。知識不足を痛感した宗一郎氏は30歳にして現在の静岡大学工学部の夜間部へ入学し、熱心に研究をしました。そうして破産寸前のところで、ついにピストンリングの開発に成功し、会社は軌道に乗りました。しかし、また苦難が訪れます。太平洋戦争によって浜松の町は焼け野原となり、再びすべてを失ってしまったのです。そのような中でも、宗一郎氏は諦めませんでした。戦後の大変な中で人々の移動を少しでも楽にしてあげたいと、旧陸軍の無線機用の小型のエンジンを自転車に取り付けるアイデアを思いつきます。これがとても評判となり、続けてオリジナルのエンジンの開発も始めます。これがホンダのオートバイメーカーとしての始まりでした。その後、レースで世界一となるという夢に向けて開発を進め、世界のホンダとして発展していくことになります。こうしてみると、決して順風満帆な成功物語ではなく、いくつもの苦難にあい、失敗を重ねながらも、決してあきらめることなく、人の役に立ちたいと挑戦を続けた結果の成功であることが分かります。宗一郎氏は母校の小学校の創立100周年を記念し、次の言葉を贈りました。
　　「古くからの言い伝えに、『見たり、聞いたり、試したり』という言葉があるが、私は、この中で一番大切なことは試してみることだと思います。最近のようにラジオ、テレビなどが発達していると、見たり、聞いたりすることは非常に多いが、実際に試してみる人は少ないように思われます。ことに実行には失敗はつきものです。失敗したらなんで失敗したか、その原因をよく確かめること、つまり反省してみることが大切です。ふたたび同じ原因の失敗を繰り返すようでは、正しい反省をしていない証拠であり、　　　また成功に通ずることもありません。皆さんは失敗をおそれず、勇気を出して試してみる人になってください。」
　これは今から50年前に贈られた言葉ですが、SNSやAIが発達し、簡単に答えや結果が調べられてしまう現代こそ、実際にやってみる経験やそこから学ぶことの重要性がより高まっているように思います。不二聖心では先日発表されたイタリアのスピンオフ企業であるVISとの連携をはじめ、様々なサイエンスやテクノロジーに関連した大学や企業との連携が進んでいます。皆さんの中にも理科系の進路を目指そうと考えている方がますます増えていると感じます。理科の教員として大変うれしいことです。前教皇フランシスコが書かれた『ラウダート・シ』の中で、テクノロジーについて述べられている部分があります。その中で、教皇フランシスコはテクノロジーがもたらす恩恵を認め、科学者やエンジニアに謝意を示す一方で、無条件に科学を信奉し、すべてを解決できると過信することへの警鐘を鳴らしています。科学に支配されるのではなく、私たち人間が何が正しいかをしっかりと見極め、正しく用いていくことを求められています。理科の教員として、カトリック学校である不二聖心で学ばれた皆さんが、サイエンスやテクノロジーの世界で、真に価値あるものを見分けられる人として活躍されることを願っています。
これで宗教朝礼を終わります。

参考文献
那須田 稔 (1985)．『空とぶオートバイ: 本田宗一郎物語 (ひくまのノンフィクション 4)』ひくまの出版．
教皇フランシスコ (2015)．回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』カトリック中央協議会．

M.H.（理科）</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-09-24T09:30:00+09:00</dc:date>
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<div>　最近の楽しみの一つにオートバイの修理があります。今年、これまで乗っていたバイクを売って、新しくホンダの小型バイクをネットオークションで買いました。そのオートバイは40年以上前に製造されたモデルで、商品の説明欄によると、この20年ほどは倉庫で放置されていて、今では動かないということでした。動くバイクを売って、壊れたバイクを買うというとちょっと意味が分からないかもしれませんが、もともと壊れたものを修理するのが好きで、いつかバイクも直してみたいと思っていたので、今年挑戦することにしました。ただ、実際に届いたものを見ると、思っていた以上に劣化していて、ちょっと無理かもしれないと気後れしたのを覚えています。それでも、Youtubeなどで勉強しながら、ブレーキをばらして磨いたり、タイヤを外してベアリングを交換したりなど、１つ１つ直していくと、少しずつ形になっていきました。そして、肝心のエンジンですが、キャブレターというガソリンと空気を混ぜるパーツを綺麗にし、スイッチを押すと、トコトコと小気味良い音を立てながら動き出しました。40年前に作られて、20年も放置されたエンジンが、今でもちゃんと動くということに感動し、こうしたものづくりにどのような思いが込められているのか興味がわき、ホンダの創業者である本田宗一郎氏について調べてみることにしました。宗一郎氏は1906年に現在の浜松市天竜区の村で、鍛冶屋の長男として生まれました。小さいころから機械に興味を持ち、初めて見た自動車に魅せられて、その後16歳で単身上京し、自動車修理工場で働き始めます。自動車の修理工として順調に働いていましたが、関東大震災によって工場が全焼してしまいます。それでも、宗一郎氏は苦難の中で工場再建に貢献し、その技術を認められて22歳で独立、浜松に自動車修理工場を開業します。修理工場は評判も良く順調でした。しかし、宗一郎氏はただ人の作ったものを修理するのではなく、自らの手でものを生み出したいと、周囲の大反対にあいながらも、ピストンリングというエンジンの重要な部品をつくる会社を立ち上げます。しかし、ピストンリングの開発は失敗続きで、会社はたちまち倒産の危機に陥ってしまいます。知識不足を痛感した宗一郎氏は30歳にして現在の静岡大学工学部の夜間部へ入学し、熱心に研究をしました。そうして破産寸前のところで、ついにピストンリングの開発に成功し、会社は軌道に乗りました。しかし、また苦難が訪れます。太平洋戦争によって浜松の町は焼け野原となり、再びすべてを失ってしまったのです。そのような中でも、宗一郎氏は諦めませんでした。戦後の大変な中で人々の移動を少しでも楽にしてあげたいと、旧陸軍の無線機用の小型のエンジンを自転車に取り付けるアイデアを思いつきます。これがとても評判となり、続けてオリジナルのエンジンの開発も始めます。これがホンダのオートバイメーカーとしての始まりでした。その後、レースで世界一となるという夢に向けて開発を進め、世界のホンダとして発展していくことになります。こうしてみると、決して順風満帆な成功物語ではなく、いくつもの苦難にあい、失敗を重ねながらも、決してあきらめることなく、人の役に立ちたいと挑戦を続けた結果の成功であることが分かります。宗一郎氏は母校の小学校の創立100周年を記念し、次の言葉を贈りました。</div>
<div>　　「古くからの言い伝えに、『見たり、聞いたり、試したり』という言葉があるが、私は、この中で一番大切なことは試してみることだと思います。最近のようにラジオ、テレビなどが発達していると、見たり、聞いたりすることは非常に多いが、実際に試してみる人は少ないように思われます。ことに実行には失敗はつきものです。失敗したらなんで失敗したか、その原因をよく確かめること、つまり反省してみることが大切です。ふたたび同じ原因の失敗を繰り返すようでは、正しい反省をしていない証拠であり、　　　また成功に通ずることもありません。皆さんは失敗をおそれず、勇気を出して試してみる人になってください。」</div>
<div>　これは今から50年前に贈られた言葉ですが、SNSやAIが発達し、簡単に答えや結果が調べられてしまう現代こそ、実際にやってみる経験やそこから学ぶことの重要性がより高まっているように思います。不二聖心では先日発表されたイタリアのスピンオフ企業であるVISとの連携をはじめ、様々なサイエンスやテクノロジーに関連した大学や企業との連携が進んでいます。皆さんの中にも理科系の進路を目指そうと考えている方がますます増えていると感じます。理科の教員として大変うれしいことです。前教皇フランシスコが書かれた『ラウダート・シ』の中で、テクノロジーについて述べられている部分があります。その中で、教皇フランシスコはテクノロジーがもたらす恩恵を認め、科学者やエンジニアに謝意を示す一方で、無条件に科学を信奉し、すべてを解決できると過信することへの警鐘を鳴らしています。科学に支配されるのではなく、私たち人間が何が正しいかをしっかりと見極め、正しく用いていくことを求められています。理科の教員として、カトリック学校である不二聖心で学ばれた皆さんが、サイエンスやテクノロジーの世界で、真に価値あるものを見分けられる人として活躍されることを願っています。</div>
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<div>参考文献</div>
<div>那須田 稔 (1985)．『空とぶオートバイ: 本田宗一郎物語 (ひくまのノンフィクション 4)』ひくまの出版．</div>
<div>教皇フランシスコ (2015)．回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』カトリック中央協議会．</div>
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<div style="text-align: right;">M.H.（理科）</div></div>
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<title>2025年9月17日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96043/</link>
<description>&#160;　&#160;私たちは今、二つの特別な時を過ごしています。一つは今年が聖年※1というカトリックの特別な年であること。もう一つはこの9月から翌月の10月4日まで「すべてのいのちを守る月間」※2あるいは「被造物の季節」とも呼ばれる、神様からつくられた生き物や環境のことをより意識して過ごそうという期間であることです。 　今回の聖年には「希望の巡礼者」というテーマがあります。みなさんがみこころの祝日のミサのときに歌った曲、つまり今流れている聖歌はこの「希望の巡礼者」をテーマにした曲です。旅に出ることは日常から離れることによって新鮮なまなざしで自分を見直し、人生の意味を探し求めることができます。そしてテーマのキーワードである「希望」。戦争や難民問題、また気候変動などの環境的な課題も多く「希望」を持ちにくくなっている今の時代に、私たちは希望を持つことができているでしょうか。「誰かが何かしてくれる」「自分だけでもこうなりたい」というような自己中心的で楽観的な願望ではなく、他者との関係性の中で育まれ、そこにいのちの種があると信じることができるときに希望をもつことを神様は望まれていると言われています。辛いときでもみんなで苦労して、知恵を出し合い、協力し合っていることの中に意味を見いだせるとき、希望がそこにあるのではないかと思います。夏休みに先生たちと聖心の学校の建学の精神と今後私たちがどのように生きていくべきかを考える研修がありました。グループディスカッションもあり、私のグループは「寛容と喜びに生きる人であること」がテーマでした。そこには、物惜しみしない心や感謝を大切にする姿勢、静寂や沈黙を大切にすることで周囲の人々に喜びを与える活力を養うことがポイントになっていました。私は生徒のみなさんに日々希望を感じています。　一瞬一瞬で消えてしまう喜びも日々ありますが、勉強や行事など、簡単には進まない物事を協力し合ったり、意見を出し合ったりして乗り越えようとするとき、あるいは誰かのために時間をかけて労力を使うとき、そうした活動の経験から身につく力が将来にわたって深い喜びに変わるだろうという期待から希望を感じていることを先生方に分かち合いました。中高の学校生活のすべての時間において順風満帆の人はおそらくいないでしょう。誰しもが悩みの中で過ごす時期を持ったり、大なり小なり失敗を経験したりします。しかし、それらの経験の中でしっかり自分の苦悩に向き合った生徒が、卒業後への夢に前進していく力を得ていったことを多く見ています。そこにこそ、私は希望があると実感しています。 　また聖年のもう一つの側面として負債・負い目をなくすというものがあります。この「負い目」は主の祈りの中に「私たちの罪をおゆるしください」と神様に願う「罪」と同じです。自分自身の過ちにしっかり向き合い神様に赦しを願う意味もあれば、イエス様の時代、貧しい生活をしていた人たちが経済的な負い目、例えば小作人として働いている人たちが地主や金貸しから借金をしていた「負債」も含まれます。そして主の祈りで「私たちも人をゆるします。」と唱えるように、相手と和解する、貧しい人の借りをなしにする、それは戦争をなくして平和を実現すること、貧しい国の負債を帳消しにすることも意味しています。 　2000年の聖年のときに、あるシスターから聖年には先進国の政治リーダーに向かって教皇様が貧困国の債務の免除をするよう発せられるということをうかがいました。契約の上で成り立っている貸し借りを国家間など大規模なレベルで帳消しするということが本当にできるのかと信じられない思いでした。ところが当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の債務軽減の呼びかけによって、2000年から15年間かけて約18兆円（約1300億ドル）が帳消しになったと報道されています。※3　経済的負担から立ち直れない途上国の状況に国家や企業のリーダーが向き合い、その良心と努力によってできたことだと思います。 　今回の聖年が始まる際、まだ地上を生きていらした教皇フランシスコも富裕国に向けて返済が不可能な国の債務を免除する決断をするようメッセージを発しました。加えて、&#8221;ecological debt&#8221;、つまり「環境的な債務」、それの帳消しについても触れていました。環境問題において困っている途上国の人たちの貧困をなくそうというものです。ecological debtについて教皇フランシスコは『ラウダート・シ』という2015年に出された回勅とよばれる本にもすでに書いておられました。※4　私は以前にもお話ししましたが、水俣病に関する映画を見てから、自分が理科・化学を教える教師として、環境的な債務に関わる物質について生徒とともに考えるようになりました。生活に必要な製品の原料となる物質を、主に途上国にある原産地から富裕国に有利なシステムで搾取され、途上国の土壌が汚されたり、またそこで働く人々、特に子どもたちや女性の労働に過酷な負荷が与えられたりすることも多いことを生徒たちと学んできました。今年の夏もリチウムについて調べた生徒がいました。温暖化ガスを減らすためにリチウムイオンを使った電池を使おうとする動きもありますが、リチウムを南米の産地から採取することによってその周辺の水量不足や生態系が著しく崩れてしまう事実もあります。その地域で畜産業や農業などを営んでいる人たちはリチウムイオン電池で炭酸ガスを減らせていると思って生活をしている人たちのことをどう思っているのか想像してみてください。 環境保護のために何かよいことをしたと思っても、別のところに歪みが生じることも多く、非常に難しい問題です。『ラウダート・シ』でフランシスコ教皇は「『とくに、貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要』にもっと関心を払うべきです。わたしたちは一つの家族であるという自覚を深める必要があります。」※5と書いています。恵みの年であるこの聖年に、そして被造物の季節、神様がつくられたもののために特に意識して愛を持って過ごすこの時期に、貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要のために複雑な課題についても向き合うことが大切ではないかと思っています。不二聖心で学ぶことの根本がそこにあり、不二聖心を卒業していく生徒たちが何らかの形でその解決に貢献することができるという大きな「希望」を私は持っています。 　では最後に、「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」※6というお祈りを唱えますので心をあわせてきいてください。 宇宙万物の造り主である神よ、 　あなたはお造りになったすべてのものを　ご自分の優しさで包んでくださいます。 　わたしたちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、 &#160; 忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。 　無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、 &#160; わたしたちの役割を示してください。 　すべてのいのちを守るため、よりよい未来をひらくために、 　聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。 　すべての被造物とともにあなたを賛美することができますように。 　わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 &#160;これで宗教朝礼を終わります。 K.S.(宗教科・理科) ※1　カトリック中央協議会　聖年　 ※2　カトリック中央協議会　すべてのいのちを守るための月間　 ※3　ロイター.　2024年12月24日の記事より&#160; ※4　教皇フランシスコ.回勅　ラウダート・シ.The Holy See,　2015.　段落51，52&#160; &#160; ※5　教皇フランシスコ.回勅　ラウダート・シ.カトリック中央協議会（日本語訳）　2016.　段落52 ※6　カトリック中央協議会　「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」 
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<dc:date>2025-09-17T08:30:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin175802630122629900" class="cms-content-parts-sin175802630122638200"><p>&#160;　<span style="letter-spacing: 0.1em;">&#160;私たちは今、二つの特別な時を過ごしています。一つは今年が聖年<span style="font-size: smaller;"><a href="#1">※1</a></span>というカトリックの特別な年であること。もう一つはこの9月から翌月の10月4日まで「すべてのいのちを守る月間」<span style="font-size: smaller;"><a href="#2">※2</a></span>あるいは「被造物の季節」とも呼ばれる、神様からつくられた生き物や環境のことをより意識して過ごそうという期間であることです。</span></p> <div>　今回の聖年には「希望の巡礼者」というテーマがあります。みなさんがみこころの祝日のミサのときに歌った曲、つまり今流れている聖歌はこの「希望の巡礼者」をテーマにした曲です。旅に出ることは日常から離れることによって新鮮なまなざしで自分を見直し、人生の意味を探し求めることができます。そしてテーマのキーワードである「希望」。戦争や難民問題、また気候変動などの環境的な課題も多く「希望」を持ちにくくなっている今の時代に、私たちは希望を持つことができているでしょうか。「誰かが何かしてくれる」「自分だけでもこうなりたい」というような自己中心的で楽観的な願望ではなく、他者との関係性の中で育まれ、そこにいのちの種があると信じることができるときに希望をもつことを神様は望まれていると言われています。辛いときでもみんなで苦労して、知恵を出し合い、協力し合っていることの中に意味を見いだせるとき、希望がそこにあるのではないかと思います。夏休みに先生たちと聖心の学校の建学の精神と今後私たちがどのように生きていくべきかを考える研修がありました。グループディスカッションもあり、私のグループは「寛容と喜びに生きる人であること」がテーマでした。そこには、物惜しみしない心や感謝を大切にする姿勢、静寂や沈黙を大切にすることで周囲の人々に喜びを与える活力を養うことがポイントになっていました。私は生徒のみなさんに日々希望を感じています。　一瞬一瞬で消えてしまう喜びも日々ありますが、勉強や行事など、簡単には進まない物事を協力し合ったり、意見を出し合ったりして乗り越えようとするとき、あるいは誰かのために時間をかけて労力を使うとき、そうした活動の経験から身につく力が将来にわたって深い喜びに変わるだろうという期待から希望を感じていることを先生方に分かち合いました。中高の学校生活のすべての時間において順風満帆の人はおそらくいないでしょう。誰しもが悩みの中で過ごす時期を持ったり、大なり小なり失敗を経験したりします。しかし、それらの経験の中でしっかり自分の苦悩に向き合った生徒が、卒業後への夢に前進していく力を得ていったことを多く見ています。そこにこそ、私は希望があると実感しています。</div> <div>　また聖年のもう一つの側面として負債・負い目をなくすというものがあります。この「負い目」<span style="letter-spacing: 0.1em;">は主の祈りの中に「私たちの罪をおゆるしください」と神様に願う「罪」と同じです。自分自身の過ちにしっかり向き合い神様に赦しを願う意味もあれば、イエス様の時代、貧しい生活をしていた人たちが経済的な負い目、例えば小作人として働いている人たちが地主や金貸しから借金をしていた「負債」も含まれます。そして主の祈りで「私たちも人をゆるします。」と唱えるように、相手と和解する、貧しい人の借りをなしにする、それは戦争をなくして平和を実現すること、貧しい国の負債を帳消しにすることも意味しています。</span></div> <div>　2000年の聖年のときに、あるシスターから聖年には先進国の政治リーダーに向かって教皇様が貧困国の債務の免除をするよう発せられるということをうかがいました。契約の上で成り立っている貸し借りを国家間など大規模なレベルで帳消しするということが本当にできるのかと信じられない思いでした。ところが当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の債務軽減の呼びかけによって、2000年から15年間かけて約18兆円（約1300億ドル）が帳消しになったと報道されています。<span style="font-size: smaller;"><a href="#3">※3</a></span>　経済的負担から立ち直れない途上国の状況に国家や企業のリーダーが向き合い、その良心と努力によってできたことだと思います。</div> <div>　今回の聖年が始まる際、まだ地上を生きていらした教皇フランシスコも富裕国に向けて返済が不可能な国の債務を免除する決断をするようメッセージを発しました。加えて、&#8221;ecological debt&#8221;、つまり「環境的な債務」、それの帳消しについても触れていました。環境問題において困っている途上国の人たちの貧困をなくそうというものです。ecological debtについて教皇フランシスコは『ラウダート・シ』という2015年に出された回勅とよばれる本にもすでに書いておられました。<span style="font-size: smaller;"><a href="#4">※4</a></span>　私は以前にもお話ししましたが、水俣病に関する映画を見てから、自分が理科・化学を教える教師として、環境的な債務に関わる物質について生徒とともに考えるようになりました。生活に必要な製品の原料となる物質を、主に途上国にある原産地から富裕国に有利なシステムで搾取され、途上国の土壌が汚されたり、またそこで働く人々、特に子どもたちや女性の労働に過酷な負荷が与えられたりすることも多いことを生徒たちと学んできました。今年の夏もリチウムについて調べた生徒がいました。温暖化ガスを減らすためにリチウムイオンを使った電池を使おうとする動きもありますが、リチウムを南米の産地から採取することによってその周辺の水量不足や生態系が著しく崩れてしまう事実もあります。その地域で畜産業や農業などを営んでいる人たちはリチウムイオン電池で炭酸ガスを減らせていると思って生活をしている人たちのことをどう思っているのか想像してみてください。 環境保護のために何かよいことをしたと思っても、別のところに歪みが生じることも多く、非常に難しい問題です。『ラウダート・シ』でフランシスコ教皇は「『とくに、貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要』にもっと関心を払うべきです。わたしたちは一つの家族であるという自覚を深める必要があります。」<span style="font-size: smaller;"><a href="#5">※5</a></span>と書いています。恵みの年であるこの聖年に、そして被造物の季節、神様がつくられたもののために特に意識して愛を持って過ごすこの時期に、貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要のために複雑な課題についても向き合うことが大切ではないかと思っています。不二聖心で学ぶことの根本がそこにあり、不二聖心を卒業していく生徒たちが何らかの形でその解決に貢献することができるという大きな「希望」を私は持っています。</div> <div>　では最後に、「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」<span style="font-size: smaller;"><a href="#6">※6</a></span>というお祈りを唱えますので心をあわせてきいてください。</div> <div></div> <div><br /> 宇宙万物の造り主である神よ、</div> <div>　あなたはお造りになったすべてのものを　ご自分の優しさで包んでくださいます。</div> <div>　わたしたちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、<br /> &#160; 忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。</div> <div>　無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、<br /> &#160; わたしたちの役割を示してください。</div> <div>　すべてのいのちを守るため、よりよい未来をひらくために、</div> <div>　聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。</div> <div>　すべての被造物とともにあなたを賛美することができますように。</div> <div>　わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。</div> <div></div> <div>&#160;これで宗教朝礼を終わります。</div> <div style="text-align: right;">K.S.(宗教科・理科)</div> <div style="text-align: left;"></div> <div style="text-align: left;"><a name="1">※1</a>　<a href="https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/holyyear/jubilee2025/" target="_blank">カトリック中央協議会　<span style="background-color: rgb(255, 255, 255); letter-spacing: 1.6px;">聖年</span></a><span style="letter-spacing: 1.6px;">　</span></div> <div style="text-align: left;"><a name="2">※2</a>　<a href="https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/" target="_blank">カトリック中央協議会　すべてのいのちを守るための月間</a>　</div> <div style="text-align: left;"><a href="javascript:void(0);/*1758074124429*/" name="3">※3</a>　<a href="https://jp.reuters.com/world/europe/LZAKXG55DFMCPCIGHWRBPMVCBM-2024-12-25/" target="_blank">ロイター.　2024年12月24日の記事より&#160;<br /> ※</a><a name="4">4　</a><a href="https://www.vatican.va/content/francesco/en/encyclicals/documents/papa-francesco_20150524_enciclica-laudato-si.html" target="_blank">教皇フランシスコ.回勅　ラウダート・シ.The Holy See,　2015.　段落51，52&#160; &#160;<br /> ※</a><a name="5">5　</a><a href="https://www.vatican.va/content/dam/francesco/pdf/encyclicals/documents/papa-francesco_20150524_enciclica-laudato-si_ja.pdf" target="_blank" style="background-color: rgb(255, 255, 255); letter-spacing: 1.6px;">教皇フランシスコ.回勅　ラウダート・シ.カトリック中央協議会（日本語訳）　2016.　段落</a>52<br /> <a name="6"> ※6</a>　<a href="https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20751/">カトリック中央協議会　<span style="letter-spacing: 1.6px;">「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」</span></a></div> <div style="text-align: left;"></div> <div></div> <p></p></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96040/">
<title>2025年9月3日放送の宗教朝礼より</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96040/</link>
<description>&#160;今日は夏休み中にあった、ある本との出会いをお話ししようと思います。

　７月の最後の日曜日、私は夫と小さな本屋に出かけました。今でも暑い日が毎日続きますが、その日もとても暑い日で、私たちはお店に入るなり「涼しっ！」と声に出してしまい、店主さんの視線を浴びてちょっと恥ずかしかったのです。その視線を避けたくて、私は店の真ん中にあるテーブルに平置きされた本に目を向けました。すると、とてつもなくビビットな表紙でとても目立つ本が目に飛び込んできました。店主さんが私の方を見ている気配は既にありませんでしたが、あまりにもショッキングな色合いの表紙に私の眼はくぎ付けになり、気が付いたらもうその本を手にしていました。表紙では女の子が片足を高くあげています。でもその足が右足なのか、左足なのかはっきりしません。顔の向きと体の向きがちぐはぐなのです。言ってしまえば子どもが描くような絵です。でもだからといって下手くそな絵かというと、そうでもありません。上手だとか下手だとか、そういうことではない。とにかく個性的な絵なのです。「横顔がなんとなく古代エジプトの壁画とかに似ているのかな」とも思いましたが、自由で躍動感にあふれている女の子の姿からは、壁画にあるような堅苦しさは感じられません。単純な線で描かれたマンガのような、落書きのような絵なので、写実的ではありません。でも今まさに踊っているようなリアルさがある、とても不思議な魅力をこの絵に感じたのです。私はこの本に完全に引き込まれてしまいました。

　本の帯には「作　サンギータ・ヨギ」とあります。聞いたこともない名前です。翻訳は小林エリカとあって、こちらはプラン・インターナショナルの「わたしに違う人生があることすら知らなかった。」という女の子の広告で馴染みのある名前です。頭に浮かんだ小林エリカさんの描いた絵とこの表紙の絵は全然タイプが異なるので、ちょっと違和感を感じます。でも、女の子を支援するＣＭに協力したり、風船爆弾をつくった女の子たちのことを小説にした小林さんが訳したということは、この本のテーマがなんとなく想像できます。女子校勤めの私としては、中身がますます気になってきました。（それに、風船爆弾の本は最近読んだばっかりだったので、この本との出会いがますます運命的に感じられて　　　

きました。）はやる気持ちを抑えつつ表紙をめくると、私はもうその蛍光色の世界に取り囲まれてしまいました。この本はどのページもポップで、どのページにも女性が描かれているのです。アクロバティックな格好をした女、座って花飾りを作る女、着飾った女、ダンスする女、歌う女、街中の女、船に乗る女、子どもたちに教える女、女、女、女！かわいい女たちの中をよくよく探すとたまに男。この本のタイトルは「わたしはなれる」。思った通り、その「わたし」は女性のことだったのです。

　気が付くと、夫もこの本をのぞき込んでいます。夫はまあまあの本好きなので、「ねえこの本、どう思う？」と夫に本を渡すと開口一番「すごい色だなあ。でも西加奈子が推薦してるんだね。」帯には「女の子であること、それだけで強いんだ」という推薦文が書いてありました。そして裏表紙を見て「こんなおばさんが書いた本にしては高いな」というのです。私も値段を見てみると、消費税を入れると約４０００円です。確かにちょっとお高いかも。そんなやりとりを見ていた店主さんが私たちに近づいて来ました。

　その高い本『わたしは　なれる』は、店主さんの話によると、日本語版といっても日本で印刷されたものではなく、世界一美しい本を作ると言われている、インドのタラブックスという会社によってインドで印刷されたもので、それを日本に輸入して売っているのだそうです。値段が高いのはそれが理由なのかもしれません。作者のサンギータはインド北部に生まれた２５歳の女性で、小学２年生までは学校に通うことができたけれど、働くことを強いられ、幼くして大家族に嫁ぎ、一男三女の母になったのだそうです。兄たちの家族と同居する男性を夫としたため、嫁ぎ先では家事を一手に担わなければならず、義理の兄たちの子供の面倒もみなければならない、そんな境遇にこのサンギータはおかれたのでした。「そうか、この作者は２５歳にして既にベテランのお母さんなのか&#8230;。」夫が写真を見て、実年齢よりも年上にこの女性を見てしまったのは、そのお母さん感のせいかもしれません。その若いお母さんは、この本でどんなことを語ったのだろう。私はもうこの本を買って、じっくり読むしかないと思っていました。

　さて、ここまで紹介してきたのですから、みなさんはきっとこの本のあらすじをこれから聞けると思っていることでしょう。でも残念ながら、私は今日この本の内容を語りません。なぜなら夫がこんなことを言ったからです。「この本って文章は全部編集者が書いたんだね。作者がインドの公用語を読み書きできないから、聞き書きによって作られたって書かれてる。だから作者は出来上がった自分の本を読むことができない。で、僕たちが読んでいる日本語の文章は、おそらく英語から翻訳されている。作者は自分の本が読めないし、僕らは作者の言葉に直接触れることができない。とてつもない言葉の壁だよ。でもさ、絵は作者自身のもの。絵があることで作者と直接コミュニケーションをとれる。絵本っていいよね！」ということで、私は言葉でこの本を紹介するのはちょっと違うのかな、と思ってしまったのです。ですので、みなさんぜひこの本を手に取って、見てみてください。本屋さんでの立ち見でも十分そのメッセージを感じることができます。図書館ならもっとゆっくり眺められるでしょう。もちろん買うのが一番。作者サンギータの収入になるからです。今日私があらすじを語らないのは、私の拙い言葉でこの本の魅力をうまく表現できる自信がないからでも、紹介文を書くのがめんどくさくなったからでもありません。ましてや、私にとってこの夏休み一番の出会いを独り占めしたくなったから&#8230;、なんてことはけっしてありません！ですので、やっぱり一言オススメすることにします。

　みなさんは自分の好きなことを現実のせいにしてあきらめたりしていませんか？自分の未来は自分にしか作れません。思うようにいかないからって、前に進むことをやめてしまったらそれまで。どんな逆境にあっても、自分の未来は自分で切り開けるはず。学校にも満足に通えなかった、女性の権利が蔑ろにされる現実の中でも、好きなことを決してあきらめなかった女性の描いた絵本です。「好き」がもつエネルギーをその目で感じてください！
&#160;
　最後に。もうすぐ祈りの会、家で聖書の用意をしながらふと思いました。新訳聖書は約２０００年前のイエスの言葉を、弟子たちが書き残したものです。旧約はもっと前。そんな古い聞き書きをさらに日本語に訳しているのですから、そこにはとてつもない言葉の壁があることになります。でも私は言葉の壁を感じたことはありません。聖書は絵本ではないのに、なぜなのでしょう？祈りの会でその答えに近づけるかしら？とちょっと楽しみな気持ちになりました。みなさんも祈りの会で何か1つ自分なりの問いを見つけ、その答えを探してみてください。

&#160;M.S.(技術・家庭科)</description>
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<div>　７月の最後の日曜日、私は夫と小さな本屋に出かけました。今でも暑い日が毎日続きますが、その日もとても暑い日で、私たちはお店に入るなり「涼しっ！」と声に出してしまい、店主さんの視線を浴びてちょっと恥ずかしかったのです。その視線を避けたくて、私は店の真ん中にあるテーブルに平置きされた本に目を向けました。すると、とてつもなくビビットな表紙でとても目立つ本が目に飛び込んできました。店主さんが私の方を見ている気配は既にありませんでしたが、あまりにもショッキングな色合いの表紙に私の眼はくぎ付けになり、気が付いたらもうその本を手にしていました。表紙では女の子が片足を高くあげています。でもその足が右足なのか、左足なのかはっきりしません。顔の向きと体の向きがちぐはぐなのです。言ってしまえば子どもが描くような絵です。でもだからといって下手くそな絵かというと、そうでもありません。上手だとか下手だとか、そういうことではない。とにかく個性的な絵なのです。「横顔がなんとなく古代エジプトの壁画とかに似ているのかな」とも思いましたが、自由で躍動感にあふれている女の子の姿からは、壁画にあるような堅苦しさは感じられません。単純な線で描かれたマンガのような、落書きのような絵なので、写実的ではありません。でも今まさに踊っているようなリアルさがある、とても不思議な魅力をこの絵に感じたのです。私はこの本に完全に引き込まれてしまいました。</div>
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<div>　本の帯には「作　サンギータ・ヨギ」とあります。聞いたこともない名前です。翻訳は小林エリカとあって、こちらはプラン・インターナショナルの「わたしに違う人生があることすら知らなかった。」という女の子の広告で馴染みのある名前です。頭に浮かんだ小林エリカさんの描いた絵とこの表紙の絵は全然タイプが異なるので、ちょっと違和感を感じます。でも、女の子を支援するＣＭに協力したり、風船爆弾をつくった女の子たちのことを小説にした小林さんが訳したということは、この本のテーマがなんとなく想像できます。女子校勤めの私としては、中身がますます気になってきました。（それに、風船爆弾の本は最近読んだばっかりだったので、この本との出会いがますます運命的に感じられて　　　</div>
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<div>きました。）はやる気持ちを抑えつつ表紙をめくると、私はもうその蛍光色の世界に取り囲まれてしまいました。この本はどのページもポップで、どのページにも女性が描かれているのです。アクロバティックな格好をした女、座って花飾りを作る女、着飾った女、ダンスする女、歌う女、街中の女、船に乗る女、子どもたちに教える女、女、女、女！かわいい女たちの中をよくよく探すとたまに男。この本のタイトルは「わたしはなれる」。思った通り、その「わたし」は女性のことだったのです。</div>
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<div>　気が付くと、夫もこの本をのぞき込んでいます。夫はまあまあの本好きなので、「ねえこの本、どう思う？」と夫に本を渡すと開口一番「すごい色だなあ。でも西加奈子が推薦してるんだね。」帯には「女の子であること、それだけで強いんだ」という推薦文が書いてありました。そして裏表紙を見て「こんなおばさんが書いた本にしては高いな」というのです。私も値段を見てみると、消費税を入れると約４０００円です。確かにちょっとお高いかも。そんなやりとりを見ていた店主さんが私たちに近づいて来ました。</div>
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<div>　その高い本『わたしは　なれる』は、店主さんの話によると、日本語版といっても日本で印刷されたものではなく、世界一美しい本を作ると言われている、インドのタラブックスという会社によってインドで印刷されたもので、それを日本に輸入して売っているのだそうです。値段が高いのはそれが理由なのかもしれません。作者のサンギータはインド北部に生まれた２５歳の女性で、小学２年生までは学校に通うことができたけれど、働くことを強いられ、幼くして大家族に嫁ぎ、一男三女の母になったのだそうです。兄たちの家族と同居する男性を夫としたため、嫁ぎ先では家事を一手に担わなければならず、義理の兄たちの子供の面倒もみなければならない、そんな境遇にこのサンギータはおかれたのでした。「そうか、この作者は２５歳にして既にベテランのお母さんなのか&#8230;。」夫が写真を見て、実年齢よりも年上にこの女性を見てしまったのは、そのお母さん感のせいかもしれません。その若いお母さんは、この本でどんなことを語ったのだろう。私はもうこの本を買って、じっくり読むしかないと思っていました。</div>
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<div>　さて、ここまで紹介してきたのですから、みなさんはきっとこの本のあらすじをこれから聞けると思っていることでしょう。でも残念ながら、私は今日この本の内容を語りません。なぜなら夫がこんなことを言ったからです。「この本って文章は全部編集者が書いたんだね。作者がインドの公用語を読み書きできないから、聞き書きによって作られたって書かれてる。だから作者は出来上がった自分の本を読むことができない。で、僕たちが読んでいる日本語の文章は、おそらく英語から翻訳されている。作者は自分の本が読めないし、僕らは作者の言葉に直接触れることができない。とてつもない言葉の壁だよ。でもさ、絵は作者自身のもの。絵があることで作者と直接コミュニケーションをとれる。絵本っていいよね！」ということで、私は言葉でこの本を紹介するのはちょっと違うのかな、と思ってしまったのです。ですので、みなさんぜひこの本を手に取って、見てみてください。本屋さんでの立ち見でも十分そのメッセージを感じることができます。図書館ならもっとゆっくり眺められるでしょう。もちろん買うのが一番。作者サンギータの収入になるからです。今日私があらすじを語らないのは、私の拙い言葉でこの本の魅力をうまく表現できる自信がないからでも、紹介文を書くのがめんどくさくなったからでもありません。ましてや、私にとってこの夏休み一番の出会いを独り占めしたくなったから&#8230;、なんてことはけっしてありません！ですので、やっぱり一言オススメすることにします。</div>
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<div>　みなさんは自分の好きなことを現実のせいにしてあきらめたりしていませんか？自分の未来は自分にしか作れません。思うようにいかないからって、前に進むことをやめてしまったらそれまで。どんな逆境にあっても、自分の未来は自分で切り開けるはず。学校にも満足に通えなかった、女性の権利が蔑ろにされる現実の中でも、好きなことを決してあきらめなかった女性の描いた絵本です。「好き」がもつエネルギーをその目で感じてください！</div>
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<div>　最後に。もうすぐ祈りの会、家で聖書の用意をしながらふと思いました。新訳聖書は約２０００年前のイエスの言葉を、弟子たちが書き残したものです。旧約はもっと前。そんな古い聞き書きをさらに日本語に訳しているのですから、そこにはとてつもない言葉の壁があることになります。でも私は言葉の壁を感じたことはありません。聖書は絵本ではないのに、なぜなのでしょう？祈りの会でその答えに近づけるかしら？とちょっと楽しみな気持ちになりました。みなさんも祈りの会で何か1つ自分なりの問いを見つけ、その答えを探してみてください。</div>
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<div style="text-align: right;">&#160;M.S.(技術・家庭科)</div></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96024/">
<title>2025年7月2日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96024/</link>
<description>
&#160;　おはようございます。今日は宗教朝礼です。まず、心を落ち着けるために、一緒に主の祈りを唱えましょう。

天におられる私たちの父よ　　　み名が聖とされますように　　　み国がきますように
みこころが天におこなわれるとおり　　地にもおこなわれますように
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください　　わたしたちの罪をおゆるしください
わたしたちも人を許します　　わたしたちを誘惑に陥らせず　　悪からお救いください　　アーメン


　教育実習生の方々が不二にきてくださっていましたが、その実習期間も今日でおわりになります。教育実習生の先生方、３週間お疲れさまでした。生徒の皆さんも、卒業生で皆さんの先輩でもある実習生の先生方から学ぶことが多かったと思います。
　毎年、教育実習生の先生方が不二にくるたび、私は自分の教育実習のことを思い出します。もうだいぶ前のことになりますが、そのときのことは今でもよく覚えています。私は教育学部の学生で、１回目の実習は大学の付属小学校で行いました。教育学部ということで、多くの学生が付属校で実習します。なので、私たちは４人１組で１つのクラスに配属されました。私が国語志望で、他に社会科・理科・技術家庭科志望の４人組です。この中で、理科の先生を目指していた仲間は麗香ちゃんといいました。（実習中はもちろん「～先生」と呼んでいましたが、心の中では親しみを込めて麗香ちゃんと呼んでいたので、ここでもそう呼ばせていただきます。）麗香ちゃんとは、普段大学では教科が違うので顔を合わせたこともほとんどなかったのですが、私は実習中、麗香ちゃんの優しさと思いやりに何度も助けられ、「世の中にこんな人がいるんだ」と憧れていました。今でも大好きで、尊敬しています。
　私たちの指導教官の先生は、大変厳しく、また、&#8230;実習生の立場でこのようなことを言うのは本当は許されないこととは思いますが&#8230;少し、意地悪な方でした。授業の計画は何度も練り直して前々から準備します。しかし前日の夜になって「指導案をよく見なおしたらダメなところばかりだから、最初からやりなおして」「こんな計画で本当に授業するつもりだったの」など指導教官の先生がおっしゃるので、私たちは深夜までやり直しをする、ということがほとんど毎日でした。それでも「これは先生になるために必要なことだ」「社会に出たらこんなものじゃないくらい大変なのだから」と私たちは思っていました。そんな中で、麗香ちゃんはいろいろと私たちを気遣い、自分のことは後回しにしても人のことを助けていました。あるときも夜になって指導教官の先生が「ここは折り紙を使って示したほうがいいんじゃない？明日までに絶対用意しておいてくださいね」と言って帰っていかれました。「折り紙！？」こんな夜中になって折り紙なんてどうやって用意したらいいのでしょう。すると麗香ちゃんが、「うちにあるよ！」と言ってくれました。「明日持ってくるよ。大丈夫」。私たちは次の朝、いつもより早く学校に集まりました。折り紙をいろんな形に切らないといけなかったからです。けれど、それも麗香ちゃんがやってきてくれました。麗香ちゃん以外の３人は、地方出身で、一人暮らしをしていました。そこで麗香ちゃん曰く、「私はここから近いところに家があって、そこから通っている。家に帰ればご飯があって、この期間は家のことはせずに疲れてそのまま寝てしまうことだってできるけれど、みんなはそうはいかないでしょう？だから、私にできることはなんでも言ってね」と。実際私は自分のことで精一杯で、そんな嬉しい言葉を言ってくれる麗香ちゃんがとてもまぶしかったです。
　実習期間も半分が過ぎたころ、小学校では遠足があり、私たちも引率でついていくことになりました。普段、お昼ご飯は給食が出ていたのですが、この日は給食はありません。すると、麗香ちゃんが「わたしがみんなのお弁当を作ってくるよ」と言ってくれたのです。「そんな申し訳ない、それに4人分なんて、大変でしょう」と言いましたが、「どのみち自分の分を作るのだから、人数が増えても大丈夫」と麗香ちゃんは言ってくれて、私たちはお言葉に甘えることにしました。当日のお弁当は、具もいろいろのおにぎりに、おかずもたくさんあって、それは素敵なお弁当でした。毎日くたくたの実習期間、自分だったらこんな豪華なお弁当は作れなかったと思います。私たちは感謝しておいしくいただきました。
　それから数日後、指導教官の先生がやけに麗香ちゃんだけにつらく当たる日がありました。そしてその日の放課後、授業準備をしていた私たちを前にして、指導教官の先生が麗香ちゃんに言ったのです。「あなたは遠足のとき実習生みんなのお弁当を作ってきたんだってね。自分のこともまともにできないのに、みんなに施しをしていい気分ですか。さすがお嬢様ですね」と。――これはさすがに許せない。私たち３人はそろって猛然と反論しました。が、指導教官の先生は「あなたたちはかわいそう、って同情されてこの人に見下されてるんだよ。」と言いました。麗香ちゃんは何も言わず、黙って下を向いていました。
　あれから30年ぐらいたちましたが、唇をかんで下を向いていた麗香ちゃんの横顔は今でも忘れられません。あのとき麗香ちゃんは何を考えていたのでしょう。数年前、またこの時期にこのことを思い出して、あれ？とひっかかるものがありました。自分も大変な中で周囲を手助けすることを率先して行っていた麗香ちゃん。麗香ちゃんは、近所にある中高一貫の女子校出身だと話していました。「中高一貫の女子校」、「施し」「お嬢様」、という言葉&#8230;&#8230;もしかして、と思い調べてみたところ、ありました。大学や付属校のすぐ近くに、中高一貫のカトリックの女子校が。今でも調べると、ＨＰのトップには校名とともに「カトリックミッションスクール」と掲げられています。麗香ちゃんはきっとこの学校の出身だったに違いありません。実習の日々を今思い返してみても、私は自分のことで精いっぱいで、仲間たちと「頑張ろう」と励まし合ってはいたものの、実際他の人の手伝いや手助けができていたかというと、できていませんでした。実習期間に限らず、昔の私は自分のことが優先、というより、自分の中に、自分が大変な時に誰かのために働こうなどという概念はなかったと思います。だから麗香ちゃんに会って、その姿に心を打たれましたし、憧れと尊敬の気持ちを抱きました。不二聖心でも、「誰かのために骨惜しみせずに働く」ことを大切にしています。先日のみこころの祝日でも、一人ひとりが心をこめてそれを実践できたことでしょう。不二聖心に勤めて、私はそのような気高い姿があること、それが日頃から実践されている場所があることを知りました。同時に、私が自分のことばかり考えていた同じそのときに、このように「人のために」と教えられ、それを実践して育ってきた人たちがいることに気づいて、自分を恥ずかしく思いました。知らなかった昔の私は、人として欠けていたと思っています。麗香ちゃんや皆さんのような気高い精神を、単に「お嬢様」とくくり、「同情」「見下す」などと捉えることは大変失礼だと怒りさえ覚えますが、このような精神は、もしかしたら世の中全部の人には理解してもらえない時やこともあるかもしれません。しかし、それは本当に美しい姿です。しかも、その人たちは自分たちではその姿を美しいと奢っていない。ますます美しく崇高です。皆さんにはそのことを誇りに思っていただきたいですし、その美しい精神をもって世の中に出ていっていただきたいと願います。私もまだまだ不二聖心で皆さんと一緒に学び、精進していきます。


　これで、宗教朝礼を終わります。

M.S.(国語科)
</description>
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<dc:date>2025-07-02T06:25:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　おはようございます。今日は宗教朝礼です。まず、心を落ち着けるために、一緒に主の祈りを唱えましょう。</p>
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<div>天におられる私たちの父よ　　　み名が聖とされますように　　　み国がきますように</div>
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<div>わたしたちも人を許します　　わたしたちを誘惑に陥らせず　　悪からお救いください　　アーメン<br />
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<div>　教育実習生の方々が不二にきてくださっていましたが、その実習期間も今日でおわりになります。教育実習生の先生方、３週間お疲れさまでした。生徒の皆さんも、卒業生で皆さんの先輩でもある実習生の先生方から学ぶことが多かったと思います。</div>
<div>　毎年、教育実習生の先生方が不二にくるたび、私は自分の教育実習のことを思い出します。もうだいぶ前のことになりますが、そのときのことは今でもよく覚えています。私は教育学部の学生で、１回目の実習は大学の付属小学校で行いました。教育学部ということで、多くの学生が付属校で実習します。なので、私たちは４人１組で１つのクラスに配属されました。私が国語志望で、他に社会科・理科・技術家庭科志望の４人組です。この中で、理科の先生を目指していた仲間は麗香ちゃんといいました。（実習中はもちろん「～先生」と呼んでいましたが、心の中では親しみを込めて麗香ちゃんと呼んでいたので、ここでもそう呼ばせていただきます。）麗香ちゃんとは、普段大学では教科が違うので顔を合わせたこともほとんどなかったのですが、私は実習中、麗香ちゃんの優しさと思いやりに何度も助けられ、「世の中にこんな人がいるんだ」と憧れていました。今でも大好きで、尊敬しています。</div>
<div>　私たちの指導教官の先生は、大変厳しく、また、&#8230;実習生の立場でこのようなことを言うのは本当は許されないこととは思いますが&#8230;少し、意地悪な方でした。授業の計画は何度も練り直して前々から準備します。しかし前日の夜になって「指導案をよく見なおしたらダメなところばかりだから、最初からやりなおして」「こんな計画で本当に授業するつもりだったの」など指導教官の先生がおっしゃるので、私たちは深夜までやり直しをする、ということがほとんど毎日でした。それでも「これは先生になるために必要なことだ」「社会に出たらこんなものじゃないくらい大変なのだから」と私たちは思っていました。そんな中で、麗香ちゃんはいろいろと私たちを気遣い、自分のことは後回しにしても人のことを助けていました。あるときも夜になって指導教官の先生が「ここは折り紙を使って示したほうがいいんじゃない？明日までに絶対用意しておいてくださいね」と言って帰っていかれました。「折り紙！？」こんな夜中になって折り紙なんてどうやって用意したらいいのでしょう。すると麗香ちゃんが、「うちにあるよ！」と言ってくれました。「明日持ってくるよ。大丈夫」。私たちは次の朝、いつもより早く学校に集まりました。折り紙をいろんな形に切らないといけなかったからです。けれど、それも麗香ちゃんがやってきてくれました。麗香ちゃん以外の３人は、地方出身で、一人暮らしをしていました。そこで麗香ちゃん曰く、「私はここから近いところに家があって、そこから通っている。家に帰ればご飯があって、この期間は家のことはせずに疲れてそのまま寝てしまうことだってできるけれど、みんなはそうはいかないでしょう？だから、私にできることはなんでも言ってね」と。実際私は自分のことで精一杯で、そんな嬉しい言葉を言ってくれる麗香ちゃんがとてもまぶしかったです。</div>
<div>　実習期間も半分が過ぎたころ、小学校では遠足があり、私たちも引率でついていくことになりました。普段、お昼ご飯は給食が出ていたのですが、この日は給食はありません。すると、麗香ちゃんが「わたしがみんなのお弁当を作ってくるよ」と言ってくれたのです。「そんな申し訳ない、それに4人分なんて、大変でしょう」と言いましたが、「どのみち自分の分を作るのだから、人数が増えても大丈夫」と麗香ちゃんは言ってくれて、私たちはお言葉に甘えることにしました。当日のお弁当は、具もいろいろのおにぎりに、おかずもたくさんあって、それは素敵なお弁当でした。毎日くたくたの実習期間、自分だったらこんな豪華なお弁当は作れなかったと思います。私たちは感謝しておいしくいただきました。</div>
<div>　それから数日後、指導教官の先生がやけに麗香ちゃんだけにつらく当たる日がありました。そしてその日の放課後、授業準備をしていた私たちを前にして、指導教官の先生が麗香ちゃんに言ったのです。「あなたは遠足のとき実習生みんなのお弁当を作ってきたんだってね。自分のこともまともにできないのに、みんなに施しをしていい気分ですか。さすがお嬢様ですね」と。――これはさすがに許せない。私たち３人はそろって猛然と反論しました。が、指導教官の先生は「あなたたちはかわいそう、って同情されてこの人に見下されてるんだよ。」と言いました。麗香ちゃんは何も言わず、黙って下を向いていました。</div>
<div>　あれから30年ぐらいたちましたが、唇をかんで下を向いていた麗香ちゃんの横顔は今でも忘れられません。あのとき麗香ちゃんは何を考えていたのでしょう。数年前、またこの時期にこのことを思い出して、あれ？とひっかかるものがありました。自分も大変な中で周囲を手助けすることを率先して行っていた麗香ちゃん。麗香ちゃんは、近所にある中高一貫の女子校出身だと話していました。「中高一貫の女子校」、「施し」「お嬢様」、という言葉&#8230;&#8230;もしかして、と思い調べてみたところ、ありました。大学や付属校のすぐ近くに、中高一貫のカトリックの女子校が。今でも調べると、ＨＰのトップには校名とともに「カトリックミッションスクール」と掲げられています。麗香ちゃんはきっとこの学校の出身だったに違いありません。実習の日々を今思い返してみても、私は自分のことで精いっぱいで、仲間たちと「頑張ろう」と励まし合ってはいたものの、実際他の人の手伝いや手助けができていたかというと、できていませんでした。実習期間に限らず、昔の私は自分のことが優先、というより、自分の中に、自分が大変な時に誰かのために働こうなどという概念はなかったと思います。だから麗香ちゃんに会って、その姿に心を打たれましたし、憧れと尊敬の気持ちを抱きました。不二聖心でも、「誰かのために骨惜しみせずに働く」ことを大切にしています。先日のみこころの祝日でも、一人ひとりが心をこめてそれを実践できたことでしょう。不二聖心に勤めて、私はそのような気高い姿があること、それが日頃から実践されている場所があることを知りました。同時に、私が自分のことばかり考えていた同じそのときに、このように「人のために」と教えられ、それを実践して育ってきた人たちがいることに気づいて、自分を恥ずかしく思いました。知らなかった昔の私は、人として欠けていたと思っています。麗香ちゃんや皆さんのような気高い精神を、単に「お嬢様」とくくり、「同情」「見下す」などと捉えることは大変失礼だと怒りさえ覚えますが、このような精神は、もしかしたら世の中全部の人には理解してもらえない時やこともあるかもしれません。しかし、それは本当に美しい姿です。しかも、その人たちは自分たちではその姿を美しいと奢っていない。ますます美しく崇高です。皆さんにはそのことを誇りに思っていただきたいですし、その美しい精神をもって世の中に出ていっていただきたいと願います。私もまだまだ不二聖心で皆さんと一緒に学び、精進していきます。</div>
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<div>　これで、宗教朝礼を終わります。</div>
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<div style="text-align: right;">M.S.(国語科)</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96023/">
<title>2025年6月25日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96023/</link>
<description>&#160;私が小学校入学直前から通っている神奈川県の教会は、サレジオ会の教会です。サレジオ会は1859年にイタリアで始まった修道会で、現在では世界130か国以上に広がっています。創立者は、ドン・ボスコという神父様です。彼は1815年にイタリアのトリノで生まれ、青少年の人間形成、特に社会的に困っている青少年のために全生涯をささげました。子どもの人間形成を目指しているという点では、聖心会と共通している部分があるかもしれません。このような子どもの人間形成を大切にした環境が私の通っている教会にもありました。 　この教会に移ったばかりの頃、イタリア人の主任神父様がいつも子どもたちに語り掛けていたことがあります。「みなさん、目は何のため？」と神父様が子どもたちに聞くと、子どもたちは一斉に「見るため！」と答えます。次に神父様は「じゃあ、耳は何のため？」と子どもたちに聞くと、「聞くため！」と一斉に答えます。その次に「じゃあ、心は何のため？」と子どもたちに聞くと、子どもたちは考え込んでしまいシーンとしてしまいます。しばらくして神父様が「心は人のためだよ」と子どもたちに答えを教えてくれます。毎週のように神父様はこの話をしてくださっていたので、2回目、3回目になると子どもたちは「心は何のため」と聞かれたら、すぐに「人のため」と答えられるようになっていましたが、私がこうして今話しているように、大人になった今でも神父様のお言葉は忘れることがありません。 　この「人のために心を遣うこと」こそ、イエスさまが望んでいる、みこころなんだと私は考えます。と言っても、「人のために心を遣うこと」って、なかなかできることではないと思います。ついつい、自分のことで精一杯になってしまうものです。 みこころにとって大切なことは三つあると思います。　一つ目は「神様との信頼」です。主イエスは、すべての人の救いのために十字架にかけられました。それは神様が私たちに与えてくださった無償の愛のしるしであると言われています。私たちが神様に愛されているという信頼関係を感じることができれば、自分は神様によって守られ、安心感を持つことができるのではないかと思います。 　二つ目は「祈り」です。祈りは時に新しい「気付き」をもたらしてくれます。私も取り組んでいることがうまくいかない時にお祈りをし、誰かに相談したり、本を読んでみようというひらめきから、新しい気づきに出会うことがありました。この気づきをもって実行していけば成長することができ、一回り成長した新しい自分になることができます。キリスト教はいわゆるご利益を求めるものではなく、祈りを通して得られた神様からの気づきを通して、成長させてくださいます。 　三つ目は「交わり」です。みなさんは、何か頑張って取り組んでいることはありますか？勉強や習い事など様々でしょう。そしてそれは、たとえ自分が好きでやっていることだとしても、間接的には人のためになるものではありませんか？神様から気づきによって成長することができたのであれば、失敗を恐れずに周りの人のために貢献していきましょう。きっとそれは、誰かにとっての気づきにもなり、他者にとってよい影響をもたらすでしょう。 　　今週、不二聖心では「みこころの祝日」をともに祝い、それぞれの場所で奉仕する時間を守ります。奉仕を通して出会う方々との交わりのひとときが、神様の祝福に満ちたすばらしい時となりますように。 Y.I.（地歴・公民科）</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-06-26T09:30:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin175089814226193600" class="cms-content-parts-sin175089814226201400"><p>&#160;私が小学校入学直前から通っている神奈川県の教会は、サレジオ会の教会です。サレジオ会は1859年にイタリアで始まった修道会で、現在では世界130か国以上に広がっています。創立者は、ドン・ボスコという神父様です。彼は1815年にイタリアのトリノで生まれ、青少年の人間形成、特に社会的に困っている青少年のために全生涯をささげました。子どもの人間形成を目指しているという点では、聖心会と共通している部分があるかもしれません。このような子どもの人間形成を大切にした環境が私の通っている教会にもありました。</p> <div>　この教会に移ったばかりの頃、イタリア人の主任神父様がいつも子どもたちに語り掛けていたことがあります。「みなさん、目は何のため？」と神父様が子どもたちに聞くと、子どもたちは一斉に「見るため！」と答えます。次に神父様は「じゃあ、耳は何のため？」と子どもたちに聞くと、「聞くため！」と一斉に答えます。その次に「じゃあ、心は何のため？」と子どもたちに聞くと、子どもたちは考え込んでしまいシーンとしてしまいます。しばらくして神父様が「心は人のためだよ」と子どもたちに答えを教えてくれます。毎週のように神父様はこの話をしてくださっていたので、2回目、3回目になると子どもたちは「心は何のため」と聞かれたら、すぐに「人のため」と答えられるようになっていましたが、私がこうして今話しているように、大人になった今でも神父様のお言葉は忘れることがありません。<br /></div> <div>　この「人のために心を遣うこと」こそ、イエスさまが望んでいる、みこころなんだと私は考えます。と言っても、「人のために心を遣うこと」って、なかなかできることではないと思います。ついつい、自分のことで精一杯になってしまうものです。</div> <div>みこころにとって大切なことは三つあると思います。<br />　一つ目は「神様との信頼」です。主イエスは、すべての人の救いのために十字架にかけられました。それは神様が私たちに与えてくださった無償の愛のしるしであると言われています。私たちが神様に愛されているという信頼関係を感じることができれば、自分は神様によって守られ、安心感を持つことができるのではないかと思います。</div> <div>　二つ目は「祈り」です。祈りは時に新しい「気付き」をもたらしてくれます。私も取り組んでいることがうまくいかない時にお祈りをし、誰かに相談したり、本を読んでみようというひらめきから、新しい気づきに出会うことがありました。この気づきをもって実行していけば成長することができ、一回り成長した新しい自分になることができます。キリスト教はいわゆるご利益を求めるものではなく、祈りを通して得られた神様からの気づきを通して、成長させてくださいます。</div> <div>　三つ目は「交わり」です。みなさんは、何か頑張って取り組んでいることはありますか？勉強や習い事など様々でしょう。そしてそれは、たとえ自分が好きでやっていることだとしても、間接的には人のためになるものではありませんか？神様から気づきによって成長することができたのであれば、失敗を恐れずに周りの人のために貢献していきましょう。きっとそれは、誰かにとっての気づきにもなり、他者にとってよい影響をもたらすでしょう。</div> <div>　<br />　今週、不二聖心では「みこころの祝日」をともに祝い、それぞれの場所で奉仕する時間を守ります。奉仕を通して出会う方々との交わりのひとときが、神様の祝福に満ちたすばらしい時となりますように。</div> <div></div> <div style="text-align: right;">Y.I.（地歴・公民科）</div></div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96021/">
<title>2025年6月18日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96021/</link>
<description>
&#160;&#160;みなさんは、自分が「愛されている存在」だと感じたことがありますか？

　昨年9月、フランスルーツへの旅で、今の高校3年生と一緒にパリに到着した夜、祖母の訃報が届きました。祖母は戦前・戦後の小学校で教員をしていた人で、人にも自分にも厳しい面もありましたが、私は小さいころからそんな祖母が大好きでした。思い返すと、祖母からの一番の贈り物は「無条件に私を認めてくれたこと」だったと思います。
「それでいいのよ」「あなたはあなたのままでいい」という言葉が、今も心に残っています。
　私の人生初の海外旅行もパリで、祖母と泊まった「ホテル日航」が、高３の皆さんと泊まったノボテルだったと知り、不思議な縁を感じました。創立者のルーツをたどる旅でありながら、私にとっては祖母との思い出をたどる旅でもありました。神様からの贈り物だったのかもしれません。

　梨木香歩（なしきかほ）さんの『西の魔女が死んだ』という小説をご存じですか？ 私の大好きな本のひとつです。
　中学生のまいは、人間関係に悩み、イギリス人の祖母のもとで過ごします。まいは祖母とジャムを作ったり、「魔女になる修行」として規則正しい生活を送り、心を少しずつ取り戻していきます。
おばあちゃんはまいにこう伝えます。
&#160;・「大丈夫。まいならできますよ」
&#160;・「やりたくないときは、やらなくていいのです。でも、やりたいなら、やってごらんなさい」
&#160;・「いやなことがあったら、逃げてもいいのよ。でも、逃げる方向を間違えないようにね」
どの言葉にも、「あなたを信じているよ」「あなたのままで大丈夫」という深い愛情があり、まいもやがて「他人がどう思うか」より「自分がどうありたいか」を考えるようになります。
　「愛されている」と感じた経験は、人に優しくする力になります。 私も、誰かの背中をそっと押せるような言葉を発していきたいと思っています。

　もう一つ、「無条件で受け入れること」の意味を考えさせられた経験を分かち合いたいと思います。
　高校時代、「重度障がい」のある方の施設で、2泊3日のボランティアに参加しました。あるとき、施設の方に30代の男性・Tさんとの散歩を頼まれました。Tさんは落ち着かず、部屋を歩き回り、大きな声を出していました。私は
正直、不安でいっぱいでした。「走り出したら？」「言葉が通じない中で何かあったら？」と。でも思いきって「Tさん、いいお天気ですね」と声をかけ、手をつないでみました。するとTさんは穏やかな表情で歩き始めました。
石や草花、虫に立ち止まりながらの散歩。Tさんが見ている世界に心を寄せてみると、自分には見えていなかった景色が広がっていました。
&#160;時間の流れも景色の見方も違う。でも、その違いを受け入れ、Tさんのペースに身をゆだねたとき、喜びを共有する感覚が生まれました。

　フランシスコ前教皇は「壁を作るのではなく、橋をかけなさい」と繰り返し語っています。その橋の先には、相手の視点に立って初めて見える新しい景色があります。来週の「奉仕の日」では、お掃除や交流を通して人と関わる場面があると思います。
そのとき、「相手の立場に立つこと」「無条件に受け入れること」を大切にしてみてください。
何に喜び、何が心地よいと感じられるのか、体も心もその人に寄り添い、自分にできることを探してみましょう。それこそが、無条件の愛のはじまりだと思います。

　6月20日は「世界難民の日」です。国連UNHCRによると、毎年約30万人の赤ちゃんが「難民」として生まれています。
生まれた瞬間から、安心や住む場所を奪われる命があることを、私たちは忘れてはなりません。ガザでの戦闘や中東の不安定な状況も、多くの人を「故郷を追われる存在」にしています。
私たちは直接、会って支援することは難しいかもしれません。だからこそ、想像力で心を寄せることができます。
&#160;・眠れない夜を過ごす子どもたちのこと。
&#160;・家族と離れ離れになった人の痛み。
&#160;・「安心して暮らしたい」という願いが届かない現実。
見えないその一人ひとりを想像し、祈り、学び、行動する力が私たちにはあります。

神さま、すべての避難を強いられている人々に平和と希望の光が注がれますように。
そして私たちの心に、無関心やあきらめではなく、思いやりと連帯の灯がともり続けますように。

T.H. (外国語科）

</description>
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<p>&#160;&#160;みなさんは、自分が「愛されている存在」だと感じたことがありますか？</p>
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<div>　昨年9月、フランスルーツへの旅で、今の高校3年生と一緒にパリに到着した夜、祖母の訃報が届きました。祖母は戦前・戦後の小学校で教員をしていた人で、人にも自分にも厳しい面もありましたが、私は小さいころからそんな祖母が大好きでした。思い返すと、祖母からの一番の贈り物は「無条件に私を認めてくれたこと」だったと思います。</div>
<div>「それでいいのよ」「あなたはあなたのままでいい」という言葉が、今も心に残っています。</div>
<div>　私の人生初の海外旅行もパリで、祖母と泊まった「ホテル日航」が、高３の皆さんと泊まったノボテルだったと知り、不思議な縁を感じました。創立者のルーツをたどる旅でありながら、私にとっては祖母との思い出をたどる旅でもありました。神様からの贈り物だったのかもしれません。</div>
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<div>　梨木香歩（なしきかほ）さんの『西の魔女が死んだ』という小説をご存じですか？ 私の大好きな本のひとつです。</div>
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<div>おばあちゃんはまいにこう伝えます。</div>
<div>&#160;・「大丈夫。まいならできますよ」</div>
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<div>&#160;・「いやなことがあったら、逃げてもいいのよ。でも、逃げる方向を間違えないようにね」</div>
<div>どの言葉にも、「あなたを信じているよ」「あなたのままで大丈夫」という深い愛情があり、まいもやがて「他人がどう思うか」より「自分がどうありたいか」を考えるようになります。</div>
<div>　「愛されている」と感じた経験は、人に優しくする力になります。 私も、誰かの背中をそっと押せるような言葉を発していきたいと思っています。</div>
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<div>　もう一つ、「無条件で受け入れること」の意味を考えさせられた経験を分かち合いたいと思います。</div>
<div>　高校時代、「重度障がい」のある方の施設で、2泊3日のボランティアに参加しました。あるとき、施設の方に30代の男性・Tさんとの散歩を頼まれました。Tさんは落ち着かず、部屋を歩き回り、大きな声を出していました。私は</div>
<div>正直、不安でいっぱいでした。「走り出したら？」「言葉が通じない中で何かあったら？」と。でも思いきって「Tさん、いいお天気ですね」と声をかけ、手をつないでみました。するとTさんは穏やかな表情で歩き始めました。</div>
<div>石や草花、虫に立ち止まりながらの散歩。Tさんが見ている世界に心を寄せてみると、自分には見えていなかった景色が広がっていました。</div>
<div>&#160;時間の流れも景色の見方も違う。でも、その違いを受け入れ、Tさんのペースに身をゆだねたとき、喜びを共有する感覚が生まれました。</div>
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<div>そのとき、「相手の立場に立つこと」「無条件に受け入れること」を大切にしてみてください。</div>
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<div>　6月20日は「世界難民の日」です。国連UNHCRによると、毎年約30万人の赤ちゃんが「難民」として生まれています。</div>
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<div>&#160;・眠れない夜を過ごす子どもたちのこと。</div>
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<div style="text-align: right;">T.H. (外国語科）</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96018/">
<title>2025年6月11日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96018/</link>
<description>
&#160;　前期中間試験が終わり、これから前期の学校生活も後半に入ります。前期前半の学校生活はいかがでしたか？振り返ると新学期が始まってすぐに体育大会に向けた準備やダンスの練習、少しするとゴールデンウイーク、連休明けには体育大会本番を迎え、その後はすぐに前期中間試験、かなり慌ただしい日々だったのではないかと思います。　
　6月に入り、東海地方でも梅雨入りの発表がありました。大雨や台風が多いシーズンに入ります。また、最近は地震のニュースなどもありました。このように災害のニュースを聞くたびに防災意識を持って生活しなければならないと思う方も多いのではないでしょうか。
　防災意識を持つとはどのようなことなのでしょうか？考えてみましょう。例えば、学校や寄宿舎で行われる避難訓練には常に当事者意識を持って取り組む、学校内、登下校中、休日に家で過ごしている時、それぞれの状況下で災害が起こった時に自分の命を守るには、どのように行動すべきかを予め考えることなどが防災意識を持つ第一歩になるのではないかと思います。日々の備えに加えて実際に起こった災害について詳しく知ることもまた防災意識を持つことにつながるのではないでしょうか。今日は私の経験談や失敗談を交えて災害時に大切にして欲しいことについてお話ししたいと思います。

　今からちょうど30年前の1月17日に何が起こったか、すぐに答えられますか？阪神淡路大震災が起きた日です。その時のことを少し振り返ってみます。私が阪神淡路大震災を経験した時は小学校低学年、当時は防災教育や避難訓練などの概念は現在ほど社会全体に浸透していませんでした。当時の私は災害が起こった時に自分や身の回りの人の命を守るにはどのように行動するべきかについても恥ずかしながら全く考えたことがありませんでした。
　実際に地震が起こった時は当時住んでいた建物の下の階が落ちたのではないかと感じるぐらいの強烈な縦揺れが続きました。早朝だったこともあり私は最初、何が起こったのかさえも分からない状況でした。最初に寝ぼけながら発した言葉は「今のはなんだ？」でした。その日は冷え込んでいて、少しずつ目が覚めてきました。寝室を見渡せば家具のほとんどは倒れ、家具のガラス扉は割れ、リビングキッチンでもガラスや食器の破片が散乱していました。この光景を見て私はパニックになりどうすればいいかも分からず、立ち尽くしていました。なぜ、パニックに陥ってしまったのでしょうか？今まで地震がどのような災害で、起こった時にはどのようにして安全確保をするべきか知らなかったからです。母親は滅多に大きな声を出す人ではありませんが、この時ばかりは強い口調で「早く家の玄関から外に出るように」と言われました。破片だらけの寝室からやっとの思いで寝室を出てもリビングにも倒れた家具やガラスの破片がいっぱいの状態、台所ではお鍋の中に入っていたはずの前日の夕食クリームシチューが散乱した状態、必死の思いで家の外に避難したことを覚えています。
　今振り返ると、地震がどのような災害なのかをよく理解し、家具が倒れないような対策をしっかりしておけば、もっとスムーズに安全確保ができたのではないかと思います。

　次に災害時に大切にして欲しいことをお話しします。災害時、一般的には多くの人はパニックになり、落ち着きや冷静さを失ってしまうことが多いと言われています。恥ずかしながら当時の私もその一人です。しかし、そのような災害時だからこそ、周囲の方への気配りや目配りは大切しなければならないと思います。災害時には様々な方が避難します。当然、その中には身体的にハンディキャップを持っている方、年寄り、妊婦の方や小さい子供を抱えた方などもいらっしゃいます。気配り目配りをしっかりとして、誰一人取り残すことなく、安全確保することを意識しなければなりません。
　当時は今のようにスマートフォンは普及しておらず、停電でテレビも映りません。何も情報源がないのです。私はやっとの思いで家を脱出して、車の中で暖を取っていると、けたたましい数の消防車や救急車がサイレンを鳴らして走っているのを見て、「これは大変なことが起こっている」とやっと気が付きました。地震発生が早朝だったため、私は空腹で限界でした。そんな時に近所の方がキャンプ用の調理器具を使ってラーメンを振舞って下さいました。その時、子供同士でラーメン争奪戦が起きてしまいました。私は運よく温かいラーメンを食べることができましたが、周りにはラーメンを食べられず、泣き叫ぶ自分より小さい子供がいっぱいいました。今思えば、なぜ周りの子どもに気配り目配りができなかったのだろうか、自分のラーメンを少しでも取り分けてあげることができなかったのだろうかと考えると、とても恥ずかしい気持ちでいっぱいです。災害発生時は備蓄していたとしても食料や水が特に不足すると言われています。そんな時でも、食料や水がなどの物資が行きわたっていない方がいらっしゃれば自分の物資を分けるなど、困っている人を助けるために今の自分には何ができるか行動できる人になって欲しいなと思います。
　大雨、台風シーズンを迎える今だからこそ、もう一度防災について考え、日々の生活でも周囲への目配りや気配りを大切に過ごしてもらいたいとな思います。これで宗教朝礼を終わります。

Y.O.(英語科)
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-06-11T08:50:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　前期中間試験が終わり、これから前期の学校生活も後半に入ります。前期前半の学校生活はいかがでしたか？振り返ると新学期が始まってすぐに体育大会に向けた準備やダンスの練習、少しするとゴールデンウイーク、連休明けには体育大会本番を迎え、その後はすぐに前期中間試験、かなり慌ただしい日々だったのではないかと思います。　</p>
<div>　6月に入り、東海地方でも梅雨入りの発表がありました。大雨や台風が多いシーズンに入ります。また、最近は地震のニュースなどもありました。このように災害のニュースを聞くたびに防災意識を持って生活しなければならないと思う方も多いのではないでしょうか。</div>
<div>　防災意識を持つとはどのようなことなのでしょうか？考えてみましょう。例えば、学校や寄宿舎で行われる避難訓練には常に当事者意識を持って取り組む、学校内、登下校中、休日に家で過ごしている時、それぞれの状況下で災害が起こった時に自分の命を守るには、どのように行動すべきかを予め考えることなどが防災意識を持つ第一歩になるのではないかと思います。日々の備えに加えて実際に起こった災害について詳しく知ることもまた防災意識を持つことにつながるのではないでしょうか。今日は私の経験談や失敗談を交えて災害時に大切にして欲しいことについてお話ししたいと思います。</div>
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<div>　今からちょうど30年前の1月17日に何が起こったか、すぐに答えられますか？阪神淡路大震災が起きた日です。その時のことを少し振り返ってみます。私が阪神淡路大震災を経験した時は小学校低学年、当時は防災教育や避難訓練などの概念は現在ほど社会全体に浸透していませんでした。当時の私は災害が起こった時に自分や身の回りの人の命を守るにはどのように行動するべきかについても恥ずかしながら全く考えたことがありませんでした。</div>
<div>　実際に地震が起こった時は当時住んでいた建物の下の階が落ちたのではないかと感じるぐらいの強烈な縦揺れが続きました。早朝だったこともあり私は最初、何が起こったのかさえも分からない状況でした。最初に寝ぼけながら発した言葉は「今のはなんだ？」でした。その日は冷え込んでいて、少しずつ目が覚めてきました。寝室を見渡せば家具のほとんどは倒れ、家具のガラス扉は割れ、リビングキッチンでもガラスや食器の破片が散乱していました。この光景を見て私はパニックになりどうすればいいかも分からず、立ち尽くしていました。なぜ、パニックに陥ってしまったのでしょうか？今まで地震がどのような災害で、起こった時にはどのようにして安全確保をするべきか知らなかったからです。母親は滅多に大きな声を出す人ではありませんが、この時ばかりは強い口調で「早く家の玄関から外に出るように」と言われました。破片だらけの寝室からやっとの思いで寝室を出てもリビングにも倒れた家具やガラスの破片がいっぱいの状態、台所ではお鍋の中に入っていたはずの前日の夕食クリームシチューが散乱した状態、必死の思いで家の外に避難したことを覚えています。</div>
<div>　今振り返ると、地震がどのような災害なのかをよく理解し、家具が倒れないような対策をしっかりしておけば、もっとスムーズに安全確保ができたのではないかと思います。</div>
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<div>　次に災害時に大切にして欲しいことをお話しします。災害時、一般的には多くの人はパニックになり、落ち着きや冷静さを失ってしまうことが多いと言われています。恥ずかしながら当時の私もその一人です。しかし、そのような災害時だからこそ、周囲の方への気配りや目配りは大切しなければならないと思います。災害時には様々な方が避難します。当然、その中には身体的にハンディキャップを持っている方、年寄り、妊婦の方や小さい子供を抱えた方などもいらっしゃいます。気配り目配りをしっかりとして、誰一人取り残すことなく、安全確保することを意識しなければなりません。</div>
<div>　当時は今のようにスマートフォンは普及しておらず、停電でテレビも映りません。何も情報源がないのです。私はやっとの思いで家を脱出して、車の中で暖を取っていると、けたたましい数の消防車や救急車がサイレンを鳴らして走っているのを見て、「これは大変なことが起こっている」とやっと気が付きました。地震発生が早朝だったため、私は空腹で限界でした。そんな時に近所の方がキャンプ用の調理器具を使ってラーメンを振舞って下さいました。その時、子供同士でラーメン争奪戦が起きてしまいました。私は運よく温かいラーメンを食べることができましたが、周りにはラーメンを食べられず、泣き叫ぶ自分より小さい子供がいっぱいいました。今思えば、なぜ周りの子どもに気配り目配りができなかったのだろうか、自分のラーメンを少しでも取り分けてあげることができなかったのだろうかと考えると、とても恥ずかしい気持ちでいっぱいです。災害発生時は備蓄していたとしても食料や水が特に不足すると言われています。そんな時でも、食料や水がなどの物資が行きわたっていない方がいらっしゃれば自分の物資を分けるなど、困っている人を助けるために今の自分には何ができるか行動できる人になって欲しいなと思います。</div>
<div>　大雨、台風シーズンを迎える今だからこそ、もう一度防災について考え、日々の生活でも周囲への目配りや気配りを大切に過ごしてもらいたいとな思います。これで宗教朝礼を終わります。</div>
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<div style="text-align: right;">Y.O.(英語科)</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96016/">
<title>2025年5月28日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96016/</link>
<description>
&#160;先週、創立者聖マグダレナ・ソフィア・バラの祝日を迎え、講演会やミサを通じて、人と人とのつながり、そして創立者の思いとのつながりを深く感じられたことと思います。そして、ソフィの思いの中に「時代は変わります。私たちも変わらなければなりません。」というメッセージが残されていますが、今まさに私たちに問いかけられていることだと感じます。
　では、現代において、私たちはどのような変化を求められているのでしょうか。時代の変化を示す身近な例として、AI（人工知能）の普及が挙げられます。画像を生成したり、動画を編集したりするAIが、私たちの生活に深く浸透しています。しかし、便利だからといって「ただ使えばいい」というわけではありません。AIが生成する情報が常に正しいとは限らないため、「自分の頭で考える」ことが不可欠です。
　先日参加したシステム情報科学に関する講演会で、AIリテラシーについて学びました。AIリテラシーは、主に以下の4つのポイントに集約されます。
1つ目に『AIを理解する力』です。AIがどのように動くの？とか、何ができて、何ができないのか？など、その仕組みや限界を知ることです。
2つ目に『AIを正しく使う力』。単に情報をコピー＆ペーストするのではなく、自分の考えを深めるためにAIをどう活用するかを考える力です。
3つ目に『AIが社会に与える影響を考える力』。便利さの裏で、誰かの仕事が奪われたり、差別が生じたりしていないか。私たちが使うAIが、社会にとって本当に良いものかを考える視点が重要です。
&#160;&#160; 最後に、4つ目に『モラル、共感、価値観』です。「自分さえ得すればいい」「楽できればいい」という考え方ではなく、他者を思いやりながらAIを使えるか、という人間としての倫理観が極めて大切になります。つまり、AIリテラシーとは、単にテクノロジーを使いこなすことではなく、人としてどうあるべきかを問う力でもあるのです。
　もう一つ、『XKEYSCORE（エックス・キースコア）』という言葉をご存知でしょうか。これは、アメリカのNSA（国家安全保障局）が行っていた、極秘の監視プログラムの名前です。その目的は「Collect it all」――「すべてを集めろ」というものでした。私たちが日常的に使うスマートフォン、パソコン、カメラ付き家電などの私たちが日々使っているものを通じて、人々の情報や行動が密かに記録・分析されていたのです。この事実は、2013年に元CIA（中央情報局）職員のエドワード・スノーデンによって世界中に暴露され、その監視対象には日本も含まれていたと言われています。現代において、インターネットなしの生活は考えられません。しかし、「タブを閉じれば消える」「履歴を消せば安心」と思っていても、実際には見えないところで多くの情報が残り続けていることがあります。インターネットの世界には、私たちの「足跡」が確かに存在しているのです。
　「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。（ルカによる福音書 8章17節）」とあります。この言葉は、どんなに隠したつもりのことも、、やがて真実が明るみに出ることを教えています。
『XKEYSCORE』のような監視プログラムも、スノーデンという一人の人間の行動によって、世界中に知られることになりました。つまり、「誰にも見られていないから何をしてもいい」という考えは通用しないのです。
　また、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。（マタイによる福音書 7章17節）」という言葉もあります。インターネット上での私たちの行動も、一つひとつが「種」のようなものです。どのような言葉を使い、何を検索し、誰とどう関わるか。そうした選択が、最終的にどのような「実」を結ぶかを決定するのです。今、私たちに求められているのは、「見られているから正しくする」ではなく、「見られていなくても誠実であろうとする心」ではないでしょうか。技術が進んだこの時代だからこそ、人としての信頼や誠実さが、より一層重要になっていきます。どうかみなさん一人ひとりが、ネットの世界でも、現実の世界でも、良い実を結ぶ人になってください。
　今日は、『AIリテラシー』と『XKEYSCORE』について話しましたが、AIやインターネット社会はこれからも進化を続けることでしょう。それらをどう使い、どう関わるかは、私たち一人ひとりの心と行動にかかっています。AIは大量の情報を処理できますが、人の気持ちを感じる力は持っていません。人の表情を読み取り、気持ちに寄り添うことができるのは、人間にしかできないことです。そして、人と人のつながりや、思いのつながりを築いていけるのも、人間にしかできないことだと思います。人間にしかできないことを大切に、AIに振り回されるのではなく、AIと共に良い実を結ぶ人として成長していきたいですね。テクノロジーが進化するこの時代において、あなた自身が人としてどうありたいかを、ぜひ考えてみてください。

A.S.(数学科)
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<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-05-28T13:00:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;先週、創立者聖マグダレナ・ソフィア・バラの祝日を迎え、講演会やミサを通じて、人と人とのつながり、そして創立者の思いとのつながりを深く感じられたことと思います。そして、ソフィの思いの中に「時代は変わります。私たちも変わらなければなりません。」というメッセージが残されていますが、今まさに私たちに問いかけられていることだと感じます。</p>
<div>　では、現代において、私たちはどのような変化を求められているのでしょうか。時代の変化を示す身近な例として、AI（人工知能）の普及が挙げられます。画像を生成したり、動画を編集したりするAIが、私たちの生活に深く浸透しています。しかし、便利だからといって「ただ使えばいい」というわけではありません。AIが生成する情報が常に正しいとは限らないため、「自分の頭で考える」ことが不可欠です。</div>
<div>　先日参加したシステム情報科学に関する講演会で、AIリテラシーについて学びました。AIリテラシーは、主に以下の4つのポイントに集約されます。</div>
<div>1つ目に『AIを理解する力』です。AIがどのように動くの？とか、何ができて、何ができないのか？など、その仕組みや限界を知ることです。</div>
<div>2つ目に『AIを正しく使う力』。単に情報をコピー＆ペーストするのではなく、自分の考えを深めるためにAIをどう活用するかを考える力です。</div>
<div>3つ目に『AIが社会に与える影響を考える力』。便利さの裏で、誰かの仕事が奪われたり、差別が生じたりしていないか。私たちが使うAIが、社会にとって本当に良いものかを考える視点が重要です。</div>
<div>&#160;&#160; 最後に、4つ目に『モラル、共感、価値観』です。「自分さえ得すればいい」「楽できればいい」という考え方ではなく、他者を思いやりながらAIを使えるか、という人間としての倫理観が極めて大切になります。つまり、AIリテラシーとは、単にテクノロジーを使いこなすことではなく、人としてどうあるべきかを問う力でもあるのです。</div>
<div>　もう一つ、『XKEYSCORE（エックス・キースコア）』という言葉をご存知でしょうか。これは、アメリカのNSA（国家安全保障局）が行っていた、極秘の監視プログラムの名前です。その目的は「Collect it all」――「すべてを集めろ」というものでした。私たちが日常的に使うスマートフォン、パソコン、カメラ付き家電などの私たちが日々使っているものを通じて、人々の情報や行動が密かに記録・分析されていたのです。この事実は、2013年に元CIA（中央情報局）職員のエドワード・スノーデンによって世界中に暴露され、その監視対象には日本も含まれていたと言われています。現代において、インターネットなしの生活は考えられません。しかし、「タブを閉じれば消える」「履歴を消せば安心」と思っていても、実際には見えないところで多くの情報が残り続けていることがあります。インターネットの世界には、私たちの「足跡」が確かに存在しているのです。</div>
<div>　「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。（ルカによる福音書 8章17節）」とあります。この言葉は、どんなに隠したつもりのことも、、やがて真実が明るみに出ることを教えています。</div>
<div>『XKEYSCORE』のような監視プログラムも、スノーデンという一人の人間の行動によって、世界中に知られることになりました。つまり、「誰にも見られていないから何をしてもいい」という考えは通用しないのです。</div>
<div>　また、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。（マタイによる福音書 7章17節）」という言葉もあります。インターネット上での私たちの行動も、一つひとつが「種」のようなものです。どのような言葉を使い、何を検索し、誰とどう関わるか。そうした選択が、最終的にどのような「実」を結ぶかを決定するのです。今、私たちに求められているのは、「見られているから正しくする」ではなく、「見られていなくても誠実であろうとする心」ではないでしょうか。技術が進んだこの時代だからこそ、人としての信頼や誠実さが、より一層重要になっていきます。どうかみなさん一人ひとりが、ネットの世界でも、現実の世界でも、良い実を結ぶ人になってください。</div>
<div>　今日は、『AIリテラシー』と『XKEYSCORE』について話しましたが、AIやインターネット社会はこれからも進化を続けることでしょう。それらをどう使い、どう関わるかは、私たち一人ひとりの心と行動にかかっています。AIは大量の情報を処理できますが、人の気持ちを感じる力は持っていません。人の表情を読み取り、気持ちに寄り添うことができるのは、人間にしかできないことです。そして、人と人のつながりや、思いのつながりを築いていけるのも、人間にしかできないことだと思います。人間にしかできないことを大切に、AIに振り回されるのではなく、AIと共に良い実を結ぶ人として成長していきたいですね。テクノロジーが進化するこの時代において、あなた自身が人としてどうありたいかを、ぜひ考えてみてください。</div>
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<div style="text-align: right;">A.S.(数学科)</div>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96011/">
<title>2025年5月21日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96011/</link>
<description>&#160;おはようございます！ 私は皆さんと同じ、この不二聖心の山の上に住んでいる聖心会のシスターの一人です。一昨日、ローマでは新しい教皇レオ14世が世界に向かって話されました。どこか遠い国のことではない、今ここに集まっているあなた方全員一人一人に 向かって「平和が来ますように！」シャローム！平和になりますようと呼びかけられました。この私が平和を持つことが大事なのです。平和は私から始まるのです。（ヨハネ福音書２０章１９節） さて、5月と言えば、聖心女子学院の創立者聖マグダレナ・ソフィア・・・ソフィーとお呼びしましょう、この方の祝日があさって23日にあります。 私は、遠い昔、皆さんと同じここ不二聖心の生徒でした。このように年をとるまで、あれから、何度、この聖心坂を上り、この橋を渡ってきたでしょうか。そして毎年5月のソフィーの祝日は大切な日でした。 ところで誰にとっても不二聖心の生徒として過ごすのは、3年とか4年6年でしょうか。振り返ってみますと永い人生の中では、ほんの短い貴重な年月なのです。 ところで私が卒業生として帰ってきた時、また教師、シスターになって戻って来た時、教師を引退して、今、またあなたと一緒に住む時を過ごしている時を思い出してみます。 ソフィーの祝日に戻ってきた私は、「・・この橋も、道も、景色も何も変わっていない！‥といつも思いました・・が何が変わったのかなと思う次ぎの瞬間、いや変わって来たのは私の方なのだ！」ということに気が付きます。つまり「あなた・・は今朝もいつもの道を通りいつもの橋を渡ってこの不二聖心にきましたね。道や橋は昨日（きのう）も明日（あす）も変わることなく懐かしく、大切なのは「あなたが変わって来ていることです。」「そう、昨日と明日のあなたではない、今日のあなたがいるということです。ですから今日のあなたにエールを贈ります！ ソフィーの祝日は、あなたの魂の中に変わらない大切なもの、みこころの愛があること、そしてそれが成長して人々への愛へ向かっていくことに、気が付く日でもありました。人々に感謝し、喜び合い、喧嘩をしていた人には「ごめんなさい」と許してもらう。みんなが、自分の平和をかみしめる時、それがソフィーの祝日に大切になっているとに気が付くのです。 先日の体育大会の日には、不二聖心の丘から宇宙に向って，放たれた花火のような、皆さんの、元気なエネルギーが大爆発し、にぎやかでしたね。私も観客席で楽しかったです。 あの日、蒔苗校長先生がおっしゃっておられました大切なことです。これからの時代は、新しい時代です。先を越された知能集団AIに対抗していく「新時代の人類あなたたち」が今一番必要とされているのは、体育大会で頑張った皆さんのように、自分を大切にしながらも「人間らしい暖かい心で、仲間と、一緒にすること、支えあうこと、共に考えること」とおっしゃっておられました。新しい時代を担うあなたたちに、ソフィーもきっとそうですよ、と言われているに違いありません。　 シャローム！ソフィーの祝日おめでとうございます！　　　　　　　　　　 M.Y. (修道院)</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-05-21T23:20:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96010/">
<title>2025年5月14日放送の宗教朝礼から</title>
<link>https://www.fujiseishin-jh.ed.jp/teachers_message/2025/96010/</link>
<description>
&#160;　金曜日に体育大会を控える今週、どう過ごしていますか。最後の練習や準備など、それぞれが忙しい日々を送っているのではないでしょうか。慌ただしい時期であるからこそ、貴重な宗教朝礼のこの時間に、心を落ち着けて学院目標について再度ふり返ってみたいと思います。
　今年度の学院目標は「～Joy in Learning あなたの問いを大切に～」です。現在の自分や自分をとりまく状況を客観的に把握し、それらをさらに良くしていくための問いを立て、その問いを解決することで、あるいは解決しようとする過程においてやはり人は成長していくものだと思います。その全体のプロセスのなかでJoy、「喜び」を感じることができれば前向きに日々の学びを進めることができるのではないでしょうか。「学びにおける喜び」について少し私自身の話をしてみたいと思います。
　学生時代、私は教員になるための勉強と並行して、不運にも哲学の勉強にのめり込んでしまいました。哲学というと例えば「人はなぜ生きるのか」や「幸福とは何か」といういわば壮大なテーマについて考えを巡らすものというイメージを持っている人もいるかもしれませんが、大学などで勉強する場合は哲学者や思想家の残した文章を書かれた言葉で厳密に読み解いていくことが重視されます。抽象度の高い文章を一文一文細かく読んでいき、そこで書かれている内容について議論するということが楽しくて仕方がありませんでした。哲学書を書かれた言語で読むために複数の外国語、特に英語・ドイツ語・フランス語を勉強する必要があったのですが、これもまったく苦にならず自分で言うのも変ですが熱心に勉強していたと思います。最近は本を読むこと自体がめっきり少なくなってしまいましたが、時折気が向いて本を手にとるときなどジャンルは決まってそうした系統です。特にきっかけがあったわけでもなく、なぜ好きなのかは自分でも未だによくわかりません。誰に強制されることなく気づけばそれに向かっている状態で、これが私にとってのJoy in Learningの体験でした。もっとも、過去の偉大な人たちが残した文章なので本当に理解できたかどうかは怪しく、勝手気ままに理解した気になっていただけかもしれませんが、少なくともそうしたものを読むことが好きであったことは間違いありません。
　さて、皆さんは夢中になって取り組めるものはありますか。好きであれば勝手に学んでいけるもので、「誰かに言われたから」や「とりあえずしなければならないから」とは違って、学ぶこと自体に喜びや楽しみを見出せるはずです。また、今はまだ実感が湧かなくても、学校で学ぶことは皆さんの将来したいことに直接的ではないにしても間接的に結びついているかもしれません。私の例でいえば、高校までで学んできた文章を正確に読解する国語の力、論理的に物事を思考する数学の力、英語の読解力などあらゆることが哲学をするにあたって役立ったと感じます。改めて「18際のプロファイル」を見返してみましょう。今年度は「知性を磨く」に重点を置く年で、その中には「2 学ぶ喜びと学習の達成感を知っています。」「3 真理を追求したいという意欲が育っています。」「4 知的好奇心が育っています。」とあります。知的好奇心や真理を追い求める意欲をもとに日々の学びを自分から喜びをもって経験し、身につけたことを周囲の人や社会全体のために使える人になれるとよいですね。そして、『聖心会における学習の精神と指導要領』という本にはこう書かれています。「人間形成ということは、でき合いの知識を供給することでもなければ確信や習慣をうえつけることでさえもない。それは子供が、自ら考え、意志するように導くことである。知識は生きた働きをもつものであり、それ故、内から生じるものである。」これは、教師に要求されるものを述べた文脈のなかの一節ですが、ここで述べられている「自ら考え、意志する」ことによって生じる学び、「内から生じる」学びとは、まさに自発的な学び、自分の好きなことを追究することから生じる学びに他なりません。日々の生活のなかで生じる「問い」を大切に、学びが喜びとなるような経験にぜひ多く出会ってください。皆さんが日々さまざまなことにアンテナを高く張り、学校生活やその他の場面でJoy in Learningを多く経験できることを願っています。
　これで宗教朝礼を終わります。

K.O.(外国語科）
</description>
<dc:creator></dc:creator>
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<dc:date>2025-05-14T21:30:00+09:00</dc:date>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin174774429267820000" class="cms-content-parts-sin174774429267827800">
<p>&#160;　金曜日に体育大会を控える今週、どう過ごしていますか。最後の練習や準備など、それぞれが忙しい日々を送っているのではないでしょうか。慌ただしい時期であるからこそ、貴重な宗教朝礼のこの時間に、心を落ち着けて学院目標について再度ふり返ってみたいと思います。</p>
<div>　今年度の学院目標は「～Joy in Learning あなたの問いを大切に～」です。現在の自分や自分をとりまく状況を客観的に把握し、それらをさらに良くしていくための問いを立て、その問いを解決することで、あるいは解決しようとする過程においてやはり人は成長していくものだと思います。その全体のプロセスのなかでJoy、「喜び」を感じることができれば前向きに日々の学びを進めることができるのではないでしょうか。「学びにおける喜び」について少し私自身の話をしてみたいと思います。</div>
<div>　学生時代、私は教員になるための勉強と並行して、不運にも哲学の勉強にのめり込んでしまいました。哲学というと例えば「人はなぜ生きるのか」や「幸福とは何か」といういわば壮大なテーマについて考えを巡らすものというイメージを持っている人もいるかもしれませんが、大学などで勉強する場合は哲学者や思想家の残した文章を書かれた言葉で厳密に読み解いていくことが重視されます。抽象度の高い文章を一文一文細かく読んでいき、そこで書かれている内容について議論するということが楽しくて仕方がありませんでした。哲学書を書かれた言語で読むために複数の外国語、特に英語・ドイツ語・フランス語を勉強する必要があったのですが、これもまったく苦にならず自分で言うのも変ですが熱心に勉強していたと思います。最近は本を読むこと自体がめっきり少なくなってしまいましたが、時折気が向いて本を手にとるときなどジャンルは決まってそうした系統です。特にきっかけがあったわけでもなく、なぜ好きなのかは自分でも未だによくわかりません。誰に強制されることなく気づけばそれに向かっている状態で、これが私にとってのJoy in Learningの体験でした。もっとも、過去の偉大な人たちが残した文章なので本当に理解できたかどうかは怪しく、勝手気ままに理解した気になっていただけかもしれませんが、少なくともそうしたものを読むことが好きであったことは間違いありません。</div>
<div>　さて、皆さんは夢中になって取り組めるものはありますか。好きであれば勝手に学んでいけるもので、「誰かに言われたから」や「とりあえずしなければならないから」とは違って、学ぶこと自体に喜びや楽しみを見出せるはずです。また、今はまだ実感が湧かなくても、学校で学ぶことは皆さんの将来したいことに直接的ではないにしても間接的に結びついているかもしれません。私の例でいえば、高校までで学んできた文章を正確に読解する国語の力、論理的に物事を思考する数学の力、英語の読解力などあらゆることが哲学をするにあたって役立ったと感じます。改めて「18際のプロファイル」を見返してみましょう。今年度は「知性を磨く」に重点を置く年で、その中には「2 学ぶ喜びと学習の達成感を知っています。」「3 真理を追求したいという意欲が育っています。」「4 知的好奇心が育っています。」とあります。知的好奇心や真理を追い求める意欲をもとに日々の学びを自分から喜びをもって経験し、身につけたことを周囲の人や社会全体のために使える人になれるとよいですね。そして、『聖心会における学習の精神と指導要領』という本にはこう書かれています。「人間形成ということは、でき合いの知識を供給することでもなければ確信や習慣をうえつけることでさえもない。それは子供が、自ら考え、意志するように導くことである。知識は生きた働きをもつものであり、それ故、内から生じるものである。」これは、教師に要求されるものを述べた文脈のなかの一節ですが、ここで述べられている「自ら考え、意志する」ことによって生じる学び、「内から生じる」学びとは、まさに自発的な学び、自分の好きなことを追究することから生じる学びに他なりません。日々の生活のなかで生じる「問い」を大切に、学びが喜びとなるような経験にぜひ多く出会ってください。皆さんが日々さまざまなことにアンテナを高く張り、学校生活やその他の場面でJoy in Learningを多く経験できることを願っています。</div>
<div>　これで宗教朝礼を終わります。</div>
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<div style="text-align: right;">K.O.(外国語科）</div>
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